永すぎた春(三島由紀夫)

読売新聞・朝刊を見ると一面に「自決9か月前、三島由紀夫の肉声テープ見つかる」の記事が掲載されていました。
仮面の告白、潮騒、金閣寺など有名な著作が多いのですが、三島由紀夫には「永すぎた春」という少し変わった作品があります。主人公が古本屋さんの娘さんで、それも帝大前のたぶん本郷あたりの古本屋という設定です。映画化もされたそうで、そのスチール写真がちょうど振り市(古本の業者の市で本のセリ市)で発声している若い女性でした。(女優の名前は忘れました)
昔、三島由紀夫の初版本を古書市で掘り出してきて、検印にもちゃんと三島と捺されていました。あの本、どこへ行ったかなあ。

万吉稲荷神社-木村重成

木村重成
桜の通り抜けで有名な造幣局ですが、もともとは藤堂藩の大坂蔵屋敷跡です。桜ノ宮の近くだったので屋敷内にもたくさんの桜を植えていて、これが造幣局に引き継がれました。
藤堂藩の蔵屋敷跡というのは知っていたんですが、「築城の名手 藤堂高虎」(戎光祥出版)を読んでいたら藤堂藩の前は木村重成の屋敷があったんですね。そう大坂夏の陣で長宗我部元親と若江・八尾の戦いに出陣し、討死した木村重成です。
さらに調べると木村重成屋敷の鎮守だった稲荷神社はそのまま藤堂藩蔵屋敷の鎮守になっていましたが、明治になって造幣局が造られる時に伊賀上野に移されたそうです。現在は伊賀上野の中心街、上野中町に万吉稲荷神社として現存するそうです。上野商工会議所の近くなんで、今度、商工会議所へ行く機会がある時は、ぜひ寄ってこよっと!

サンタが北太平洋を横断中

サンタ
クリスマス・イブです。今日も北極をスタートしたサンタクロースがプレゼントを配りながら現在、カムチャッカ半島を通過しています。サンタを追跡するのはNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)です。
61年前、シアーズ ・ローバック社が子供向けに「サンタへの直通電話」を開設した時、広告を出した電話番号が間違っていて、なんとNORADの前身であるCONAD(中央防衛航空軍基地)司令長官のホットラインの電話番号でした。子供達からの電話を受けた司令官ハリー シャウプ大佐は、サンタが北極から南に向かった形跡がないか部下にレーダーで確認させます。
電話をかけてきた子供達にサンタの現在地の最新情報を順次伝えたことからこの伝統が生まれ、現在は偵察衛星、イージス艦、サンタカメラネットワークで追跡して動画になっています。
今、見たらサンタは北太平洋を横断中でウェーク島へ向かっています。
→ サンタ追跡サイト

忘年会、欠席の弁

12月がスタートし、忘年会シーズンに突入。
今日は大阪府中小企業診断協会の交流会”いちもく会”の忘年会ですが、残念ながら欠席です。なんせ明日は朝から人間ドッグです。
皆さん、ご存じのように人間ドッグ前夜に酒を飲むような人間はおりません。それなら忘年会で酒を飲まなければよいというのはムリな相談です。皆がおいしいお酒を飲みながらワイワイやっている横で、なにが悲しくてウーロン茶を飲まないといけないのか。
冬の高野山でいてつく寒さのなか朝6時からの勤行に参加するなど、それなりに修行はしましたが、そこまで悟りきれておりません。”櫓三年に棹八年”と申します。何事も一人前になるには修行が必要ですが、まだまだ若輩者です。というわけで忘年会は欠席です。
”忍の一字は衆妙の門”という言葉もあります。耐え忍ぶことこそが成功への第一歩となります。人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず...。
あ~あ、お酒飲みたいな~あ!

九度山

真田昌幸
大河ドラマ「真田丸」いよいよ大坂冬の陣ですねえ。
真田昌幸、真田信繁が追放された場所が高野山の麓である九度山。先日、中小企業診断士仲間と九度山へ行ってきました。
高野山は当時女人禁制で、空海の母親でも入れません。そこで母親は麓にある慈尊院に滞在し、空海が高野山から1ケ月に9回も通ったことから九度山という地名がついたといわれています。
真田一行には女性もいますから、女人禁制の高野山には入れません。徳川の許可をとって九度山に落ち着くことになります。九度山は3方を紀ノ川、壬生川、小さな川に囲まれており、外へ出るのは1方向で島に近いような立地でした。これなら幽閉先としては最適ですね。
壬生川の上にある丘に真田庵があり、ここが真田屋敷跡。九度山で亡くなった真田昌幸のお墓もあります。大勢の人が手をあわしていました。

ツンドクが増えた

本
サンパルにある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談をしていた時は隣のダイエーにジュンク堂があったので、昼休みに本の買い出しにせっせと通っていました。
最近は三重県産業支援センターとマイドーム大阪で窓口相談をしていますが、問題が一つあって昼休みに行けるようなところに本屋がない!
三重県産業支援センター近くの四天王寺会館に古本屋ができたと聞いたので、先日行ってみましたが、まだまだ本が少なかったですね。
今日は久しぶりに丸善へ行けたので、ドヤドヤと7冊ほど買うと1万円ほどに、鞄に放り込んで帰ってきましたが、ツンドクの山に追加されただけ、我ながらいつ読むんだろう。でも見つけた時に買っておかないと本屋の棚からはすぐ消えてしまいますねえ。

真田丸

真田丸
真田丸、ご覧になっていますか。
時代考証がけっこうしっかりしていて、主人公も真田幸村ではなく真田信繁になっているし、信繁の父親である真田昌幸が武田信玄に仕えていた頃には武藤喜兵衛と名乗っていました。真田昌幸が徳川家康と初めて会う時にこの武藤喜兵衛の名前が出ていたので、思わずテレビの前で「オオッ!すごい」と思っておりました。
武田勝頼滅亡の前兆となった浅間山噴火や指月伏見城が慶長伏見大地震で倒壊してしまい、木幡山に造り直すところもしっかり描かれていました。
先日、真田丸のオープニングを見ていたら西股総生の名前を発見。真田丸では戦国軍事考証を担当しているそうです。西股総生氏は中世城郭の研究家で「城取りの軍事学 築城者の視点から考える戦国の城」などの著作がたくさんあります。上田合戦では鉄砲を防ぐための竹把が登場しており、なかなかリアルです。

自力救済

自転車
大河ドラマ「真田丸」ですが、いよいよ関ヶ原の合戦です。残念ながら前哨戦となった津城の戦いは出てこないでしょうねえ。
関ヶ原の合戦は秀吉亡き後の覇権争いですが、秀吉が出した総無事令に反することになります。北条討伐の根拠ともなったこの総無事令は画期的な法律でした。
現在の法体系では自力救済が禁止されています。よくある例が自転車で、盗まれた自転車が駅前の駐輪場にあるのを発見した時、そのまま乗って帰ると窃盗罪になり罪に問われます。これが”自力救済の禁止”。これを認めると強者が何をしてもよいという世の中になるので禁止されています。
■戦国時代は自力救済
戦国時代は自力救済が原則でした。荘園の所有権を幕府に認めてもらっても、そこに占有者がいれば自分で排除しなければなりませんでした。黒澤映画の「七人の侍」で村人が村を守るために侍を雇いますが、これも自力救済です。ですので全国に山城や”村の城”が造られ、私がせっせと登ることになります(笑)。
自力救済の世の中を変えるために出されたのが総無事令。信長や他の大名も支配地域での総無事を出していましたが、秀吉による天下統一で日本中の総無事が実現できました。徳川幕府も総無事を踏襲しましたが、由井正雪の乱など殺伐とした戦国の雰囲気は残っていました。それをなくすために出されたのが綱吉の生類憐みの令になります。

ツン読が3列に

MBS
朝からLEC梅田で経営情報システムの講座。
 
中小企業診断士1次試験まで残り2ケ月を切りましたので、皆さん追い込みモードです。午後の講座まで少し時間があったのでLECの近くにある茶屋町へ。
 
写真は4チャンネルのMBS(毎日放送)で隣がロフトです。そのまた隣がジュンク堂&丸善で、ここは1階から7階まで本が揃っています。
 
日本史の中世コーナーへ行くと、新刊がいろいろ出ており、調子にのってカゴに入れていたら、1万円以上の会計でした。ツン読にしないで、せっせと読まないと!とりあえずツン読が3列になっていしまいました。

ポーの一族

ポーの一族
先日、コミック誌では珍しく重版出来(じゅうはんしゅったい)となった掲載誌(月刊フラワーズ7月号)を奥さんが買ってきました。書店で「最後の一冊です」とアナウンスしていたので思わず買ったそうです。なんせ新作が出るのは40年ぶりですからねえ。そういや「ガラスの仮面」はどうなったんだろう(笑)。
■固定相場制と変動相場制
「ポーの一族」が連載されていたのが1972年~1976年。前年の1971年にはニクソンショックが起きます。日本は1ドル360円の固定相場制から、やむなく現在のような変動相場制に移行します。もっとも江戸時代には金、銀、銭の3つの貨幣が混在し、変動相場制でしたので両替商が発達しました。ところが明治政府が円に統一してしまったため、「あさが来た」の山王寺屋のように両替商は存在意義がなくなり没落していきます。
明治政府が円に統一したのが1871年(明治5年)なのでニクソンショックがあった1971年までの100年間が固定相場制の時代になります。両替商は室町時代には登場していますから、日本は変動相場制の方が長い国になります。現在のように通貨価値が刻々と変る状況がふつうでした。
■海外旅行が珍しかった時代
「ポーの一族」連載が始まった1972年といえば、まだまだ海外旅行が珍しい時代です。ヨーロッパを舞台に描かれていたため、読者にヨーロッパとは、こんな感じなんだとイメージが浸透していきます。なんせ、海外渡航制限が解除され日本人が自由に海外旅行ができるようになってから8年しか経っていません。バックパッカーのバイブルである「地球の歩き方」の創刊は1979年です。
就職前の1982年、「地球の歩き方」を片手にバックパックを背負ってヨーロッパをまわっていた時、パリ北駅の両替で「日本の銀行が発行したトラベラーズチェックは扱えません」という張り紙を見た時は”日本の力はまだまだなんだなあ”と思ったのを記憶しています。当時のパリはゴミが多く、「ポーの一族」のヨーロッパとは全然、違っていました。