東海道をゆく(逢坂関)

逢坂関

大津から山科に向かう坂が逢坂です。坂の名前の由来は日本書紀で、仲哀天皇の皇子だった忍熊皇子(おしくまのみこ)が武内宿禰と出合ったので逢坂なんだそうです。ほんまかいなあ、なんか会津の話とよく似ていますね。

仲哀天皇の奥さんだった神功皇后が筑紫で応神天皇を出産し、瀬戸内海から紀伊に向かいます。これを阻んだのが応神天皇の異母兄になる麛坂皇子と忍熊皇子で、結局は皇后軍の武内宿禰に敗れました。敗れたのが逢坂です。なんか神武天皇の東征のような話ですね。

この逢坂につくられたのが逢坂の関です。東海道、東山道(中山道)、北陸道が一つになって関を越えていました。古代は不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関が三関でしたが、平安遷都にともなう防衛線再構築で逢坂関が設けられます。残念ながら遺構は残っていません。

東海道をゆく(逢坂山隧道)

逢坂山隧道

東海道本線を通すために大津から山科までトンネルが1880年(明治13年)につくられました。逢坂山隧道で外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた山岳トンネルです。煉瓦作りで側壁はイギリス積みになっています。東海道(国道1号線)沿いにありますが、徒歩でないと行けないので観光客は誰もいませんね(笑)。

大津から京都までまっすぐに東海道を通すためには東山と逢坂山の2つのトンネルが必要で、当時の鉄道土木技術では一つしか無理でした。そこで逢坂山隧道をつくり、山科の追分から南西に山科盆地を下って東山を回り込み、伏見稲荷あたりから現在の奈良線に入って京都駅に至る迂回ルートとなりました。

悲願だった東山隧道もでき逢坂山隧道は1921(大正10)年の路線変更により廃線になるまでの約40年間、使われました。

東海道をゆく(蝉丸神社)

蝉丸神社

百人一首で有名な蝉丸。有名なのが「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という句です。盲目で盲琵琶の名手というところから平家物語を語る琵琶法師の祖ともいわれています。

山科の四宮に住んだと言われており逢坂の関近くになります。亡くなってから関明神に合祀され、これが蝉丸神社になっています。逢坂の関に分社があり、他に上社と下社があります。まず下社に行ってきましたが、境内を京阪電車がぶったぎっていました。東海道沿いに灯篭や神社名の石碑があるんですが、境内に入ると、いきなり踏切になっています。ここは鎌倉の江ノ電かいなというような風情ですね。

下社の祭神は豊玉姫命ですので山幸彦、海幸彦ですねえ。

東海道をゆく(大津宿)

大津宿

江戸・日本橋と京の三条大橋を結ぶのが東海道です。江戸から京へ向かう時、最後の宿場(53番目)が大津宿でした。琵琶湖沿いに西に向かっていた東海道が南に90度曲がって坂を登ったところに2軒の本陣があり、本陣から見る琵琶湖が絶景だったようです。

江戸時代、大津と山科を結ぶ間に車石が敷かれ牛車の往来を助けていました。大津宿の碑の近くにもおかれていました。

日曜日に「坂の上の雲」が再放送されロシア皇帝ニコライ2世が登場しますが、皇太子時代に日本を訪れ斬りつけられ負傷した現場もすぐ近くにあります。いわゆる大津事件です。犯人である津田三蔵の墓は伊賀にあります。伊賀の寺町を歩いている時に見つけ、おおーこんなところにあるんだと驚きました。