
札ノ辻から下ツ道を北上すると、すぐに近鉄大阪線の踏切があります。八木駅は1階が橿原線で大阪線は2階にあります。伊勢から八木駅に向かう時、下ツ道の踏切を過ぎると電車は上にあがり2階ホームに到着します。
近鉄大阪線は横大路と並行して走っていますので桜井駅を過ぎてすぐの戒重で上ツ道と交差、大福駅横の踏切で中ツ道と交差します。古代の古道と交差するのを車窓から楽しめます。

札ノ辻から下ツ道を北上すると、すぐに近鉄大阪線の踏切があります。八木駅は1階が橿原線で大阪線は2階にあります。伊勢から八木駅に向かう時、下ツ道の踏切を過ぎると電車は上にあがり2階ホームに到着します。
近鉄大阪線は横大路と並行して走っていますので桜井駅を過ぎてすぐの戒重で上ツ道と交差、大福駅横の踏切で中ツ道と交差します。古代の古道と交差するのを車窓から楽しめます。

下ツ道とは藤原京の西四坊大路からまっすぐ北に進んで平城京の朱雀大路に至る古代の官道です。日本書紀の壬申の乱に名前がでてきますので飛鳥時代後半には整備されていたようです。下ツ道に平行して中ツ道、上ツ道がまっすぐ北に続いていました。
近鉄八木駅の近くに札ノ辻があり旧旅籠を改装した交流館があります。東西には横大路(伊勢街道)が走り、下ツ道と交差していました。江戸時代、伊勢参りや吉野・大峰山への参詣巡礼で賑わっていた辻で昔の交通ジャンクションですね。ここから下ツ道を北上していきます。

亀岡駅を降りて井内城を目指します。けっこう距離があるので事前にバスの時間を調べると9時15分に出るバスがありました。ところが亀岡駅を降りるとバスがいない。よく見ると9時15分発は平日ダイヤで土日はほぼ2時間に1本でした。次のバスまで1時間以上あるので、待つのも面倒だしと歩き始めます。城は篠山街道沿いにあるので、ひたすら篠山街道を歩きます。
篠山街道は山陰と亀岡で分かれ篠山を通って矢名瀬で再び山陰道に合流するまでの約90kmの街道です。明智光秀が八上城など丹波平定をするために使った街道でもあります。Googleマップを見ながら篠山街道を進んでいきますが、途中で372号線を通るコースと篠山街道をそのまま進むコースに分離します。そのまま街道を進んだ方が距離が短いなと判断したのが運の尽き、だんだんと坂道を登ることになります。
そして現れたのが湯の花温泉です。昔、泊まりに行った時に、えらい山の上だなと思ったのを思い出しました。今さら遅いですね(笑)。結局、峠越えをして372号線と合流しました。

渡辺津から熊野三山を目指すのが熊野街道です。
江戸時代、渡辺津には八軒の宿があり八軒家浜と呼ばれていました。今の天満橋で大川を遊覧する船が発着する川の駅「はちけんや」が整備されています。江戸時代はここから伏見まで船運で結んでいて東海道を行き来する旅人が使っていました。坂本龍馬なども伏見との行きかいに使っていました。ちなみに大川は仁徳天皇がつくった難波の堀江(つまり運河)ではないかと言われています。
渡辺津をあがると上町大地の坂を登り熊野街道がスタートします。坐摩神社・元宮には窪津王子がありました。王子とは熊野古道沿いに在する神社で九十九王子あります。1番目の王子になるのが窪津王子です。

桜井から談山神社のある多武峯まで続く古道が多武峯(とうのみね)街道です。聖林寺から坂を下っていくと杉玉が!!
西内酒造で150年続いているそうで、なんとも雰囲気があるお店です。明治10年に建てられたそうで、酒蔵は江戸時代のいつ建てられたのかは分からないそうです。玄関の看板に「にごり酒の新酒があります」と記載されており、そっこう店内に入って買ってきました。
まだまだ多武峯街道歩くので一升瓶はやめて720mlです。奈良県産米を70%に精米し、火入れしていない生のにごり酒です。家を帰って飲んだら、とてもクリーミーでいけました。

大津から山科に向かう坂が逢坂です。坂の名前の由来は日本書紀で、仲哀天皇の皇子だった忍熊皇子(おしくまのみこ)が武内宿禰と出合ったので逢坂なんだそうです。ほんまかいなあ、なんか会津の話とよく似ていますね。
仲哀天皇の奥さんだった神功皇后が筑紫で応神天皇を出産し、瀬戸内海から紀伊に向かいます。これを阻んだのが応神天皇の異母兄になる麛坂皇子と忍熊皇子で、結局は皇后軍の武内宿禰に敗れました。敗れたのが逢坂です。なんか神武天皇の東征のような話ですね。
この逢坂につくられたのが逢坂の関です。東海道、東山道(中山道)、北陸道が一つになって関を越えていました。古代は不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関が三関でしたが、平安遷都にともなう防衛線再構築で逢坂関が設けられます。残念ながら遺構は残っていません。

東海道本線を通すために大津から山科までトンネルが1880年(明治13年)につくられました。逢坂山隧道で外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた山岳トンネルです。煉瓦作りで側壁はイギリス積みになっています。東海道(国道1号線)沿いにありますが、徒歩でないと行けないので観光客は誰もいませんね(笑)。
大津から京都までまっすぐに東海道を通すためには東山と逢坂山の2つのトンネルが必要で、当時の鉄道土木技術では一つしか無理でした。そこで逢坂山隧道をつくり、山科の追分から南西に山科盆地を下って東山を回り込み、伏見稲荷あたりから現在の奈良線に入って京都駅に至る迂回ルートとなりました。
悲願だった東山隧道もでき逢坂山隧道は1921(大正10)年の路線変更により廃線になるまでの約40年間、使われました。

百人一首で有名な蝉丸。有名なのが「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という句です。盲目で盲琵琶の名手というところから平家物語を語る琵琶法師の祖ともいわれています。
山科の四宮に住んだと言われており逢坂の関近くになります。亡くなってから関明神に合祀され、これが蝉丸神社になっています。逢坂の関に分社があり、他に上社と下社があります。まず下社に行ってきましたが、境内を京阪電車がぶったぎっていました。東海道沿いに灯篭や神社名の石碑があるんですが、境内に入ると、いきなり踏切になっています。ここは鎌倉の江ノ電かいなというような風情ですね。
下社の祭神は豊玉姫命ですので山幸彦、海幸彦ですねえ。

江戸・日本橋と京の三条大橋を結ぶのが東海道です。江戸から京へ向かう時、最後の宿場(53番目)が大津宿でした。琵琶湖沿いに西に向かっていた東海道が南に90度曲がって坂を登ったところに2軒の本陣があり、本陣から見る琵琶湖が絶景だったようです。
江戸時代、大津と山科を結ぶ間に車石が敷かれ牛車の往来を助けていました。大津宿の碑の近くにもおかれていました。
日曜日に「坂の上の雲」が再放送されロシア皇帝ニコライ2世が登場しますが、皇太子時代に日本を訪れ斬りつけられ負傷した現場もすぐ近くにあります。いわゆる大津事件です。犯人である津田三蔵の墓は伊賀にあります。伊賀の寺町を歩いている時に見つけ、おおーこんなところにあるんだと驚きました。