松塚環濠集落

松塚環濠集落
松塚環濠集落

松塚環濠集落です。

戦国時代、大和では興福寺が守護職を務めていて、核となる戦国武将はいませんでした。しかし北では筒井・古市・箸尾氏が、南では越智・十市・楢原氏が、宇陀では秋山・沢・芳野氏が勢力を伸ばし、それぞれが引っ付いたり敵対したりと大和も戦乱の時代でした。

この時代、村や町の周りを堀で囲んで防衛する環濠集落が作られます。寺が中心となると寺内町となります。また戦国時代の堺は堀で囲まれた環濠集落というより城でした。近鉄・大阪線の普通しか止まらない松塚駅を降りると、駅のすぐ近くに嚴島神社(市杵嶋神社)があり、水堀が残っています。町を歩くと道が狭く、まっすぐの道はほとんどありません。また西側は葛城川が堀代わりになり水堀は北、東、南に造られました。北西にある琴平神社のところが高台になっていて櫓代わりになっていたようです。

大和龍田城

大和龍田城
大和龍田城

秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで活躍した7本槍の一人が片桐且元。関ケ原の戦い後は大和龍田村に2万8千石の大名として陣屋を構えていました。大坂方で家康と交渉をしていましたが方広寺の鐘名事件が起きます。 

■方広寺 鐘名事件 
「国家安康 君臣豊楽」という文字が家康を呪うものだという言いがかりです。鐘を作ったのは津の鋳物師辻家で、銘文を書いたのは京都南禅寺の清韓長老です。 

清韓長老と辻家は捕まりますが、家康が信頼していた藤堂高虎が津にひきとったようで清韓長老のお墓は津の上宮寺にあります。清韓長老が津に来たのは出身が鈴鹿だったことも関係しているのでしょう。辻家は息子が専修寺、津四天王寺、松阪の岡寺の鐘などを作っています。 

■大坂の陣 
片桐且元は釈明に駿府へ向かいますが家康は会わず、淀を江戸へ人質に出すなどの条件を示されます。ところが同時期に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われて帰ってきます。全然、違う情報が届いた大坂方は片桐且元を疑い、これがために大坂城を退去し、大坂の陣へと突入していきます。大坂の陣のすぐ後に亡くなっています。 

豊臣が滅んでも方広寺の鐘名はそのままだったので、やっぱり言いがかりだったんでしょうね。 

■大和龍田城 
片桐且元の嫡男から4代続きましたが、跡継ぎがいないために廃城となりました。且元の弟の子孫は、龍田の隣りにある大和小泉をおさめ明治まで続きました。大和龍田城の城跡はなく住宅地になっていますが、少し高台になっていて郭があったことが分かります。平太池あたりに堀の雰囲気が残っています。

十市平城

十市平城
十市平城

大和は国人の国でしたが、そのなかでも力があったのが大和四家。越智・十市・箸尾・筒井の四氏です。十一氏の城が近鉄・橿原線の新ノ口駅と笠縫駅のちょうど間ぐらいにあります。

十市氏は筒井氏と越智氏の勢力にはさまれて没落していましたが、河内守護畠山氏の被官だった木沢長政が大和に侵攻すると形勢を盛り返し領地を回復します。十市遠忠が当主となると龍王山城を整備し全盛時代を迎えます。

十市遠忠は歌人としても有名で、館を城(十市平城)として拡張します。しかし後継者の十市遠勝が死去すると家臣団が筒井派と松永久秀方に分裂。十市平城は筒井方となり松永方についた龍王山城と争うことになります。そこへやってきたのが織田信長、原田直正を大和守護としたため十市平城は原田直正に接収されます。

当時、城の横を寺川が流れ堀代わりになっていました。今は田んぼの中の微高地に城跡が残っていて筒井城とよく似ています。

芝陣屋

芝陣屋
芝陣屋

山城シーズンが終わってしまいましたので平城巡りをしています。早く寒くならないかな~あ。今回は奈良にある芝陣屋跡です。

有楽町にその名前を残している織田長益(有楽斎)は織田信長の弟です。大坂城で姪の淀殿を補佐していましたが、基本は穏健派で、戦に傾く城内におられず大坂夏の陣までに大坂城を離れ京都に隠棲します。子供は徳川家に仕えることになりますが四男・長政が開いたのが戒重藩。今の桜井駅近くに陣屋がおかれました。第7代藩主の時に芝村に移転し芝陣屋が作られます。芝村は箸墓近くにあります。

芝陣屋跡は現在、織田小学校になっています。小学校横には建勲神社があり織田信長の像がありました。石垣や堀の一部が残っています。織田家は明治まで続きました。

上ノ山城

上ノ山城
上ノ山城

鳥屋城とともに越智谷の北側を守っていた山城です。上ノ山城というのは仮称で最近、城郭跡と認定され「近畿の城郭5」に出ていました。 

上ノ山城の頂上には威徳天神社があり、越智氏が勧請したようです。北越智町の集落に神社への参拝道があるんですが、これが分かりにくい入口で神社の燈篭が目印になります。頂上まで参拝道が続いており、登っていくと威徳天神社があります。神社からは御所や葛城方面がよく見えます。 

神社境内が削平地になっていて郭跡になっていました。一部には土塁があり、境内奥をずっと行くと堀切がありました。切岸を中心に守る山城のようです。

越智城

越智城
越智城

南北朝から戦国時代にかけ大和で活躍したのが大和四家で越智・十市・箸尾・筒井の四氏でした。越智氏は大和源氏の源親家が平家追悼の戦功によって越智、掖上、根成柿、柏原(御所)の土地をもらい越智粉盛荷ノ岳に居住して越智氏というようになります。

越智氏の居館のあった場所は三方が丘に囲まれ前面には川が流れる要害の地でした。現在は畑になっていますが、オヤシキという地名が残っています。囲まれた丘の上には郭が造られ要害になっていました。

南北朝時代、越智氏は南朝側の中心勢力でがんばっていましたが室町時代、筒井氏と大和の覇権を争い、幕府が筒井側についてこともあり多武峯の戦いで敗れ、越智氏は没落します。ところが遺児が河内守護畠山氏の助けで越智氏を再興し、その後もずっと筒井氏や大和へ侵入してきた松永久秀と戦い続けます。その拠点だったのが越智城です。

貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

飛鳥から越智谷に向かう途中にあるのが貝吹山城です。乾城古墳の脇に貝吹山城への案内板が出ていて山道を登っていくと城跡に入れ、主郭には碑が建っていました。現在は木が茂っていますが往時は360度見渡せて眺めがよかったでしょう。

堀切などがあまりなく、たくさんの郭と切岸で構成された山城です。帰りは白壁塚古墳という案内がある山道へ入っていくと途中から藪道になったのですが、なんとか北越智町へ降りれました。

貝吹山城がいつできたかは分かっていませんが越智氏が築いたと言われています。文献によく出てくる城で1573年(天文6年)に河内、山城南部の守護代である木澤長政に攻められます。また天文15年には筒井順昭(筒井順慶のお父さん)の攻撃で開城し、以降は筒井方の城となります。越智氏は1549年(天文18年)、1557年(弘治3年)の2回にわたって貝吹山城を奪おうとしましたが失敗。その後は大和に進出した松永久秀の城となりましたが、1566年(永禄9年)に越智氏が奪還します。永禄11、12年にわたって松永氏の攻勢によって、また開城します。

取ったり取られたりの貝吹山城ですが1580年(天正8年)に織田信長が「大和一国破城令」を出し、郡山城以外の城が破壊されます。この時に貝吹山城も破城されたようです。

子嶋城

子嶋城
子嶋城

子嶋城は最近、発見された山城で「近畿の城郭5」に掲載されていました。観覚寺城から谷を挟んだ対面にある子嶋寺背後の丘陵地にあります。城としては単純な郭が連なった形ですが、尾根筋からの侵入を防ぐために堀切があります。

もともとは付近を支配していた子嶋氏の城だったようですが1516年(永正15年)に子嶋氏から高取城を越智氏が奪った時に、この子嶋城も奪われたのではと考えられています。

郭の開けたところからは観覚寺城がすぐそばに見えて、二つの城で越智氏の拠点である高取城方面への防衛を行っていたようです。観覚寺あたりでは1473年(文明5年)に天理を本拠とする豊田氏と1546年(天文15年)には筒井氏との合戦がありましたので、もともと重要拠点でした。

佐田城

佐田城
佐田城

佐田城の口城から西に道を登っていくと佐田の集落に入り、集落にある春日神社境内には束明神古墳があります。春日神社への道を曲がらずにまっすぐ行くと峠道に入り、与楽の集落に抜けることができます。与楽まで向かわず、峠道のピークあたりから東にある頂上を目指すと佐田城に入れます。「近畿の城郭」の縄張図には南から入れる道が書かれていたのですが、そんな道は見つからず必然的に切岸を登ることになります。 

佐田城は山城では珍しく輪郭式になっていて一段と高い頂上に主郭があり、けっこうな広さがあります。主郭の周りを帯郭が巡り、その下の段にも郭がありました。けっこう広い郭でかなりの軍勢を配置できます。越智氏の貝吹山城のすぐ近くなので越智氏の城だったのでしょうが松永久秀側の附城だった可能性もあります。帰りは南の道を探したのですが、結局、迷ってしまい崖をひたすら降りて峠道にたどりつきました。 

佐田城の口城

佐田城の口城
佐田城の口城

佐田城の口城は「近畿の城郭Ⅳ」に掲載されていた山城で曾羽城の帰りに寄ってきました。

場所は高取国際高校横から束明神古墳へ行く途中にあります。束明神古墳から山を登っていくと佐田城があり、佐田城の口城はこの佐田城の前衛だったようです。

佐田城の口城は越智氏の詰城である貝吹山城の南東に位置するので間違いなく越智氏と関係する城でしょう。東側に大きな堀切があり松永久秀や筒井氏から西側にある越智氏の本拠地を守るための城の一つだったのでしょう。谷を挟んだ向こう側にも城郭跡の遺構が発掘調査で見つかっていますので2つの城で街道をおさえていたようです。

城は主郭を中心に構成された割と小規模の城ですが、後世に畑に改変された部分もあり、もう一つ郭があった可能性もあります。