下ツ道をゆく(6) 鏡作坐天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社

下ツ道ファンの皆さん、おまたせしました。第6弾です!

田原本にあるのが鏡作坐天照御魂神社です。神社の名前通り鏡を作る一族(鏡作部)がこの地に住んでいました。第10代崇神天皇の時に三種の神器のうち八咫鏡を伊勢神宮へ移すことになり、代わりに宮中で保管する鏡を鏡作部に頼んで作りました。草薙剣は熱田神宮に納めらて剣と鏡のレプリカが作られました。

■三種の神器が3セットもある!
三種の神器ですが、もともと北九州で剣、鏡、勾玉のセットが王者のシンボルだった風習がどうも元になったようです。義経が平家を滅ぼした壇ノ浦の合戦で三種の神器も海に沈みます。なんとか鏡と勾玉は救い出されましたが剣は見つかりませんでした。後鳥羽天皇は発見の祈祷と捜索を命じますがダメでした。この時にいろいろと理屈をつけて別の剣をレプリカとします。

この三種の神器ですが南北朝時代にとんでもないことになります。南朝の北畠親房が足利尊氏が京都を留守にした時に南朝に残っていた戦力を集め京都を占拠。ただ足利の反撃で逃れる時に北朝側の上皇や天皇、三種の神器を持ち去り、これには足利も困り果て、いろいろな対策をうたざるをえませんでした。詳しくは「内裏襲撃 禁闕の変異聞」(叢文社)をどうぞ!

なんやらかんやらで太平記によると北陸に1セット(恒良親王+新田義貞)、後醍醐天皇から北朝に渡った1セット、後醍醐天皇が吉野へ持って行った1セットの3つがこの時にあります。

下ツ道をゆく(5) 田原本

浄照寺

笠縫から下ツ道を北上すると田原本があります。近鉄橿原線の田原本駅がありますが、すぐ近くに田原本線(新王寺駅行き)の西田原駅があります。

江戸時代は平野家の陣屋がありました。初代は平野長泰で賤ケ岳の戦いで活躍した七本槍の一人です。近江で3000石をもらっていましたが田原本2000石が加増され5000石になりました。平野家は陣屋を建て、代々この地を領地とし明治まで続きました。残念ながら陣屋は残っていません。

田原本駅近くに浄照寺があり田原本御坊と呼ばれていました。浄土真宗の中心地として寺内町の雰囲気がよく残っています。ここの高麗門は伏⾒城の城⾨を移築したものと言われていますが、あんまり特徴がないので太⿎楼がのっている隣の長屋門が有名です。

下ツ道をゆく(4) 秦楽寺

秦楽寺

下ツ道を北上していくと笠縫駅に出ます。このあたりの地名が秦荘です。秦ときいて秦河勝(はたのかわかつ)を思い出したあなた!通ですねえ!

秦河勝は聖徳太子の国作りをサポートした秦氏(渡来人)の族長です。聖徳太子から譲り受けた木造弥勒菩薩半跏思惟像を本尊に広隆寺を建てました。能のもとになった大和猿楽四座は秦氏の子孫で、世阿弥の風姿花伝には猿楽の開祖が秦河勝と書かれています。

この秦河勝が創建したのが秦楽寺です。本堂前には大きな池があり、空海が梵字の「阿」の形の池を作ったとされ阿字池と呼ばれています。池の周りになぜか土塁があり秦楽寺城として松永久秀の大和攻めなどで使われてようです。

下ツ道をゆく(3) 下ツ道運河

寺川

近鉄八木駅近くの踏切を超えて下ツ道を北上すると、東から寺川が近づいてきて下ツ道に沿ってまっすぐ北に並走します。道の横に不自然なほどまっすぐな川が続きますので、どう考えても人工的です。この寺川が斉明天皇が作った狂心溝(たぶれごころのみぞ)の一部とみられています。天理市の豊田山から飛鳥を結ぶ大運河で天理周辺の流路は往時と変わっているようです。

京都嵐山から和歌山港に至る約180kmの京奈和自転車道が整備され、この下ツ道がサイクリングロードになっています。とぼとぼ歩いている横を自転車が通り過ぎていきます。

下ツ道をゆく(2) 大和八木

下ツ道

札ノ辻から下ツ道を北上すると、すぐに近鉄大阪線の踏切があります。八木駅は1階が橿原線で大阪線は2階にあります。伊勢から八木駅に向かう時、下ツ道の踏切を過ぎると電車は上にあがり2階ホームに到着します。

近鉄大阪線は横大路と並行して走っていますので桜井駅を過ぎてすぐの戒重で上ツ道と交差、大福駅横の踏切で中ツ道と交差します。古代の古道と交差するのを車窓から楽しめます。

下ツ道をゆく(1) 札ノ辻

札ノ辻

下ツ道とは藤原京の西四坊大路からまっすぐ北に進んで平城京の朱雀大路に至る古代の官道です。日本書紀の壬申の乱に名前がでてきますので飛鳥時代後半には整備されていたようです。下ツ道に平行して中ツ道、上ツ道がまっすぐ北に続いていました。

近鉄八木駅の近くに札ノ辻があり旧旅籠を改装した交流館があります。東西には横大路(伊勢街道)が走り、下ツ道と交差していました。江戸時代、伊勢参りや吉野・大峰山への参詣巡礼で賑わっていた辻で昔の交通ジャンクションですね。ここから下ツ道を北上していきます。

篠山街道(湯の花温泉)

湯の花温泉

亀岡駅を降りて井内城を目指します。けっこう距離があるので事前にバスの時間を調べると9時15分に出るバスがありました。ところが亀岡駅を降りるとバスがいない。よく見ると9時15分発は平日ダイヤで土日はほぼ2時間に1本でした。次のバスまで1時間以上あるので、待つのも面倒だしと歩き始めます。城は篠山街道沿いにあるので、ひたすら篠山街道を歩きます。

篠山街道は山陰と亀岡で分かれ篠山を通って矢名瀬で再び山陰道に合流するまでの約90kmの街道です。明智光秀が八上城など丹波平定をするために使った街道でもあります。Googleマップを見ながら篠山街道を進んでいきますが、途中で372号線を通るコースと篠山街道をそのまま進むコースに分離します。そのまま街道を進んだ方が距離が短いなと判断したのが運の尽き、だんだんと坂道を登ることになります。

そして現れたのが湯の花温泉です。昔、泊まりに行った時に、えらい山の上だなと思ったのを思い出しました。今さら遅いですね(笑)。結局、峠越えをして372号線と合流しました。

熊野街道の起点

熊野街道

渡辺津から熊野三山を目指すのが熊野街道です。

江戸時代、渡辺津には八軒の宿があり八軒家浜と呼ばれていました。今の天満橋で大川を遊覧する船が発着する川の駅「はちけんや」が整備されています。江戸時代はここから伏見まで船運で結んでいて東海道を行き来する旅人が使っていました。坂本龍馬なども伏見との行きかいに使っていました。ちなみに大川は仁徳天皇がつくった難波の堀江(つまり運河)ではないかと言われています。

渡辺津をあがると上町大地の坂を登り熊野街道がスタートします。坐摩神社・元宮には窪津王子がありました。王子とは熊野古道沿いに在する神社で九十九王子あります。1番目の王子になるのが窪津王子です。

街道をゆく 多武峯街道

西内酒造

桜井から談山神社のある多武峯まで続く古道が多武峯(とうのみね)街道です。聖林寺から坂を下っていくと杉玉が!!
西内酒造で150年続いているそうで、なんとも雰囲気があるお店です。明治10年に建てられたそうで、酒蔵は江戸時代のいつ建てられたのかは分からないそうです。玄関の看板に「にごり酒の新酒があります」と記載されており、そっこう店内に入って買ってきました。

まだまだ多武峯街道歩くので一升瓶はやめて720mlです。奈良県産米を70%に精米し、火入れしていない生のにごり酒です。家を帰って飲んだら、とてもクリーミーでいけました。

東海道をゆく(逢坂関)

逢坂関

大津から山科に向かう坂が逢坂です。坂の名前の由来は日本書紀で、仲哀天皇の皇子だった忍熊皇子(おしくまのみこ)が武内宿禰と出合ったので逢坂なんだそうです。ほんまかいなあ、なんか会津の話とよく似ていますね。

仲哀天皇の奥さんだった神功皇后が筑紫で応神天皇を出産し、瀬戸内海から紀伊に向かいます。これを阻んだのが応神天皇の異母兄になる麛坂皇子と忍熊皇子で、結局は皇后軍の武内宿禰に敗れました。敗れたのが逢坂です。なんか神武天皇の東征のような話ですね。

この逢坂につくられたのが逢坂の関です。東海道、東山道(中山道)、北陸道が一つになって関を越えていました。古代は不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関が三関でしたが、平安遷都にともなう防衛線再構築で逢坂関が設けられます。残念ながら遺構は残っていません。