小林八幡神社付城

城攻めでは拠点となる付城(陣城)を造るのがパターンですが、信長、秀吉は大々的な付城を造っていました。よく残っているのが三木です。天正6年(1578)~天正8年(1580)三木城主・別所長治と秀吉が戦った三木合戦です。三木城を取り囲むように約40ヵ所築かれたようですが、半分の20ヵ所が現存しています。こんなに残っているのは珍しいですね。

小林八幡神社付城
小林八幡神社付城

ということで新開地から神戸電鉄に乗り込んで志染駅へ。ここからちょっと行ったところにあるのが小林八幡神社付城です。主郭になっていたところが社殿になっていて、土塁はさすがに低くなったいますが、きちんと残っています。少し高くなっているところがあり、ここが櫓台だったようです。4つの郭で構成されていました。正7年(1579)4月に織田信忠の軍勢が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたかは伝わっていません。

鈴山城

五位堂駅から馬見丘陵公園へ向かう時にニュータウンの中を通る遊歩道が便利なんですが、この遊歩道に入ってすぐの所にあるのが鈴山城です。アクセスしやすいので3、4回は来ていますね。遊歩道を作る時に発掘調査され南北朝時代に造られたようで、城主などは伝わっていません。すぐ近くには瓦城があります。

鈴山城
鈴山城

遊歩道には案内も何もないので、調べてから行かないと入口はまず分かりません(笑)。遊歩道から城跡に入ると高さが4~5mほどある堀が迎えてくれます。ずっと堀が続いていいますが土橋から郭内に入ることができ、井戸などを見ることができます。北西隅には古墳を利用した櫓台状の高まりもあります。

取出山砦

鳥羽城の向かいにある日和山にあったのが取手山砦。久しぶりに登ったら、きれいに整備されていました。津波対策で市街地からすぐに避難できるように整備されたようです。鳥羽は国人だった橘氏が代々、住んでいて伊勢国司である北畠氏に属していました。鳥羽殿と呼ばれていたようで、出入りする船から関銭を徴収していました。織田信長が伊勢へ侵攻すると、北畠陣営だった橘氏は織田に味方した九鬼嘉隆に攻められて降伏します。

取出山砦
取出山砦

取手山砦、以前の郭はうっそうとした藪でしたが、きれいに整備されていました。堀切には橋が渡されていました。

鳥羽城

鳥羽城
鳥羽城

鳥羽城は九鬼水軍の城です。大手門が海に向かって作られ、さすがは水軍の城です。大手門は、鳥羽水族館になっていて本丸跡から鳥羽湾が一望できます。長らく鳥羽小学校や幼稚園などに使われていたので遺構は残っていませんが郭跡と石垣の一部が残っています。

鳥羽城・城主で有名なのが九鬼嘉隆で、織田信長や豊臣秀吉の水軍として活躍。関ヶ原の合戦では西軍についたので鳥羽湾の答志島で自刃しました。息子は東軍についていたので九鬼氏は存続しましたが、後継者争いが起き、幕府に志摩を召し上げられて摂津国三田藩と丹波国綾部藩に分かれました。

桜生城

桜生城
桜生城

銅鐸博物館から山手の道を進むと桜生(さくらばさま)城があり、近くを中山道(東山道)が走っています。城主は澤氏で現在も後裔が居住されています。澤氏についてはよく分かっていませんが秀吉の朝鮮出兵に従軍していたようです。

桜生城は3つの郭で構成されていて郭を取り囲む土塁や堀などが見事に残っています。近くに日吉神社がありますが、こちらにも堀跡などが残っていました。往時はかなり広かったようで南に「矢場」、南西に「下屋敷」という地名も残っています。

向山城

近江の篠原は古代から交通の要衝で東山道の篠原駅家が置かれていました。篠原の北側に向山という丘陵があり、ここの頂上にあるのが向山城です。城の南側を中山道が通っており、源義経が元服した鏡の里がすぐ近くにあります。

向山城
向山城

向山城は六角氏の被官だった長原氏の城だったようですが、記録も少なく、よく分かっていません。Googleマップで調べると夕日ヶ丘登山道入り口というのがあり、ここから入り、登っていくと展望台という矢印がありました。進んでいくと誰も通っていないのか、藪だらけで道が見えない!!適当にあたりをつけて頂上を目指します。

頂上を中心に尾根上に郭が展開されていて、また古墳がありました。古墳の石室が城の兵糧倉庫になっていたと案内がありました。展望台という案内に期待しましたが頂上からは林だけで外は何も見えません。帰りも途中で道を見失い、とりあえず藪をずっと降りていきました。

大和田城

大和田城は奈良市大和田町にある城です。富雄川西岸の尾根の先端にある丘城で、字名は城山になっています。筒井方の小和田氏の城と言われていますが詳細は分かりません。地名が大和田ですから、同じ和田氏系の小和田氏というのは妥当でしょう。

大和田城
大和田城

大和田城は単郭方形の郭で、藪だらけなんですが空堀などが見事に残っています。堀はけっこうな幅と深さがあり、堀底に降りてみましたが土塁が高くせまっています。土塁の途中が少し太くなっているところがあり櫓台があった模様です。虎口らしきものがありましたが竹藪だらけでここから入るのを断念。近くの土塁を登って郭に入りました。写真を撮りましたが、どの写真も藪と土しか映っていませんね。

高宮城

彦根に高宮という場所があります。古代には犬上郡十郷の1つ高宮郷があり、東山道が走っていました。中世から江戸時代にかけては、ほぼ同じルートで中山道となり高宮宿として栄えました。この交通の要所を抑えていたのが高宮城です。

高宮城
高宮城

1416年の上杉禅秀の乱に幕府方として戦った六角信高が将軍足利義持から勲功として高宮など6万貫を与えられて、高宮信高となります。もともと六角氏頼の三男でしたので六角氏側でしたが、京極氏側に寝返ったようで永禄2年(1559)、高宮城が六角氏に攻められて落城します。京極氏側でしたので浅井長政の配下にもなっていました。

■織田信長と浅井長政が会見した城
足利義昭を奉じて上洛する前、永禄10年 (1567)に織田信長は高宮城で浅井長政と会見しています。その後もたびたび信長は宿舎として使っていたようです。信長と浅井が手切れとなると高宮氏は浅井側として戦い小谷城で戦死しました。落ち延びた一族は高宮城に戻って、城に火を放ち歴史からは消えてしまいました。

その後はずっと空地だったようで、やがて高宮小学校や高宮幼稚園の校舎が建てられ、今は碑だけが残っています。発掘調査で高宮城時代の井戸などが見つかっています。

敏満寺城

多賀大社から少し行ったところに敏満寺城があります。彦根へ行った目的地はこちらで、多賀大社はついでに参拝してきました。

敏満寺城
敏満寺城

敏満寺という名前がついているので、もともとは寺ですが戦国時代の寺は、ほぼ城塞です。信長が10年もの間、石山本願寺を攻めましたが、それでも落とせなかったのは石山本願寺が強固な城塞だったからです。敏満寺城は天台宗寺院が城塞化したもので僧兵を揃え、室町時代には守護佐々木氏や京極氏と度々対立していました。

1562年(永禄5年)、浅井長政が六角氏側に寝返った久徳氏を攻めた時に久徳氏に味方していた敏満寺城を攻撃し、かなりの坊舎が焼失しました。1572年(元亀3年)頃には信長包囲網に加わっていたために、残りの坊舎も焼かれ寺領も取り上げられてしまいます。この後は衰微したようです。彦根城を造る時に礎石などは運びさられました。

やがて名神が通り、多賀サービスエリアが造られることになって発掘調査の結果、土塁、空堀などの山城跡が出てきました。一部が保存されていて郭跡などが見晴らしスペースになっています。ドッグランがあるところも郭跡で周りを土塁と櫓台が取り囲んでいました。多賀サービスエリアは徒歩なら外からも入れるようになって城跡が見学できます。もっとも犬を遊ばせている人はいましたが土塁に登っているような人は皆無でした。

椿尾山城

皆さん、よくご存じのように筒井家の本拠は近鉄・筒井駅近くにある筒井城でした。平城でしたが周りが湿地でしたので備中高松城のように攻めにくい城です。戦国時代、何かあった時のために詰城を築くことがBCP(事業継続計画)の基本でした。例えば武田氏は躑躅ヶ崎館を平時に使い、なにかあれば詰城の要害山城に立て籠ります。ちなみに武田信玄は戦のさなか、要害山城で誕生しています。

椿尾上城
椿尾上城

筒井氏の詰城は筒井城からまっすぐ東に行った椿尾上城です。作ったのは筒井順慶のお父さんである筒井順昭。永禄2年(1559年)に松永久秀が大和を攻めてきた時に筒井城が陥落したことから椿尾上城を中心に松永久秀と対抗します。信貴山城の戦いで松永久秀が滅び、筒井順慶の時代になると織田信長の破城令に従い、大和国では筒井城を破却して大和郡山城の一城とし、また大和守護職にも任ぜられます。

■椿尾上城
椿尾上城ですが複雑な構造になっています。主郭には空堀にある土橋を通って登りますが、五社大明神が祀られています。後ろの土塁を登ると、ここが標高528.7mの城山頂上になります。畝状竪堀群や櫓台跡、鈎状に屈折した横堀など見どころがたくさん。ところどころに石積みが残っています。