「唐津くんち」で有名な唐津にあるお城。邪馬台国時代は末盧国でした。
唐津湾に面して城が造られており、海にそびえる海城になっています。城の周りを巡ってみましたが、海岸線から石垣がめぐらされていて、なかなかすごいです。
唐津城を造ったのは秀吉家臣だった寺沢広高で、唐津藩の初代藩主になります。尾張の出身で朝鮮出兵では物資の輸送など兵站を担当しました。三成らと立場は同じで武断派とは対立していましたが、関ヶ原の戦いでは東軍につき、家を守りました。
寺沢広高には友人との逸話が残っています。若い時、出世して国主となったらもう一人をは10分の1の禄をもって家臣にしようと約束しました。友人は光秀に仕えますが、本能寺の変で没落。寺沢広高は約束を忘れず、国主になった時に石高の10分の1で友人を召し抱えています。
天守閣は復興天守で、耐震工事のため1階から4階までは工事中。5階展望所のみが解放されていますので、せっせと階段を登ります。途中でめげないよう、現在何段目であと何段残っているか案内がいくつか設けられていました。天守からの眺めは絶景です。
カテゴリー: 九州の山城
木下延俊陣跡(名護屋城)
朝鮮出兵には全国各地の大名が動員され、名護屋城の周りにはたくさんの陣が造られました。現在、118ヵ所の陣跡が確認されていて、うち65ヵ所に遺構が残っているそうです。
昭和バスに乗っていると伊達正宗陣跡というバス亭もありましたし、そこかしこに前田利家陣跡などの小さな看板が建っていました。そんななか、一番近くにあるのが木下延俊陣跡。名護屋城博物館の裏手の山の上にあります。博物館近くを太閤道(唐津街道)が走っていて、これを監視する場所にあります。
■木下延俊は「おね」の甥
木下延俊ですが木下という名前がついている通り、秀吉の奥さんである「おね」の親戚で、甥にあたります。木下延俊の兄弟が小早川家に養子で入り、これが小早川秀秋。
朝鮮出兵時、木下延俊は三木城攻めで有名な播磨三木郡2万石の大名でした。関ヶ原の戦いでは家康側につき豊後の日出藩として幕末まで続きます。
陣跡を取り囲んだ石塁の跡などが残っていますが、枡型虎口もあり小さな山城という風情。どうも茶室もあったようで、なかなか優雅です。変わったところではトイレと思われる遺構もありました。
特別史跡に指定された陣跡は23もあり、堀秀治陣跡の復元CGを博物館で見ましたが茶室も能舞台もある、すごい陣。この陣跡をぐるっとまわるとなると、かなりの時間がかかりそうです。
名護屋城 韓国にも城好きがいた
雪の佐賀城の後、唐津線で唐津へ。唐津で一泊し、朝一番、唐津バスセンターから昭和バスに乗って名護屋城へ行ってきました。
秀吉が行った文禄・慶長の役の後方基地になったのが名護屋城です。天守閣跡に登ると、遠くは対馬を見ることができます。まだ博物館も開いていない早朝に誰も城跡に登っているものはいないだろうと天守閣跡に登ると、先人が一人。
碑をバックに写真を撮ってほしいということで撮影したことで話し込むことに。実は韓国から来日したそうで、広島に1年ほどいたこともあり日本語は完璧。韓国の電力会社を定年退職し、現在は順天市で観光ガイドをしているそうです。
なんと韓国にも城好きがいるんですね。文禄・慶長の役で朝鮮に渡った日本軍が築いたのが倭城で30ほどあります。研究会でこの倭城巡りをしているそうです。ですので倭城の原点である名護屋城を見に来たというわけです。
へ~え。というわけで天守閣跡からいろいろな曲輪巡りをご一緒することに。登り石垣、切り込みハギ、算木積みなど全て通じるのがすごいですねえ(笑)
雪の佐賀城
佐賀には昔、神崎荘という荘園があり、管理していたのが平忠盛(清盛のお父さん)で伊勢平氏です。と言いますか、津にあるウチの母方の里が平忠盛が生まれた土地でして、どうも先祖の一人は平氏関係だったようです。という因縁がある佐賀へセミナーでやってきました。
セミナーが終わってから佐賀城へ。
本丸跡には本丸御殿が復元されていて、なかなか見応えがあります。堀や土塁も残っており、とってもいいですねえ。佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城です。
戦国時代の九州はさながら三国志のような様相で、島津、大友、龍造寺が九州を三分していました。龍造寺の家老だったのが鍋島氏。結局は主筋である龍造寺にとって代わるので、儀の曹操から乗っ取った司馬氏のようなものですね。
鍋島氏は村松城を拡張し、佐賀城になりました。鍋島といえば柳生新陰流で、小城藩を起こした鍋島元茂に柳生但馬守は兵法家伝書を与えました。死の床にあったので、花押を最後の力で印したため大きく乱れ、乱れ花押と伝えられます。剣に生きた鍋島家で、やがて「葉隠」が生まれます。
佐土原城跡
せっかく宮崎まで来たのでゆっくりするつもりが、お昼に大阪へ戻る用事ができたため、スケジュールを組み直し、朝早く宮崎バスで佐土原へ。
バスには通学する高校生も乗っているんですが、高校に着くと運転手が「寝ている生徒がいたら起こしてあげてください」とのアナウンス。けっこう郊外なので乗り過ごすとえらいことになるからでしょうえ。しばらく走ると交流センターというバス停があり、バス亭のすぐ近くに佐土原城跡があります。
佐土原城の麓には二の丸御殿の一部が復元されていますが、歴史資料館も含めて朝早くなんで当然、空いていません。まあ目的は山城なので御殿脇から山の中へ。道がきれいに整備されていますので、スーツ姿で登れる山城です。犬の散歩をしている地元の人もおりました。
主郭はめちゃくちゃ広く、天守閣もあったようです。南の城は虎口がなかなかすごく、堀切もしっかり残っていました。
佐土原城は昨日、行った宮崎城と同様、伊東氏の城の一つでしたが、島津が九州を席巻した時には島津義久の実弟である島津家久が城主として入っていました。関ヶ原の頃には島津豊久が城主。関ヶ原に島津義久と共に出陣し、島津の退き口で亡くなった武将です。
関ヶ原から無事に日向までたどりついた島津義弘は佐土原城に入ってから鹿児島に向かいました。
宮崎城
宮崎でのセミナーが終わった後、路線バスに乗車し池内へ。
宮崎バスは11月からICカードが使えるようになったようでイコカで大丈夫でした。途中、平和が団地というところをグルグル回りながら池内にようやく到着。バス停のすぐそばに宮崎城という大きな看板が立っていました。これは分かりやすくてありがたいですね。
着いたのは夕方なので日没までに登らないと山の中で真っ暗になると強行軍でした。(笑)さすが南国・宮崎、17:30頃まで日がありました。山城なんですが地元の人が整備してくれるおかげで、とっても歩きやすい山道になっています。スーツ姿でも大丈夫でした!
宮崎城は南北朝時代に造られた山城です。戦国時代は工藤祐経の子孫で日向に下向した伊藤氏の居城で、関ヶ原の戦いの舞台にもなった山城です。黒田官兵衛もからんでいます。宮崎城には服部城、目曳城、本丸城、百貫城、彦左衛門城などの名前が各曲輪につけられています。曲輪の守将に由来するようです。