吉野・飯貝城

本善寺の裏山に飯貝城があります。鎌倉幕府と護良親王が戦っていた時、吉野の入口に立地するため丹治城などとともに吉野城の出城だったようです。

吉野・飯貝城
吉野・飯貝城

やがて浄土真宗本願寺派の本善寺ができると吉野の金峰山寺と敵対していたことから飯貝城として整備されました。ところが金峰山寺、越智氏などによって城は攻め落とされます。報復のために浄土真宗門徒が金峰山寺を攻めています。信長が石山本願寺と敵対した時には筒井順慶が本善寺と飯貝城を攻め、この時に廃城となったようです。

本善寺の裏山をえっちらおっちら登るとNTTの送信所があります。削平地になっているので、”城跡だあ!着いた”と思ったら、Googleマップはさらに先を示しています。違うのかいなと、さらに奥に登る道があったので登ると飯貝城がありました。空堀があり、その奥が城域でした。主郭には枡形状の虎口があり土塁などが残っています。割と技巧的なので戦国時代に改修されたのかもしれません。

丹治城 吉野城の出城

近鉄・吉野神宮駅のすぐ東側の山頂にあるのが丹治城です。金龍寺の右横の狭い道から入っていくと山城には珍しく案内板がありました。そこからひたすら山道を登っていくと城跡に着きます。城跡には当然ながら何の案内もありません。

丹治城
丹治城

後醍醐天皇の皇子だった護良親王(大塔宮)が鎌倉幕府と対峙したのが吉野城(蔵王堂)。出城として築かれたのが丹治城で、吉野城へ通じる谷の入口を守っていました。郭は東西に長く配置され、一番東側が高くなっていて、ここが主郭だったようです。その先には堀切がありました。一番、西側の曲輪からは吉野城(蔵王堂)がよく見えます。

戦国時代となり石山本願寺と織田信長が戦っていた頃、筒井順慶が吉野における本願寺門徒を攻撃した時に丹治城に吉野方の武士や門徒衆らが立て籠もったため、この時に改修された可能性があります。

塚口城 荒木村重vs織田信長

塚口で専門家派遣のお仕事だったので、仕事終わりに塚口城へ

塚口城

阪急塚口駅の北東側一帯に塚口城はあります。もともとは塚口御坊という浄土真宗の寺内町で一向一揆の拠点でした。荒木村重が有岡城の出城として整備し、水堀と土塁が造られます。織田信長軍が塚口城を攻略して有岡城攻め付け付城としました。丹羽長秀などが布陣します。

塚口城は南西に南町門、東に東町門、北東に清水町門、北西に北町門と四ヶ所に門がありました。城跡はすっかり市街地となっていますが、それぞれの門のところには祠が建てられ、祠の所だけ土塁が残っています。また北側と東側の堀は細い水路として名残を残しています。

古代・城山城

唐が新羅を支援して百済を攻撃し660年に百済は滅亡します。百済の王族や遺臣たちは倭国と連携し百済復興運動を起こします。日本・百済遺臣の連合軍が唐・新羅連合軍に挑みますが、663年に白村江の戦いで大敗します。昔、日本史で習いましたね。

これにあわてたのが天智天皇。唐・新羅による日本侵攻を想定して防衛網強化に動きます。百済遺臣の協力で朝鮮式古代山城の防衛砦を整備、また防人制度を整備します。大宰府には水城や大宰府全体を取り巻く羅城が作られました。岡山の鬼ノ城、大阪の高安城などが造られましたが、この時と共に造られたのが播磨の城山城。

古代・城山城
古代・城山城

■古代・城山城
中世には赤松氏の山城となりましたが城山城には古代山城の遺構がいくつか残っています。城山城を「きのやまじょう」と呼びますが、岡山の鬼ノ城も「きのじょう」で、大宰府の基肄城「きいじょう」ですから「き」は城をさす古語だったようです。

山を石塁が取り囲んでいますが、1300年前の石塁が一部残っています。大阪の高安城も城山城と同様に古代山城、中世山城として利用されました。

播磨・城山城 嘉吉の乱の舞台

播磨国・龍野にあるのが城山城。「きのやまじょう」とよみます。

城山城
城山城

築城したのが赤松則祐で10年以上かけて整備した山城です。赤松則祐の孫が赤松満祐で嘉吉の乱を起こした人物です。将軍が殺された幕府は統制がとれず、なかなか討伐軍を組織できませんでしたが、ようやく播磨へ出立。最後に立てこもったのが城山城ですが山名一族の大軍に包囲され、一族70人近くが自刃して果てました。

城山城は亀山(きのやま)の山頂にあり、麓から1時間ほどで登れます。土橋や竪堀などの他、屋敷跡の削平地がたくさんあります。山の上なのに水の手もあり籠城するにはもってこいの城です。城跡はきれいに整備され、瀬戸内海や姫路の街を一望できます。

大坂城・水没計画

大坂城の冬の陣。真田丸で真田信繁が活躍した戦いです。

ハザードマップ
ハザードマップ

最新の研究で分かってきたのが豊臣秀頼の大坂城・水没計画。大坂城ですが徳川軍に包囲されると兵糧攻めと同じなので不利になります。そこで淀川の堤を壊して大坂城の北と東を水没させることにして実際に実施しました。

NHKでシミュレーションをしていましたが大阪市の洪水ハザードマップを見ると、よく似ています。大坂城の北と東は低地になっているため、見事に赤くなっています。徳川軍は結局、西と南からしか攻撃できなくなりました。また真田丸と大坂城との間の空堀も水堀にしてしまったようです。

徳川軍は堤を直す大土木工事を行い、何とか北側に干上がった土地を確保し、ここから天守閣に向けて大砲を打ち込むことで和睦にもちこみました。

近江・山崎山城

山崎山城は秀吉・光秀が戦った天王山にもありますが、こちらは近江の山崎山城です。日曜に勝楽寺城を目指したのですが雪がすごく予定変更して登りやすい山崎山城へ行ってきました。雪道に足跡がついていたので地元の人も登っているんですねえ。

山崎山城
山崎山城

■山崎氏
六角氏一族である山崎氏がこの辺りを支配していましたが織田信長が足利義昭を奉じて上洛する途中、六角氏を攻めると、いち早く寝返って織田家に臣従します。姉川の戦いなどにも参加しています。本能寺の変の後は秀吉に従い、摂津の三田城に移封されました。

■山崎城
織田信長が下街道を整備する時に山崎山城を築いたようで街道から立派な石垣が見れるように整備しています。管理は山崎氏にまかせ御茶屋が作られ岐阜と安土を結ぶ中継施設となった城です。その後、城割が行われた崩されたようですが石垣の一部が残っています。眺めはよく佐和山城などを見ることができます。

肥田城 水攻め

水攻めというと秀吉による備中高松城、紀州太田城、武蔵忍城城が有名ですが、肥田城でも行われました。六角氏側についていた高野瀬氏ですが、敵対していた京極氏を取り込んで勢力を伸ばしていた浅井氏へ鞍替えします。

肥田城 水攻め
肥田城 水攻め

肥田城を六角義賢が水攻めします。肥田城を囲む形で長さ6.3キロメートルの堤防を築き、宇曽川と愛知川の水を引き込んで水攻めしました。秀吉の備中高松城水攻めより23年前のことになります。ところが堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。これは忍城と同じですね。

浅井長政が救援にかけつけ肥田城の西にある野良田一帯で六角氏とぶつかり(野良田表の合戦)勝利します。これで浅井の勢力が拡がります。肥田城近くに水攻めで使った堤の一部が残っています。

浅井長政が信長によって滅びると高野瀬氏は柴田勝家に仕えますが越前一向一揆に敗れて自害し、ここに高野瀬氏嫡流は断絶となります。

肥田城

雪の中に碑だけ残っているのが肥田城です。城を造ったのは高野瀬氏で近江国愛智郡にあった高野瀬村が本貫でした。

肥田城
肥田城

応仁の乱の頃、近江では六角氏と京極氏が争っていました。源流は同じ近江源氏の佐々木氏なんですが仲が悪いんですね。

大永年間(1521~1528)の頃に六角氏の命で高野瀬隆重が肥田城を築きます。宇曽川の湿地帯に築かれた肥田城は典型的な平城で、宇曽川と愛知川を天然の濠としていました。愛知川を境として北を京極氏が、南を六角氏がそれぞれ支配下におきましたので、肥田城は境目の城となり京極氏に対する六角氏の最前線の城になります。

尼子城

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったのが山中鹿介。山中鹿介が奮戦したのが尼子氏再興です。出雲を中心に最盛期には中国八カ国を支配していましたが、毛利に敗れ流浪。織田信長と手を結ぶことになりますが上月城の戦いで滅亡してしまいます。

尼子城
尼子城

戦国大名として有名な出雲尼子氏の祖先は宇多源氏・佐々木氏です。婆沙羅大名として有名な佐々木(京極)道誉の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住したことから、名字を尼子と称しましたので、ここが尼子氏の本貫になります。

尼子城の土塁や堀の一部が残っていますが、折からの豪雪で何も見えず(泣)。雪が降りすぎるのも問題ですねえ。最寄り駅はガチャコン(近江鉄道)の尼子駅です。