貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

飛鳥から越智谷に向かう途中にあるのが貝吹山城です。乾城古墳の脇に貝吹山城への案内板が出ていて山道を登っていくと城跡に入れ、主郭には碑が建っていました。現在は木が茂っていますが往時は360度見渡せて眺めがよかったでしょう。

堀切などがあまりなく、たくさんの郭と切岸で構成された山城です。帰りは白壁塚古墳という案内がある山道へ入っていくと途中から藪道になったのですが、なんとか北越智町へ降りれました。

貝吹山城がいつできたかは分かっていませんが越智氏が築いたと言われています。文献によく出てくる城で1573年(天文6年)に河内、山城南部の守護代である木澤長政に攻められます。また天文15年には筒井順昭(筒井順慶のお父さん)の攻撃で開城し、以降は筒井方の城となります。越智氏は1549年(天文18年)、1557年(弘治3年)の2回にわたって貝吹山城を奪おうとしましたが失敗。その後は大和に進出した松永久秀の城となりましたが、1566年(永禄9年)に越智氏が奪還します。永禄11、12年にわたって松永氏の攻勢によって、また開城します。

取ったり取られたりの貝吹山城ですが1580年(天正8年)に織田信長が「大和一国破城令」を出し、郡山城以外の城が破壊されます。この時に貝吹山城も破城されたようです。

子嶋城

子嶋城
子嶋城

子嶋城は最近、発見された山城で「近畿の城郭5」に掲載されていました。観覚寺城から谷を挟んだ対面にある子嶋寺背後の丘陵地にあります。城としては単純な郭が連なった形ですが、尾根筋からの侵入を防ぐために堀切があります。

もともとは付近を支配していた子嶋氏の城だったようですが1516年(永正15年)に子嶋氏から高取城を越智氏が奪った時に、この子嶋城も奪われたのではと考えられています。

郭の開けたところからは観覚寺城がすぐそばに見えて、二つの城で越智氏の拠点である高取城方面への防衛を行っていたようです。観覚寺あたりでは1473年(文明5年)に天理を本拠とする豊田氏と1546年(天文15年)には筒井氏との合戦がありましたので、もともと重要拠点でした。

佐田城

佐田城
佐田城

佐田城の口城から西に道を登っていくと佐田の集落に入り、集落にある春日神社境内には束明神古墳があります。春日神社への道を曲がらずにまっすぐ行くと峠道に入り、与楽の集落に抜けることができます。与楽まで向かわず、峠道のピークあたりから東にある頂上を目指すと佐田城に入れます。「近畿の城郭」の縄張図には南から入れる道が書かれていたのですが、そんな道は見つからず必然的に切岸を登ることになります。 

佐田城は山城では珍しく輪郭式になっていて一段と高い頂上に主郭があり、けっこうな広さがあります。主郭の周りを帯郭が巡り、その下の段にも郭がありました。けっこう広い郭でかなりの軍勢を配置できます。越智氏の貝吹山城のすぐ近くなので越智氏の城だったのでしょうが松永久秀側の附城だった可能性もあります。帰りは南の道を探したのですが、結局、迷ってしまい崖をひたすら降りて峠道にたどりつきました。 

佐田城の口城

佐田城の口城
佐田城の口城

佐田城の口城は「近畿の城郭Ⅳ」に掲載されていた山城で曾羽城の帰りに寄ってきました。

場所は高取国際高校横から束明神古墳へ行く途中にあります。束明神古墳から山を登っていくと佐田城があり、佐田城の口城はこの佐田城の前衛だったようです。

佐田城の口城は越智氏の詰城である貝吹山城の南東に位置するので間違いなく越智氏と関係する城でしょう。東側に大きな堀切があり松永久秀や筒井氏から西側にある越智氏の本拠地を守るための城の一つだったのでしょう。谷を挟んだ向こう側にも城郭跡の遺構が発掘調査で見つかっていますので2つの城で街道をおさえていたようです。

城は主郭を中心に構成された割と小規模の城ですが、後世に畑に改変された部分もあり、もう一つ郭があった可能性もあります。

曾羽城

曾羽神社
曾羽神社

奈良県・高取町にあるのが曾羽(そわ)城。近鉄・吉野線「市尾駅」から西に600メートルほど行った丘陵上に城跡があり、丘陵の下には高野街道(紀路)が走っています。紀路というのは紀州街道・高野街道・巨勢谷・五条を経て高野・和歌山に通じる古代からある街道です。

曾羽城を造ったのは越智氏の被官だった米田氏だったようで、永禄4年(1561年)に松永久秀方が「ソワノ城」に取り掛かったので、紀伊から越智伊予守家増が帰陣したという記載が残っています。越智氏は結局、松永久秀の侵攻に屈しましたから越智攻めの附城に改修された可能性があります。

髙野街道から階段を登ると曾羽神社があり、この神社の裏手にある山道をせっせと登ると曾羽城に到達します。堀と土塁で囲まれた主郭などを堪能できます。

赤阪城(大和)

赤阪城(大和)
赤阪城(大和)

近鉄・生駒線の竜田川駅を降りて、西にひたすら4kmほど登っていくと信貴山の麓に着きます。信貴山には松永久秀の信貴山城がありますが、そこから北方約400メートルのところにあるのが赤阪城です。 

■幻の高安城探しで見つかった謎の城 
赤阪城は最近、見つかった城です。山城の世界では割とよくある話です。 

白村江の戦で唐・新羅軍に大敗したため天智天皇が整備したのが朝鮮式山城である高安城です。日本書紀には記載されていますが、城は見つかっておらず幻の高安城と呼ばれていました。この高安城を探しているのが「高安城を探る会」で調査を続けて20年、1999年についに幻の高安城を見つけ新聞でも大きく報じられました。この会が付近の山を歩いて調査している時に偶然見つけた城です。 

■赤阪城 
赤阪城は高低差がある郭が5つあり連郭式縄張となっています。空堀を効果的に使っており、だいぶ埋まっていますが二重竪堀もありました。文献にも登場しない山城ですが、かなりの規模があり、城の位置を考えると松永久秀の信貴山城を守る支城の一つでしょう。近くを信貴山へ向かう街道があり、信貴山奥の院もあります。

三里城

三里城の入口
三里城の入口

生駒近辺の山城は、ほとんど登ったと思って戎光祥出版「近畿の城郭」を見ていたら平群駅近くに三里城があるのを発見。さっそく登ってきました。 

【三里城への道】 
平群駅をずっと東に行くと、安明寺叶堂があります。お堂はなく礎石しか残っていません。この叶堂から山道に入り、川沿いの道を登っていくと「右 まや道」という石標があり、ここを登っていくと写真のように道に大きな石があります。 

ここが城の入口です。少し戻ったところから左手に細い山道があるので、ここから藪の中に入って、結局は切岸、つまり崖を登ります(笑)。ずっとひたすら頂上を目指すと郭や見事な横堀を通って主郭にいたります。 

【三里城】 
三里城は誰が造った城か伝わっていませんが、松尾寺へと通じる街道を見張る目的があり、すぐ近くに椿井城がありますので、おそらく嶋氏ゆかりの城だったのでしょう。平群は島左近(石田三成家臣で関ケ原の合戦で討死します)で町おこしをしています。松永久秀が大和を支配した頃には松永方として改修されたかもしれません。 

先日、オープンストリートマップを教えてもらったので、さっそくやろうとしたら竹藪の中ではGPSが全然、違う方向を指していました。よほど眺めがよい山城でない限りは難しいですね。

豊田城

豊田城

天理の商店街を抜けて山の辺の道に至ると豊田城跡への案内板があり、そのまま堀底道になっている山道を登っていくと豊田城の出郭に到着します。筒井氏の与力だった豊田氏の城という話ですが、城の規模がめちゃくちゃ大きく一国人の城ではないですねえ。

【大和永享の乱】
中世の大和は北側の筒井氏、南側の越智氏に分かれて覇権を争っていましたが、豊田氏は越智氏側で筒井氏とは敵対関係にありました。1429年に豊田氏と井戸氏の間で対立が起きた時に井戸氏側についたのが筒井氏、十市氏で、豊田氏側についたのが越智氏、箸尾氏となります。興福寺と幕府の停戦勧告は無視され、2陣営に分かれて争乱が大和一国に拡がります。これが大和永享の乱となります。

越智氏に属していた豊田氏は筒井氏の反撃を受け、まず越智氏が撃退され、そして豊田城が落城します。やがて松永久秀が大和に侵入し、豊田氏は最初は抵抗していましたが豊田城を落とされ、結局は松永久秀の傘下に入ることになりました。この時に豊田城は松永勢によって大改修されたのでしょう。織田信長が松永久秀から筒井順慶へスイッチングし、筒井順慶が大和を支配することになると豊田氏は筒井氏の与力になったようです。

【豊田城】
郭は藪だらけですが、すごいのが縦横にめぐらされた横堀や竪堀です。大きく分けて5つの郭で構成され、周囲を鉄壁の堀で囲んでいます。しかも外郭掘が2本、発見されており、すさまじい土木力で造られた山城です。

赤尾城

赤尾城

忍坂山口坐神社(式内社)がある赤尾集落の南側にそびえている比高50mほどの山稜先端部が赤尾城跡です。なかなか見ごたえがある山城です。けっこう手間をかけて築いたようで、かなりの高低差がある郭がいくつも造られ、二重堀切や横堀などもあります。ただ竹藪だらけですので、赤尾城に登るならやはり冬ですねえ。写真は堀切です。

【西阿の赤尾城】
赤尾城は戒重西阿が築いた6城の一つで、外鎌城がすぐ正面に見え、赤尾城背後の山稜に続く鳥見山には鳥見山城があり、3つの山城が連携していました。西阿が築いた頃は砦と呼ばれていましたので規模は小さかったようです。西阿の赤尾城は1341年7月に北朝方の細川顕氏軍に攻められて落城してしまいました。

【戦国時代の赤尾城】
戦国時代となり、大和の覇権をかけて筒井順慶と松永久秀が戦います。松永久秀が信貴山城と多聞山城を築き、大和へ侵攻してきました。大和の国人を巻きこんでの戦となり、居城である筒井城も攻められ筒井城を追われることになります。この前後に筒井勢と松永勢がぶつかる鳥見山合戦が行われたので、この時に赤尾砦が大規模に改修されたようです。松永久秀は安倍山城を陣城にしたようなので、赤尾城を改修したのは筒井勢かなあ。

筒井城を追われた時の筒井順慶は17歳と若いこともあり、最初は劣勢でしたがあきらめず、織田信長と松永久秀の反目によってチャンスをつかむことになります。

西阿が造った六城

西阿が造った六城

大寒で山城シーズン真っ最中だというのに大阪は朝から雨。仕方ないので山城登りは断念して、いろいろと調べものをしています。本当は原稿も書かないといけないんですが、明日できることは明日やろうっと!(笑)

【南朝の武士 西阿】
最近、面白いのが南北朝時代に活躍した西阿(さいあ)という大和武士。後醍醐天皇側につき現在の桜井周辺が西阿の基盤でした。桜井は東国に通じる伊勢道をおさえる拠点でしたが、西阿はここに6つの城を築きます。

対する北朝側は桜井の北にある櫟本(天理)に軍を派遣し、西阿軍と戦闘となります。西阿軍は形勢不利だったようで桜井のすぐ南にある安倍山城に北朝側が陣をしき、吉野との連絡網が遮断されます。北と南からの北朝側の攻撃で桜井一帯が戦場となり、結局は六城とも落城し、西阿は討死したようです。

【西阿の六城】
戒重城-平城。春日神社一帯で、江戸時代に戒重陣屋となったため遺構は残っていません。

河合城(川合)-平城。市街地でどこにあったか分からず。微高地の一番高い所が桜井駅なので駅周辺に河合城があった模様。

安房城(粟殿)-平城。市街地でどこにあったか分からず。

鵄(鳥見山)城-山城。2つの峰に郭が造られており、かなりの規模。戦国時代にだいぶ改変されたようです。

赤尾城-山城。丘の上にいくつも郭が造られており、かなり大規模。戦国時代にだいぶ改変された模様。

外鎌城-山城。西阿の詰めの城で、割と単純な郭なので西阿時代のものが色濃く残っていそう。山頂に西阿の碑があります。