中ツ道をゆく(6) 倭恩智神社

倭恩智神社

中ツ道を北上していくと東に森が見え、鳥居が見えたので寄ってきました。溜池のほとりにある小さな神社ですが式内社でした。恩智神社って、八尾の恩智神社(中臣の神さん)と関係あるのかと思ったら建凝命(たけころのみこと)という倭俺知氏の先祖を祭っているそうです。倭俺知氏って、初めて聞いた氏族ですが、そもそもなんて読むのかな。

創立は崇神天皇7年なんで、日本書紀通りならBC91年、通説では崇神天皇は2世紀後半から3世紀とみられているので西暦300年頃、どちらにしてもめちゃくちゃ古い神社です。ここらあたりは城下郡大和郷ですので神社名に倭とついたのでしょう。でも恩智はどこからきたのかなあ八尾の古い地名なんですが

中ツ道をゆく(5) 天満神社

天満神社

中ツ道を歩いていると太田市町(おだいちちょう )という市か町かどっちやねんという土地に天満神社があります。小さな村の神社という風情で誰もお参りする人はいません。そら天満神社なんて全国にたくさんありますからね。少し気になって調べてみたら、ひょっとするとすごい神社かもしれません。

■目原坐高御魂神社の可能性
今は天満神社ですが目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすびじんじゃ)ではないかという説があります。これを論社といいます。論社とは「延喜式神名帳(927年)」に記載された由緒ある神社を式内社といいますが、比定するには複数候補がある神社のことです。式内社の記録によると多氏と関係する氏族が造ったのが目原坐高御魂神社で、多坐彌志理都比古神社(多神社)の別宮となっています。江戸時代には目原坐高御魂神社がどこにあったかは分からなくなりました。

鳥居の前には「勧請縄」が掛けられています。勧請縄とは道切りの一種で、本来は集落の境界などで災厄や疫病などを防ぐために掛けられたものです。奈良の田舎に行くと、よく見ます。

中ツ道をゆく(4) 村屋神社

村屋神社

古代の中ツ道はほとんど残っていなくて道を探しながら北上すると、どっかで見た森が見えてきます。村屋神社か!
そうか村屋神社は中ツ道沿いにあるんだあ!ここには平城である森屋城が戦国時代にあり、森屋氏の城でした。昔、城巡りで村屋神社に来たことがあります。

村屋神社は村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)といい、三輪神社の大物主(おおものぬし)の奥さんである三穂津姫(みほつひめ)を祭っています。

■壬申の乱の舞台
中ツ道は交通の要衝でしたので壬申の乱の舞台にもなっています。村屋に近江から進軍してきたのが犬養連五十君(いぬがいのむらじいそきみ)で、大海人皇子軍を率いていたのは大伴連吹負です。村屋の神さんが大海人皇子軍を助けたと日本書紀に載っています。