西国街道をゆく

西国街道

西国街道は東寺から大坂を経ないで西国(下関)へ至る街道ですが、西宮までのルートは別名「山崎通」とも呼ばれていました。

当時は1日あたり40kmほど歩いたので東寺を出て長岡京(向日町)から山崎宿を通り、芥川宿、郡山宿を抜けて瀬川宿(箕面線の桜井駅ちかく)で宿泊すると約40kmです。2日目は昆陽宿(伊丹)・西宮宿(西宮市)から灘五郷を通って神戸にいたり生田神社あたりで40kmほどになります。山崎通りを2日で通り抜けていて、昔の人は健脚ですね。

西国街道は大坂の北の方を通り、大坂をバイパスする街道になっています。大坂ー西宮間には浜街道があり、西宮で合流します。当時の倍にあたる4日ほどかけて歩きましたが、ほとんど途切れることなく東寺から三宮まで街道が続いていました。

西国街道をゆく(東寺)

東寺

寺が西国街道のゴールです。新幹線で五重塔が見えると京都に来たなという感じになりますが、あの五重塔があるのが東寺です。五重塔の高さですが80mほどで北山通りの標高と同じになります。京都で「上がる下がる」といいますが、高低差から理にかなっています。東寺は平安時代に官寺として西寺とセットで建てられ、羅城門を入ると朱雀大路の両側に五重塔がゲートのようにそびえていました。

やがて空海が真言密教の根本道場として東寺を活用します。この時の印象が強く、東寺といえば空海となっていて、毎月21日(弘法大師の月命日)には弘法市が境内で行われています。同時期に最澄が顕教を広めますが、修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが、これに対して密教は仏の力を借りて、呪文(真言)のような言葉で短期間で悟りに達するため、修行がいやな貴族に歓迎されます。

■どら焼きは東寺が発祥

東寺といえば「どら焼き」は東寺の僧侶が寺でも作れて腹持ちがよいお菓子を命じられ誕生しました。銅鑼で皮を焼いたことから「どら焼」と命名されます。関西では三笠山に似ているところから三笠と呼ばれています。

    ファイティングコンサルタンツ ビール工場へ

    京都ビール工場

    ファイティング・コンサルタンツ研究会。研究会とは名ばかりの歴史探訪&酒飲み集団になっております。JR山崎駅に集合し、雨の中、秀吉と光秀が戦った山崎の合戦の舞台をめぐります。そういえば実際の山崎の合戦も雨でした。

    さて、メインイベントはサントリー・天然水のビール工場(京都)のガイドツアーです。事前予約が必要ですが、この予約をとるのが大変でして、9:30に予約サイトにアクセスすると1時間待ちになっていて、ひたすら待って予約をゲットしました。ガイドツアーでは説明を聞きながら仕込、発酵、貯蔵などの製造工程を見て、見学の後は、お楽しみの試飲タイムです。香るエールやマスターズドリームの飲み比べをしてきました。

    西国街道をゆく(太田城)

    太田城

    西国街道を歩いていると太田茶臼山古墳の案内版に太田城の文字を発見。さっそくGoogleマップで検索すると和歌山の水攻めで有名な太田城が出てきました(笑)。次は地名をいれて検索し、ようやく場所が判明。西国街道を少しはずれて、太田城を見てきました。城跡はなく石碑だけですが、微高地になっています。城の前町といった地名が残っていました。

    場所は追手門学院大学・茨木総持寺キャンパスのすぐ近くで城下町になっていたところはイオンタウン茨木太田になっていました。太田城はすごく古く平安時代末期、1180年前後に太田頼基が築いたといわれています。多田源氏(摂津源氏)ですが、厳密には源満仲(多田源氏の祖)の次男・頼親に始まる系統です。

    「平家物語」によると源義経が頼朝と対立し西国に向けて都落ちする一党に対し、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と太田頼基が少数の手勢を率いて摂津河原津で義経一党と合戦(河原津の合戦)しますが、多勢に無勢で敗れたそうです。

    西国街道をゆく(芥川宿)

    芥川宿

    西国街道は京都と西宮を結ぶ街道です。西宮で中国街道(山陽道)となり下関まで続きます。今の街道は14世紀(鎌倉~室町)くらいには出来上がっていたようで、三好長慶や信長ら戦国大名が通った道になります。

    JR高槻駅から少し歩いたところに芥川宿があります。京都からの宿場町として山崎宿の次の宿場町になります。芥川宿東口に一里塚があり、今は祠がまつられています。江戸試合は参勤交代で使われ、本陣や伝馬などがおかれました。19世紀前半には旅籠33軒、家数253軒を数え大いに賑わっていました。今も格子窓の家々があり風情が残っています。

    八月十八日の政変で三条実美ら七卿が京都を追放され長州に落ち延びる「七卿落ち」が発生しますが、政変の翌日である8月19日に、芥川宿に宿泊しています。

    細川ガラシャの墓(崇禅寺)

    細川ガラシャの墓

    崇禅寺にある足利義教の首塚は疑問がありますが、その隣に細川ガラシャのお墓があります。

    ■細川ガラシャ
    明智光秀の娘で「麒麟がくる」では芦田愛菜が演じていました。細川忠興に嫁ぎますが、秀吉が明智光秀を討つと、謀反人の娘を嫁にしているのはまずいので通常は離縁なんですが、細川忠興は、どうも惚れ込んでいたようで遠隔地に隠したりしています。秀吉が死に、関ヶ原合戦前に石田三成方が細川家の屋敷に押しかけ人質にとろうとします。細川ガラシャはキリシタンで自死ができませんので、自らを家臣に殺害させて、屋敷に火をつけ亡くなります。この影響で他の屋敷から人質をとる動きが弱まります。細川屋敷方は大阪城のすぐ南にあり、今は越中井という屋敷にあった井戸が残っています。

    宣教師が遺骨を集め、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされています。有名な辞世の句が「散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」です。

    貯蓄率が高い理由(子供ぎんこう)

    日本では特に高齢者の銀行貯蓄率が多く、投資にお金がまわっていません。そこで学校で投資の教育をしたり新NISAを始めたりしています。

    ところが、先日、読んだ本に「子供ぎんこう」というのが出てきました。戦後、証券業界もまだまだで荒廃したインフラ立て直しをするために資金が必要でした。海外からの支援として世界銀行から低利融資がありましたが、自前でも資金を確保しないといけません。そこで貯蓄奨励策として政府がはじめたのが子供ぎんこう。

    日本中の多くの小中学校に設立されました。窓口や帳簿付けなどを子どもたちが行います。支店長も子供です。支店長ははじめとする行員は選挙でえらばれます。学校の階段下などのスペースに子供ぎんこうが作られ、預金通帳などを使ってお小遣いなどを預金していました。この預金が高度成長期の高速道路や新幹線を作るお金に回ってきます。

    高齢者の銀行預金割合が多いのは、政府による「預金しましょう」という刷り込みも影響しているようです。

    目加田城

    目加田城

    JR河瀬駅から90分ほど歩くと目加田城にたどりつきます。住宅街の中に高さ3mの土塁などが残っており、現在は公園として整備されています。堀跡などもあり、よく住宅地の中に残りましたね。

    目加田氏は愛知郡八木庄、蒲生郡豊浦庄など藤原氏の荘園を管理する荘官からスタートし、鎌倉時代は佐々木六角氏に仕えていました。織田信長が近江に侵攻して、上洛すると信長に降伏して従うようになります。目加田氏は観音寺城の支尾根の一つに目加田城を築いていましたが、この場所が目加田山(今の安土山)でした。信長が安土城を築くにあたり場所を譲って本貫の地に戻ります。これが現在の目加田城です。

    本能寺の変で目賀田氏は明智光秀方についたため、羽柴方に捕らえられ切腹は免れるものの浪人となり目加田城は廃城となりました。城の近くにはメカタ姓発祥の地という看板があり、目方、目堅などのメカタ姓は目加田が本貫になります。

    淡河城西付城

    淡河城西付城

    淡河西付城

    淡河城の南南西に築かれた付城です。天正7(1549)年に織田信長が越前衆と丹羽長秀に淡河城を攻める付城を構築するように命じましたが実際に付城を造ったのは秀吉のようです。三木合戦では淡河城の城主である淡河弾正は三木城の別所長治に味方し、淡河城は毛利方の花隈から三木城への兵糧の中継基地になっていました。

    淡河城西付城の土塁などはずいぶん低くなっていますが、3つの郭から構成されており土橋なども残っていました。秀吉は3つほどの付城を造り、淡河城は落ち、三木城への補給路の一つが閉ざされることになります。三木の干殺しと呼ばれる三木城の周りに、たくさんの付城が造られて国史跡になっていますが。三田城にしろ淡河城にしろ付城で囲んで戦うというのが織田信長の常道でした。

    滝野氏居館跡

    滝野氏居館跡

    柏原城の隣に滝野氏居館跡があります。鎌倉時代、名張には黒田荘という荘園があり、ここの荘官だったのが大江氏で末裔が百地氏、滝野氏になったと伝わっています。第二次天正伊賀の乱では百地氏、滝野氏などの伊賀衆が柏原城に集結し、織田信長に対して最後の戦いを挑みました。

    ■土塁は仕寄りだった
    柏原城の戦いはけっこう調査が進んでいるようで、滝野氏居館跡は何もない敷地跡になっていますが柏原城の方角にだけ土塁が築かれています。織田軍が攻めるために作った仕寄り跡と案内には出ていました。仕寄りとは竹を束にした防御壁を置き、被害を抑えながら前進するなど攻城戦での基本です。真田丸の戦いでは徳川方は塹壕を掘り、高台を作って真田丸に向かって銃を撃っていました。織田軍は柏原城の周りに仕寄りの土塁を築き、かなり肉薄した戦いを展開していました。