浦島太郎は建国に関わっていた?

太鼓橋
「かぐや姫」とくれば次は浦島太郎です。浦島太郎というおとぎ話はメチャクチャ古くからあります。
まず正史である「日本書紀」に出てきます。丹波国の浦嶋子(浦島太郎)が釣りに出かけ大亀をつかまえました。この大亀が実は女性で、浦嶋子の奥さんとなり、二人で海中に入って蓬莱山へ行き、仙人たちに会ってきたという話です。日本書紀には別巻があったと最後に書かれていますが残念ながら伝わっていません。別巻を作るぐらい、浦島太郎を重要視していたようです。
日本書紀の成立は養老4年(720年)ですが、それ以前から流布していたのは確実です。蘇我氏が滅んだ時に天皇記、国記が焼けてしまいましたが、おそらく浦島太郎の話が書かれていたのでしょう。
■浦島太郎って誰?
浦島太郎とよく似た人物が神武東征で出てきます。神武天皇が大和へ向かう時に、珍彦(うずひこ)という人物が水先案内人をしますが、これが亀に乗って釣竿を持った人物。
万葉集では浦島太郎の舞台が住吉になっています。住吉神社に祀られている住吉大神は塩土老翁で、モデルが武内宿禰といわれ300歳以上の長命です。この塩土老翁は神武に東征をうながした神さまです。
武内宿禰は昔の紙幣の肖像にも使われていましたが塩土老翁と同じように応神天皇の東征を助け、葛城氏・蘇我氏など豪族の祖となりました。この武内宿禰が浦島太郎ではという説があります。乙巳の変でクーデターを起こした藤原氏にとって、クーデターを正当化できないような、まずいことが書かれていた天皇記、国記を、これ幸いと焼いてしまったという説もあります。
住吉神社といえば太鼓橋が有名ですが、昔はすぐ近くが海岸で、太鼓橋下の池は当時の入り江(ラグーン)の名残と言われています。

かぐや姫の石上麻呂と山城

高安城
かぐや姫の続きです。(笑)
■石上麻呂が監督した山城は?
かぐや姫に出てくる5人の公達の一人が石上麻呂。石上なので、もちろん物部氏です。
石上麻呂は壬申の乱では大友皇子側で、皇子の自殺まで従いました。有能な人物だったようで、のちに赦されて右大臣、左大臣に任じられ、遣新羅大使や筑紫総領も歴任しています。榎本武揚のような存在ですね。日本書紀に石上麻呂が筑紫に派遣され、新しくできた城を監督させたという記録が残っていて、この新しい城について諸説あります。1999年に大宰府周辺で阿志岐城が発見されましたので、まだ見つかっていない山城かもしれません。
■百済遺民が日本各地へ
当時、日本を取り巻く状況が最悪でした。天智天皇が滅ぼされた百済の遺民と組んで唐・新羅連合と戦いますが、白村江の戦いで大敗し、日本は存亡の危機を迎えます。実際、唐は日本への侵攻計画をたてていました。この時に水城、大野城、金田城などが整備され、最後の砦となる大和の守りに作られたのが高安城(1979年に高安城を探る会によって発見)です。天武朝になっても周辺国との緊張が続きましたが、唐と新羅が戦うようになり危機を脱します。
日本へは、新羅に滅ぼされた百済遺民が大挙して移り住みます。昨今の朝鮮情勢で日本へたくさんの難民が来るのではと言われていますが、歴史的に見ると百済滅亡、南宋滅亡など何回もありました。
百済遺民は数も多く、九州などでは6割以上が百済系という事態となり、朝廷では計画的に全国へ遺民を移します。東京都の狛江市や京都精華町の下狛のような土地名が当時の名残です。枚方市には百済寺が大阪には百済貨物ターミナル駅もあります。西武池袋線には高麗駅という名前が残っています。

かぐや姫は藤原氏告発の書!?

かぐや姫
以前、道鏡に由来する由義宮の話題で『藤原氏との権力争いなどから、”かぐや姫”の物語が生まれた』と書いていたら、『なんで、かぐや姫が関係あるの?』という質問がありました。
かぐや姫といえば竹取物語です。あまり知られていませんが一説には藤原氏告発の書と言われています。竹から生まれ美人に育った、かぐや姫に5人の公達が求婚します。5人の公達は、石作皇子、車持皇子、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂で、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物で、壬申の乱や天武・持統朝に活躍した人物です。石作皇子は多治比島ではないかという説もありますが、歴史に埋もれてしまった実在の人物かもしれません。
■車持皇子は藤原不比等のこと?
車持皇子は藤原不比等と言われており、車持は母方の名前です。かぐや姫から「蓬莱の玉の枝」を持ってくるように言われますが、海に出ず、職人に命じて偽装します。ところが職人に賃金を払わなかったことから偽装がばれます。竹取物語では車持皇子が最も卑劣な人物として描かれています。表だって藤原氏を批判するわけにはいかないので、他の4人は実名なのに車持皇子だけ仮名にしたのではと言われています。
月から、かぐや姫を迎えにきますが、その時の台詞が「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)から戻りましょう」で、”(藤原の)穢れた所”という意味と言われています。浦島太郎など日本の昔話は、いろいろと奥深いですねえ。

節分の巻きずし

巻きずしチラシ
津で節分といえば昔も今も平治煎餅の福引せんべいですが、巷(ちまた)ではいつの頃か恵方を向いて巻きずしをかじるという摩訶不思議な風習になっています。
恵方巻なんだそうで始まりは諸説ありますが広まったのは昭和15年に大阪鮓商組合後援会が「節分の丸かぶり寿司」チラシを発行してからです。戦争で中断しましたが、戦後に復活させました。写真は当時のチラシです。
平賀源内が土用の丑の鰻をひろめたり、チョコレート業界がバレンタインチョコを宣伝したりと、商業主義に踊らされていますねえ。さあ、北北西を向いて巻きずしを食べなきゃあ(笑)

永すぎた春(三島由紀夫)

読売新聞・朝刊を見ると一面に「自決9か月前、三島由紀夫の肉声テープ見つかる」の記事が掲載されていました。
仮面の告白、潮騒、金閣寺など有名な著作が多いのですが、三島由紀夫には「永すぎた春」という少し変わった作品があります。主人公が古本屋さんの娘さんで、それも帝大前のたぶん本郷あたりの古本屋という設定です。映画化もされたそうで、そのスチール写真がちょうど振り市(古本の業者の市で本のセリ市)で発声している若い女性でした。(女優の名前は忘れました)
昔、三島由紀夫の初版本を古書市で掘り出してきて、検印にもちゃんと三島と捺されていました。あの本、どこへ行ったかなあ。

万吉稲荷神社-木村重成

木村重成
桜の通り抜けで有名な造幣局ですが、もともとは藤堂藩の大坂蔵屋敷跡です。桜ノ宮の近くだったので屋敷内にもたくさんの桜を植えていて、これが造幣局に引き継がれました。
藤堂藩の蔵屋敷跡というのは知っていたんですが、「築城の名手 藤堂高虎」(戎光祥出版)を読んでいたら藤堂藩の前は木村重成の屋敷があったんですね。そう大坂夏の陣で長宗我部元親と若江・八尾の戦いに出陣し、討死した木村重成です。
さらに調べると木村重成屋敷の鎮守だった稲荷神社はそのまま藤堂藩蔵屋敷の鎮守になっていましたが、明治になって造幣局が造られる時に伊賀上野に移されたそうです。現在は伊賀上野の中心街、上野中町に万吉稲荷神社として現存するそうです。上野商工会議所の近くなんで、今度、商工会議所へ行く機会がある時は、ぜひ寄ってこよっと!

サンタが北太平洋を横断中

サンタ
クリスマス・イブです。今日も北極をスタートしたサンタクロースがプレゼントを配りながら現在、カムチャッカ半島を通過しています。サンタを追跡するのはNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)です。
61年前、シアーズ ・ローバック社が子供向けに「サンタへの直通電話」を開設した時、広告を出した電話番号が間違っていて、なんとNORADの前身であるCONAD(中央防衛航空軍基地)司令長官のホットラインの電話番号でした。子供達からの電話を受けた司令官ハリー シャウプ大佐は、サンタが北極から南に向かった形跡がないか部下にレーダーで確認させます。
電話をかけてきた子供達にサンタの現在地の最新情報を順次伝えたことからこの伝統が生まれ、現在は偵察衛星、イージス艦、サンタカメラネットワークで追跡して動画になっています。
今、見たらサンタは北太平洋を横断中でウェーク島へ向かっています。
→ サンタ追跡サイト

忘年会、欠席の弁

12月がスタートし、忘年会シーズンに突入。
今日は大阪府中小企業診断協会の交流会”いちもく会”の忘年会ですが、残念ながら欠席です。なんせ明日は朝から人間ドッグです。
皆さん、ご存じのように人間ドッグ前夜に酒を飲むような人間はおりません。それなら忘年会で酒を飲まなければよいというのはムリな相談です。皆がおいしいお酒を飲みながらワイワイやっている横で、なにが悲しくてウーロン茶を飲まないといけないのか。
冬の高野山でいてつく寒さのなか朝6時からの勤行に参加するなど、それなりに修行はしましたが、そこまで悟りきれておりません。”櫓三年に棹八年”と申します。何事も一人前になるには修行が必要ですが、まだまだ若輩者です。というわけで忘年会は欠席です。
”忍の一字は衆妙の門”という言葉もあります。耐え忍ぶことこそが成功への第一歩となります。人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず...。
あ~あ、お酒飲みたいな~あ!

九度山

真田昌幸
大河ドラマ「真田丸」いよいよ大坂冬の陣ですねえ。
真田昌幸、真田信繁が追放された場所が高野山の麓である九度山。先日、中小企業診断士仲間と九度山へ行ってきました。
高野山は当時女人禁制で、空海の母親でも入れません。そこで母親は麓にある慈尊院に滞在し、空海が高野山から1ケ月に9回も通ったことから九度山という地名がついたといわれています。
真田一行には女性もいますから、女人禁制の高野山には入れません。徳川の許可をとって九度山に落ち着くことになります。九度山は3方を紀ノ川、壬生川、小さな川に囲まれており、外へ出るのは1方向で島に近いような立地でした。これなら幽閉先としては最適ですね。
壬生川の上にある丘に真田庵があり、ここが真田屋敷跡。九度山で亡くなった真田昌幸のお墓もあります。大勢の人が手をあわしていました。

ツンドクが増えた

本
サンパルにある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談をしていた時は隣のダイエーにジュンク堂があったので、昼休みに本の買い出しにせっせと通っていました。
最近は三重県産業支援センターとマイドーム大阪で窓口相談をしていますが、問題が一つあって昼休みに行けるようなところに本屋がない!
三重県産業支援センター近くの四天王寺会館に古本屋ができたと聞いたので、先日行ってみましたが、まだまだ本が少なかったですね。
今日は久しぶりに丸善へ行けたので、ドヤドヤと7冊ほど買うと1万円ほどに、鞄に放り込んで帰ってきましたが、ツンドクの山に追加されただけ、我ながらいつ読むんだろう。でも見つけた時に買っておかないと本屋の棚からはすぐ消えてしまいますねえ。