新宮支城

新宮支城
新宮支城

新宮城のすぐ隣にあるのが新宮支城。間に谷があるため直接はいけないので新宮城から降りて、もう一回丘を登らないとたどりつけません。新宮支城は単郭ですが高さ10mほどの土塁に囲まれています。虎口は小さく、大手道から一回曲がらせて虎口に入るようになっていました。虎口の近くには堀切もあり、また大手道に沿って別の土塁が続いています。

高さ10mほどある土塁が圧巻です。ただ郭の構造が単純なので新宮城と同時に造られた後に、特に改修は行われなかったようです。新宮城と同様に甲賀郡中惣遺跡群のひとつとして国の史跡になっています。こちらも、新宮城と同様に、よく整備されていました。

新宮城

甲賀にある新宮城です。新宮城は、きちんと整備されていて山城には珍しく看板まであります。6つの郭から構成されていて、郭の途中に枡形虎口になっている入口があり、かなり技巧的です。たぶん最初は主郭しかなかったのが、必要にせまられて副郭を連ねていったのでしょう。主郭の裏側には堀と土橋がありました。

新宮城
新宮城

甲賀は伊賀と同様に中心になるような領主はおらず、一族が同名中惣を構成して、それぞれ城をもっていました。ポリスの連合国家のようなものですね。近江守護であった六角氏が足利将軍から攻められた時に甲賀は六角氏につき、織田信長の上洛時も六角氏に味方しましたので軍事的緊張が高まり、新宮城を改修していったのでしょう。

丸岡城・丸岡東城

JR甲西駅の西にある丘にあるのが丸岡城と丸岡東城。道を挟んで2つの城があります。城の近くにあった看板によると青木藤兵衛尉が戦功によって源頼朝からこの地の地頭に任じられ城を造ったとあります。

丸岡城

青木氏は甲賀五十三家の一つになり六角氏の家来でしたが六角氏が信長に追いやられると、信長に臣従。秀吉が天下をとると夏見城と同様に領地を没収され配乗になった模様です。本城が丸岡城で出城が丸岡東城になります。分厚い土塁に囲まれ堀が二重になっていたり、けっこう技巧的です。二重土塁を行き来できる土橋も明瞭に残っていました。

夏見城

湖南市三雲小学校近くにあるのが夏見城。ここは夏見氏の居城で、甲賀五十三家の一つです。長享・延徳の乱があり、長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2回、室町幕府が近江守護・六角高頼討伐の軍勢を起こします。将軍・足利義尚が自らが出陣し、今の栗東市にある鈎(まがり)に陣をおいたので「鈎の陣」とも呼ばれています。

夏見城
夏見城

この時に六角氏側で戦ったのが夏見氏。戦功によって夏見の地を領有することになり夏見城を築城します。天正13年(1586年)には天下統一した秀吉に領地を召し上げられ帰農したようです。夏見城の発掘調査では室町時代の「毛抜き」が見つかっています。

ただ城は竹藪の中で分け入ってみると土塁が残っていました。説明によると複郭式の構造とありますが、藪が多く断念。

朝ドラ「スカーレット」の舞台 三雲城

朝ドラ「スカーレット」は信楽焼をテーマにしたドラマで主演は戸田恵梨香さんでした。

三雲城
三雲城

中学卒業後、大阪で女中として働きはじめることになり信楽から大阪に向かう主人公が峠に登って、夕日を見つめながら信楽に別れを告げる場面が出てきます。この丘で、焼き物のカケラを見つけて、これが信楽焼へとつながっていきます。この場面は三雲城の郭で撮影されたそうで、大きな看板がありました。郭から確かに眺望はよいのですが主人公が見ている方向は野洲方向で琵琶湖超しに比叡山に沈む夕日を眺めています。信楽はちょうど逆方向ですね(笑)。

JR草津線・三雲駅からエッチラオッチラ、昔の東海道を歩いて住宅街を抜けて山道に入り三雲城へ登りましたが、途中まで車で登れる道があり駐車場まで整備されていました。そこからさらに作業道があり、城下まで行けるので撮影機材を運ぶには最適な場所ですね。そらロケ地になるはずです。

猿飛佐助の故郷 三雲城

近江・三雲城

三雲城

六角氏の重臣だった三雲氏の居城で1487年に築城されました。六角氏の逃げ城としても有名で織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時にたちはだかったのが六角氏。観音寺城を拠点にしていましたが、すぐ隣の箕作城が攻められて落城したことから、六角氏が逃げこんだのが三雲城です。

三雲城は5つの郭から構成され入口には石垣で造られた枡形虎口が残っていました。山城には珍しく、よく整備されていますね。三雲城のノボリには「猿飛佐助のふるさと」と書かれています。ホンマかいなあ。

■猿飛佐助のモデル
調べてみると猿飛佐助は真田十勇士の一人で霧隠才蔵とともに有名ですが、司馬遼太郎が「風神の門」という真田十勇士の小説を書いた時に江戸時代から猿飛佐助の名前はあり、三雲佐助賢春が猿飛佐助のモデルになったと紹介しています。真田幸村が九度山にいた時に三雲佐助賢春がいたという書も残っているそうです。甲賀忍者の里ですからねえ。あながち嘘というわけでもなさそうです。

恩智城

東高野街道沿いにあるのが恩智城。

恩智城
恩智城

街道をそれて高台を登ると児童公園になっていて、ここが恩智城跡。遺構はないのですが郭跡などがよく分かります。東高野街道をよく監視できる場所にあります。城を造ったのは恩智左近で、さらに高台を登ったところにある恩智神社の社家の出と伝わっています。

後醍醐天皇の建武の新政時代に恩智城が造られたようです。恩智左近は楠木正成と一緒に戦った八臣の一人で千早城籠城などでともに戦い、楠木正成が討ち死にする湊川の戦の後は、楠木正行を助けて四条畷の戦いに出陣。討ち死にしたとも病死したとも伝わっています。四条畷は東高野街道を北に上がったところですので、楠木正行も恩智城に寄って北上したのでしょう。

上京の堀

応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。

上京の堀
上京の堀

京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。

足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。

二条城 その5

二条城シリーズの第5弾です

二条城
二条城

関ヶ原の戦いで勝利した家康は西国の諸大名に二条城造営費用と労務の割り当てを行います。いわゆる天下普請です。

京都は碁盤の目になっていますが、家康が造った二条城はこの碁盤の目から東に3度傾いています。当時、西洋から入ってきたコンパスを使って縄張りを決めています。方位磁石の指す北は地球の自転の影響で動き続けています。家康の時代の京都では真北から東に3度傾いていたようです。当時の技術者も二条城から堀川までの距離が北と南で違っていると認識していましたので、分かっていてやっていました。朝廷に対して徳川は最新技術をもっているというアピールでもありました。

二条城 その4

二条城シリーズの第4弾です。

二条城
二条城

関ケ原の戦いの後、家康が造った二条城ですが、信長の二条新御所、秀吉の妙顕寺城のすぐ西側で武家政権のトップとして二条にこだわりました。足利将軍の二条御所(武衛陣)からの流れを組んでいます。

二条城で家康と豊臣秀頼の会見が開かれ、立派に育った秀頼を見て豊臣家をつぶす決意をしたとも言われています。家光の時代まで二条城は使われていましたが幕末まで、あまり修理されることなく放置されていました。徳川家茂の上洛にあわせて改修が行われ、教科書で有名な徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。