下ツ道をゆく(15) 羅城門跡

平城京 羅城門

下ツ道シリーズのラストです。

稗田環濠集落の北側にあったはずの下ツ道は残っておらず、佐保川の堤防をすすんでいくと平城京の羅城門跡があります。川の流れが往時とは変わっており、羅城門は現在の来世橋の位置にあり、礎石が河川敷にあります。下ツ道は羅城門から朱雀門までを幅70mの朱雀大路となり3.7km先の朱雀門まで続きます。こちらも道として残っておらず、平城宮跡歴史公園に復元されているだけです。

羅城門は九条大路にあり平城京の南は九条までと考えられていましたが2018年に十条大路跡が見つかり、藤原京の十条と一致していたことが分かりました。ただ十条大路は遷都からわずか20年以内に埋め戻されたようで大きな謎になっています。東大寺などの外京を東側に造りましたので何か計画していたんですかねえ。

下ツ道をゆく(14) 稗田環濠集落

稗田環濠集落

下ツ道を北上すると、稗田環濠集落にぶちあたります。稗田と聞いてピーンとくるあなた。古事記ファンですねえ!

古事記は太安万侶が稗田阿礼(ひえだのあれ)が語る物語をまとめたものと伝わっています。稗田阿礼については実在したかも含めてよく分かっていませんが稗田環濠集落にある賣太神社の祭神になっています。天照大御神が天岩戸に隠れた時に、岩戸の前で踊って天照大御神を誘い出した神様が天鈿女命(あめのうずめの)で、この系統が猿女君(さるめのきみ)となり稗田に移り住んでから稗田氏となります。

稗田環濠集落は村を守る水堀がよく残っており、戦国時代の雰囲気がよく残っています。

下ツ道をゆく(12) 八条北遺跡

八条北遺跡

西名阪道と京奈和道をつなぐ郡山下ツ道ジャンクションを作る時に発掘調査が行われました。縄文時代などの遺跡のほかに古代の下ツ道も出土しました。今は幅3mあるかないかの街道ですが古代は19mもありました。両側には側溝が作られ東側の側溝が大きく幅が6m以上で深さも2mほどあったので側溝というレベルではないですね。大量のウマの骨などが出土していますので廃棄するゴミ箱代わりだったようです。他にも祭器で使ったものが出土しています。

現在の下ツ道は古代の下ツ道をほぼ踏襲していることも判明しました。下ツ道歴史広場が整備されていますが、案内版とトイレがあるだけで、工事現場だったところをそのまま公園にしたようです。ジャンクションの高架下を下ツ道が通っていますが、ジャンクションを抜けると、ますます幅が短くなり小道になります。

下ツ道をゆく(11) 八条環濠

八条環濠

二階堂駅から北上して下ツ道を歩いていくと菅田神社の鳥居がありました。Googleマップで見ると400メートル行ったところにあります。遠回りになるので行こうかどうしようかと考えて、もう一度地図を見たら菅田神社のまわりに水路みたいなのがあります。もしかして環濠集落?ということで寄り道するとピンポン!八条環濠でした。

当時の環濠集落は堀でかこまれた城で八条環濠も八条平城と呼ばれていました。菅田神社のすぐ横を水路が流れ境内には環濠の名残らしき水たまりがありました。

下ツ道をゆく(10) 二階堂

二階堂

下ツ道は近鉄・二階堂駅のすぐ横を通っています。古い駅で大正時代にできた天理軽便鉄道(法隆寺-天理)の二階堂駅がスタートです。大阪から天理へ向かう天理教信者を想定して軽便鉄道が作られました。ところが大軌(近鉄)が西大寺駅から南進し、橿原神宮駅と結び、天理軽便鉄道を横断する形になりました。これを機として大軌(近鉄)にM&Aされます。1952年に平端-法隆寺が廃線となり、平端ー天理が近鉄・天理線として残りました。

二階堂駅の近くにある二階堂地蔵堂の二層屋根が二階建てに見えたことから二階堂と名付けられたそうです。今の地蔵堂ではなく古い時代のお堂です。もともとは膳夫寺(かしわでら)がありました。聖徳太子の妃、膳夫姫が天香久山の北側に建立した膳夫寺が移建されたものです。時代とともに膳夫寺がすたれ地蔵堂が建てられました。

ということになっていますが橿原市膳夫町にも膳夫寺があり、実のところよう分かりません。

下ツ道をゆく(9) 鍵

鍵

鍵にあるのが有名な唐子・鍵遺跡。出土した土器に楼閣が描かれていて発見された時は邪馬台国だと大騒ぎになりました。弥生時代の初期から集落が作られ最盛期の頃には周囲に環濠が巡り大型建物が建てられていました。この頃に楼閣があったようです。

弥生時代後期になると近畿一円の弥生時代の遺跡において洪水などの痕跡が見つかりますが、唐子・鍵遺跡も洪水にみまわれ建物などは流されましたが、同じ場所で再建しました。そのまま古墳時代にまで突入し、古墳が作られています。ですので弥生時代を通じた全期間の遺物が出土する遺跡になっています。

下ツ道をゆく(8) 蛇巻き

蛇巻

寺川を渡ると今里問屋場がある今里です。ここに杵築神社があり、蛇巻きという風習があります。蛇巻きを行うのは隣の鍵の八坂神社の2つだけのようです。鍵は稲わらで、今里は麦わらで蛇を作って、少年が担いで地区内を練り歩きます。旧暦の5月5日に行われるので端午の節句にちなんだ行事のようです。今は6月第1日曜日に行われます。

田植え時に雨が降るようにという豊作祈願もあるようです。鍵の蛇巻きは下ツ道から少し東に置いてあります。奈良盆地には野神行事というのがあり、塚や樹木にわら製の綱を巻きつけたり、牛馬の絵馬や農具の模型を奉納する風習があるようで、これが蛇巻きになったようです。今年は巳年なんで縁起がよさそうです。

下ツ道をゆく(7) 今里問屋場

寺川

鏡作神社から下ツ道を北上すると寺川を渡ります。寺川がこのあたりから西に向かうことになりますが古代はさらに北上し布留川から豊田山(天理)と結んでいたのでしょう。

古代の下ツ道は中世に中街道となっていました。古代は上ツ道、中ツ道、下ツ道があり、上ツ道は中世は上街道と呼ばれます。中ツ道は使われず、古代の下ツ道が中街道になります。下街道は中街道の西側で古代の道には沿っていません。

このあたりにあったのが今里問屋場という川港です。中世の物流の基本は船運ですので大和川を川船で運び、そこから寺川に入って今里で陸揚げしていました。田原本の荷物が今里問屋場に集められて大いに栄えましたが、鉄道による輸送になり寂れていきます。

ここから東にちょっと行ったところに有名な唐古・鍵遺跡があります。

下ツ道をゆく(6) 鏡作坐天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社

下ツ道ファンの皆さん、おまたせしました。第6弾です!

田原本にあるのが鏡作坐天照御魂神社です。神社の名前通り鏡を作る一族(鏡作部)がこの地に住んでいました。第10代崇神天皇の時に三種の神器のうち八咫鏡を伊勢神宮へ移すことになり、代わりに宮中で保管する鏡を鏡作部に頼んで作りました。草薙剣は熱田神宮に納めらて剣と鏡のレプリカが作られました。

■三種の神器が3セットもある!
三種の神器ですが、もともと北九州で剣、鏡、勾玉のセットが王者のシンボルだった風習がどうも元になったようです。義経が平家を滅ぼした壇ノ浦の合戦で三種の神器も海に沈みます。なんとか鏡と勾玉は救い出されましたが剣は見つかりませんでした。後鳥羽天皇は発見の祈祷と捜索を命じますがダメでした。この時にいろいろと理屈をつけて別の剣をレプリカとします。

この三種の神器ですが南北朝時代にとんでもないことになります。南朝の北畠親房が足利尊氏が京都を留守にした時に南朝に残っていた戦力を集め京都を占拠。ただ足利の反撃で逃れる時に北朝側の上皇や天皇、三種の神器を持ち去り、これには足利も困り果て、いろいろな対策をうたざるをえませんでした。詳しくは「内裏襲撃 禁闕の変異聞」(叢文社)をどうぞ!

なんやらかんやらで太平記によると北陸に1セット(恒良親王+新田義貞)、後醍醐天皇から北朝に渡った1セット、後醍醐天皇が吉野へ持って行った1セットの3つがこの時にあります。

下ツ道をゆく(5) 田原本

浄照寺

笠縫から下ツ道を北上すると田原本があります。近鉄橿原線の田原本駅がありますが、すぐ近くに田原本線(新王寺駅行き)の西田原駅があります。

江戸時代は平野家の陣屋がありました。初代は平野長泰で賤ケ岳の戦いで活躍した七本槍の一人です。近江で3000石をもらっていましたが田原本2000石が加増され5000石になりました。平野家は陣屋を建て、代々この地を領地とし明治まで続きました。残念ながら陣屋は残っていません。

田原本駅近くに浄照寺があり田原本御坊と呼ばれていました。浄土真宗の中心地として寺内町の雰囲気がよく残っています。ここの高麗門は伏⾒城の城⾨を移築したものと言われていますが、あんまり特徴がないので太⿎楼がのっている隣の長屋門が有名です。