
浜松城の隣にある浜松市役所へ行くとロビーにエヴァンゲリオンの立像が立ってました。めちゃくちゃでかい!
シン・エヴァンゲリオン劇場版に登場する「第3村」のモデルが天竜二俣駅(信玄が攻めた二俣城跡があるところだあ!)なんだそうで、シン・ハママツ計画という遠州鉄道や天竜浜名湖鉄道を巻き込んだイベントを来年2月末までやるそうです。そういえば、浜松城にもパネルが展示されていました。

浜松城の隣にある浜松市役所へ行くとロビーにエヴァンゲリオンの立像が立ってました。めちゃくちゃでかい!
シン・エヴァンゲリオン劇場版に登場する「第3村」のモデルが天竜二俣駅(信玄が攻めた二俣城跡があるところだあ!)なんだそうで、シン・ハママツ計画という遠州鉄道や天竜浜名湖鉄道を巻き込んだイベントを来年2月末までやるそうです。そういえば、浜松城にもパネルが展示されていました。

せっかく浜松まで行ったので有名な三方ヶ原の合戦の舞台へ。調べると浜松駅から気賀駅前まで遠州バスが出ていて姫街道を通り、三方ヶ原を突っ切っていきます。
■三方ヶ原の戦い
家康が信玄に大敗した戦です。浜松城を無視して三方ヶ原に向かう信玄に、このままでは武門の名折れになると家康が攻撃したという通説がありますが、最近の説では信玄は三方ヶ原から堀江城の攻撃にすすんだことが原因のようです。堀江城は浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えられると物流がとめられ浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただ敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられました。
■住宅地の三方ヶ原
三方ヶ原というと草原が拡がる台地イメージだったのですが、遠州バスが走るのは住宅地のなかです。家康軍が最後に一矢報いた犀ヶ崖や銭取(無銭飲食した家康から老婆が金をとったところ)というバス停を通っていきますが、往時の雰囲気はどこにもないですね。ただ姫街道の街道脇には松並木が続いていました。

浜松城は三方原台地の東縁にあたる段丘を利用した平山城で、浜松駅から少し登ったところにあります浜松城の二の丸から少し離れた南側を守るために出丸がありました。現在は浜松市中央図書館になっていて、階段脇に、出城跡の石碑が建っています。見上げるとけっこうな高低差があります。この出丸は家康の伝記「武徳編年集成」に書かれている鳥居曲輪とみられています。鳥居とは鳥居元忠のことで家康が浜松城に在城した時に曲輪に屋敷をかまえ守備していたようです。
鳥居元忠は超有名人で、家康が大坂から会津征伐に向かう途中、伏見城の守備をまかせた鳥居元忠と酒を酌み交わすシーンは必ず映画やドラマで出てきます。「どうする家康」では音尾琢真さんが鳥居元忠を演じていて、武田の間者だった千代ともども伏見城落城で散っていくシーンが描かれていました。

お仕事のついでに久しぶりに浜松城に寄ってきました。
もともとは曳馬城と呼んでいましたが、馬を引くのは敗北につながるので、家康は浜松城に名前を変え城を拡張していきます。もともとの曳馬城は今は城横の東照宮になっています。発掘調査が進んでおり、天守の前にある天守門が復元され、中にも入れました。本丸が整備されていて、古い野面積みの石垣を見ることができるのがいいですね。
家康は武田信玄の侵攻に備えるため、岡崎から東側の浜松に移し、岡崎は嫡男・信康が預かることになります。

豊田でお仕事ですので、ついでに桜城址公園へ行ってきました。前に豊田へ行った時に挙母城跡を見に行きましたが、最初に建てられたのが桜城址公園になります。
徳川氏の譜代の家臣である内藤氏が上野国安中藩から三河国挙母藩に国替えとなり、築城をはじめます。ところが矢作川の大洪水に見舞われ、その後も度重なる洪水の被害を受け改築工事を断念して代わりに挙母城(七州城)が築かれることになり廃城になります。公園には隅櫓の石垣だけが残っています。

珍しく名古屋駅から「こだま」に乗って仕事に向かっていたら、隣の女性が「どこらへんから富士山が見えるのか」という質問が
「静岡駅ぐらいから見え始め新富士駅でしたらバッチリ」と答えておきました。メキシコから観光で来ていて箱根に向かうそうです。めちゃくちゃ日本語が上手で40年ぐらい前に岡山大学に留学して、何回か日本へ来てスペイン語を教えていたそうです。「京都は外国人ばっかりだった!」とも言ってました(笑)
まあ箱根も外国人が多いでしょうが、せっかく小田原駅で降りるのなら小峰御鐘ノ台大堀切なら、外国人はおろか日本人もいない景勝地です(笑)そんな混乱しそうなことは言わずに浜松駅で降りました。

西長堀でお仕事でしたので懐かしい西区民センターをのぞいてきました。隣には三菱の発祥地である土佐稲荷神社があります。西区民センターには船場勉強会でよく来ておりました。
今は昔、ニフティサーブと呼ばれるパソコン通信があり、古いな~あ!このなかにFLIC(ライセンス資格)フォーラムがありました。
フォーラムはまた細分化されており、中小企業診断士試験を目指す会議室には、全国の受験生が集まって切磋琢磨しながら問題を出し合ったり議論していました。オンラインだけでなく、オフラインでも集まろうと全国にリアルの勉強会ができ、大阪にできたのが船場勉強会です。
船場にある中央区民センターを使うことが多かったので船場勉強会になったのですが、私が参加していた頃は西区民センターでの開催が多かったです。終わると難波まで歩いて打ち上げで、この打ち上げが楽しみで通うモチベーションになっていました。

25年ほど前に勤務していた専門学校ビジネスカレッジ京都(最初の名前は関西文理情報会計専門学校)を退職し、ついでに独立。専門学校の母体が予備校で有名だった関西文理学院(カンブリ)です。もともとは新村猛らが創設した京都人文学園でしたが18歳人口減少により2010年3月末で予備校は閉校となりました。
■同窓会
学園としては長浜バイオ大学として残っていますが、関西文理学院、バイオカレッジ京都の閉校から15年経ったこともあり、「生きている間に会おう!」と同窓会の呼びかけがあり、参加してきました。場所は京都駅前の京都新阪急ホテルで25年ぶりに会う方ばかり。人のことは言えませんが皆さん、高齢者なので、乾杯の挨拶も「立てる元気があるうちは立って乾杯しましょう!」という具合です。一人一言のコーナーがありましたが予備校での担任経験が長い職員が多く、話が長い(笑)
京都は左派が強かったのでメーデーには二条城に集合して赤旗を振ってパレードを行い、終わってから木屋町の焼肉屋で打ち上げをしたのが懐かしいですね。

古代・律令時代にも公務員の出張がありました。道路が整備され、駅馬・伝馬の制度ができます。駅では公文書などをリレー形式で運ぶため適切な間隔で人・馬などを常備しました。この駅を現代版にしたのが「道の駅」です。
公務員の出張時には駅鈴が交付され、この駅鈴があると駅で駅子(人足)や駅馬を徴発できました。身分証明書みたいなものだったんですね。この駅鈴ですが隠岐にしか残っていなくって、玉若酢命神社の隣にある億岐家宝物館に保存されています。
本居宣長がこの駅鈴のコピーをもらって愛玩していたことから、松阪駅前にはでっかい駅鈴がおかれています。

隠岐の地酒といえば隠岐誉です。売店などによく売られています。純米酒をよく飲んでいましたが、変わったところでは海藻焼酎があり、ほのかに磯の香がして、なかなかいけます。ただ隠岐に酒蔵メーカーは隠岐酒蔵しかないそうで、1972(昭和47)年に西郷酒造組合に属する全社(5社)で隠岐酒蔵を設立し、共に生き残れる道を選択したそうです。それで日本酒、焼酎、リキュールと多彩なお酒があるんですね。
この時に酒名を公募したそうで「隠岐誉」はこの時に決まったそうです。そうそう時期的に「ひよおろし」も出ていて、なかなかいけました。