多武峰城塞群

堀切
堀切

多武峰城塞群シリーズです。談山神社裏手から談山城、御破裂山城を巡り、西にある念誦崛城を目指します。御破裂山から飛鳥へ抜けるハイキングコースがあるのですが、飛鳥に向かって歩き出し、土橋跡を少し抜けると別の山道があります。これが半分、藪になっていますが城塞群への入口です。

山道に入るとすぐに堀切があり、念誦崛城へ向かう尾根筋も要所、要所を堀切で切って防衛力を上げています。一応道はついていますが誰も歩かないので藪をかきわけて進まないといけないところがあります。見どころ近くには木に白いテープが張ってあるので山城マニアが来ているのでしょうね。

■越智氏、十市氏、箸尾氏が立てこもる
昔、大和三山の1つ、耳成山の頂上にある天神山城へ登った時に調べると赤澤朝経(ともつね)が造ったことが分かりました。室町幕府方の人間で大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもり、赤澤朝経は天神山城を本陣にして連日、合戦にむかったと記録に残っています。

これが永正3年(1506)の赤沢朝経の大和乱入で、それ以前に永享9年(1437)から10年にかけて起こった大和永享の乱で越智方が多武峰を中心に抵抗したとありますので以前から多武峰は城塞化され、どんどん拡がっていったようです。飛鳥にも雷丘城などの城塞群があり、このあたりは激戦地だったんですねえ。

御破裂山城

御破裂山城
御破裂山城

談山からさらに山道を行くと御破裂山(608m)に到達します。頂上に中臣鎌足の墓があり、国家に大きな災いのある時は、御破裂山が鳴動するということで御破裂山という名前がついています。

中臣鎌足は摂津の阿武山古墳(諸説あり)に葬られましたが後に大和国の多武峯に改葬されたという記録があり、その場所が御破裂山と言われています。藤氏家伝では墓は山科とも伝わっており京都橘大学へ行く途中にある大塚ではないかと言われています。山科は中臣氏の拠点でした。

御破裂山にも山城が造られました。頂上には中臣鎌足の墓があり、ここが主郭跡です。周りには帯郭がめぐり、頂上から北に向かって郭が三段続き、端まで行くと大きな堀切で尾根が切断されています。談山城からの尾根道の途中と西に続く尾根道の2ケ所に堀切を伴った細い土橋がありました。

密談の場所が山城 談山城

談山城
談山城

中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変の密談を行った場所を談山神社と思っている人が多いのですが、実際は談山神社からさらに登った裏山の頂上です。標高566mの談山(かたらいやま)になりますが、こんな高い所で密談しなくても飛鳥でも十分密談ができると思うんですが

談山神社から10分ほど山道を登ると談山です。談山神社への観光客は多いですが、談山まで向かうのはハイカーだけです。結局、誰にも会いませんでした。

談山神社がある多武峰は室町~戦国時代にたくさんの山城が造られ各峰に造られ城塞群になっています。密談が行われた談山頂上も山城となり、密談場所が主郭で周りを帯郭がめぐっています。入口は堀切で切られた細い土橋になっています。

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。

平石城

平石城
平石城

平石城は河南町の平石という所にあります。河南町には鉄道もなければバス路線もほとんどないので最寄り駅は、かなり離れた富田林駅になります。駅前でレンターサイクルを借りてひたすら金剛山脈を目指しますが、かなりの登り坂で大変。

平石集落まで、なんとかたどり着くと平石城への案内が出ていました。案内通りに山道を登っていくと堀切と土橋があり、登ると主郭があり二上山などもよく見えます。

平石城は豪族・平岩茂直が、楠木正成の赤坂挙兵に応じて築いた城です。元弘元年(1331)に平石峠を越えて河内に侵入してきた北条軍に寄って攻められ、平岩茂直は戦死しました。太平記にも登場するお城です。

河南町教育委員会説によると正14四年(1359)に足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀が17の城を整備して防ぎましたが、そのうちの一つが平石城です。

1359年に足利義詮が起こした南朝征伐に対して、楠木正儀は赤坂、龍泉寺城、平石城での籠城戦にします。正儀腹心の河辺、福塚、岩郡ら河内の武士と楠木一族の橋本判官らの兵500騎が守り、押し寄せた今川範氏、佐々木氏頼らと戦います。龍泉寺城と同日に幕府軍の猛攻で落ちることになります。

楢原平城

楢原平城
楢原平城

大和の有力国人だったのが楢原氏で鎌倉末期には吐田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納したと記録されています。南北朝時代は南朝方として、越智氏とともに活動していました。

応仁の乱時に越智党から筒井党に転じて、お隣の吐田氏(越智党)と争うようになります。筒井氏とともに転戦していてたところ争っていた吐田氏が越智氏・古市氏の後援を得て攻めてきたため、城を追われて福住まで退却します。筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所へ復帰しました。

楢原氏の詰城が壮大な山城である楢原城ですが、ふだんは麓の平城を使っていました。堀などは埋められたようで、現在は畑になっています。

吐田館跡

吐田館跡
吐田館跡

吐田氏の詰城が吐田城(山城)で平時は麓に館があり、こちらを使っていました。吐田館は単郭式で跡地は水田になっていますが東西南に水堀が残っています。

守護というと武家が勤めるものですが大和だけは興福寺が守護を勤めていました。応仁の乱では筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して大和の国衆も両陣営に分かれて戦っています。

筒井一門(十市・楢原・布施・布施高田・秋篠・宝来・木津・立野・箸尾・片岡・超昇寺・佐川)
越智一門(吐田・曽我高田・小泉・高山・万歳・岡・古市・山田・山陵)
に分かれていました。

■吐田氏の滅亡
吐田氏の拠点北側には敵対する楢原氏がいて、お隣と戦っていました。戦国時代も後半になると松永久秀が大和へ侵攻してきて、ややこしいことになったうえに、織田信長によって筒井順慶が守護に任じられ、またまたややこしいことになります。最終的に吐田氏は筒井順慶に騙されて本能寺の変の前年に滅亡させられます。

吐田氏の所領は島左近が支配することになります。島左近はこの頃、筒井順慶を支えていましたが筒井順慶が亡くなってから石田三成の家臣として招かれ、最後は関ケ原の戦いで討死します。

大堀切が見事な吐田城

吐田城
吐田城

大和の有力国人だった楢原氏の楢原城の南にあるのが吐田(はんだ)城で吐田氏の城でした。お隣さんなんですが楢原氏は筒井方、吐田氏は越智方に味方し、争っていました。

■吐田城へ
吐田城のある場所は一言主神社の裏山です。吐田城への道をネットでいろいろと調べましたが、近くまで行き尾根まで直登するしかないという情報ばかり(笑)山道という楽な方法はないようです。ということで近くまで沢沿いを歩き最後は崖を直登して、なんとか尾根にたどりつきます。尾根は削平地が続いており、郭や竪堀などがありました。

さて、尾根を歩いて主郭の下までたどりつくと、また崖です。しょうがないので、また直登し、ようやく主郭に入ることができました。広い郭の中は石が点在していましたが石垣にしては少ないので建物の礎石用ですかねえ。主郭から奥へ進んでいくと大堀切がありました。高さが10メートル以上はある堀切で、よくこんなの作りましたね。郭から降りるにはロープがいるので、ずっと迂回して大堀切に至り、さらに超えて西にある出丸のような郭まで行ってきました。

■尾根を間違う
帰りは大堀切の横から主郭に登らず(直登するのはしんどい)に最初に登った尾根を目指します。ようやく尾根に入って、どん詰まりまで行くと降りるルートがどこにもない。最初に登った尾根ではありませんでした。いろいろと試しましたが降りても藪だらけで結局は断念して、元まで戻り一つ隣の尾根へ。ここも削平地ですが、やっぱり最初の尾根ではありませんでした。Googleマップという文明の利器があって木立が抜けていればGPSが一応、効きますが山城の中はほぼ真っ白の地図しか出ないため東西南北のおおよその方向を見るだけです。

さて尾根のどん詰まりまで行くと、こっちは何とか降りられそうです。降りると沢に出て、少し歩いたら最初の場所へ戻ってこれました。結局、3本の尾根を歩きましたが3本とも削平地になっていて、往時は砦が作られていたようです。途中で迷いましたが、満喫できる山城ですね。

初山城は国見山城

国見山城
国見山城

2020(令和2)年の初山城は国見山城。大和の国人・越智氏の支城の一つといわれており玉出山城の南側に国見山城があります。2つの城で西南方面を守っていたのでしょう。

麓に国見神社があり、この神社横の山道を登ると郭の一つに入れます。さらに進むと主郭に入り、展望台になっていますが気が邪魔dえ、見えるのは葛城山方面だけです。主郭の近くの郭の先に畝状竪堀があるはずなので藪の中を進みましたが、よく分かりませんでした。

主郭の先に尾根道が続いていて、その先にも別の郭があり、こちらの竪堀は確認できました。ハイキングコースになっていて道もよく整備され、登りやすい山城になっています。