大和布施城

大和布施城
大和布施城

山道を登っていくと、「布施城跡まで600m」という立札があり、少し進むと山道の横に尾根沿いに入れる道があり、ここが布施城の入口。ここから延々と600m以上にわたり郭がつながる巨大な山城になっています。途中には大堀切、櫓台があり、極めつけは畝上竪堀群です。最高所が布施城・本丸跡と書かれていますが、どうも櫓台のようで主郭はもう少し下の広い郭になっています。

■国民・布施氏
布施城を造ったのは布施氏で、興福寺一条院方の国民です。常時は山裾の屋敷山古墳にあった城を使っていたので、この布施城は有事の際の詰城でした。同じ一乗院方である筒井氏と行動をともにすることが多く、松永久秀が大和に攻め入ってきた時、筒井順慶は敗走を重ね、多くの国人が筒井氏を見限るなかで、布施氏は筒井氏に協力していました。

■籠城戦を耐え抜いた布施城
永禄八年(1565)、布施行国が敗走していた筒井順慶を布施城に迎えます。永禄十一年(1568)、織田信長より大和一国を与えられた松永久秀は、翌年に織田勢と共に布施城を攻めたが落とせず兵糧攻めを行っています。結局、布施城は元亀二年(1571)まで籠城戦に耐え抜きます。

天正八年(1580)、松永久秀が大和信貴山城で滅ぶと、信長の命により大和の諸城は郡山城を除いて全て廃城となり、布施城もこの時に廃城となりました。布施氏は、筒井定次の伊賀移封に従い布施の地を離れます。ところが筒井氏の改易で浪人となります。布施に蟄居した布施春行は、大坂の陣で大坂城に籠城し、布施氏は没落していきました。

大和新庄城

大和新庄城
大和新庄城

■古墳に造られたお城
葛城山の麓にある新庄に屋敷山古墳という名前の前方後円墳があり、古代豪族である葛城氏の王の墓と言われています。戦国時代は布施氏が城に改造して居館を構え、江戸時代には陣屋がおかれたことから屋敷山という古墳名になります。高屋城など城に改造した古墳はたくさんあります。今は屋敷山公園となり古墳の他に中央公民館、市民体育館、運動場などがあります。

■大和新庄藩
関ケ原の戦いが終わり桑山一晴が和歌山から当地に移封して布施藩を立藩します。布施氏の居城を陣屋に作り替え、城下町を整備して新城村としたため、藩名は大和新庄藩となります。桑山氏は4代続きましたが4代目桑山一尹の時、徳川家綱(4代将軍)の法会時、院使饗応役を命ぜられていたが、勅使に対して不敬があったとして改易となります。

■忠臣蔵?
話は変わって丹後宮津藩主だった永井尚長は、増上寺での将軍家綱の法要で、共に警備担当を命じられながら以前から不仲だった志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に突如斬りつけられ絶命。内藤家は御家断絶で、斬られた永井家も士道不覚悟ということで改易されます。喧嘩両成敗でした。忠臣蔵では、これが片手落ちとなり討ち入りとなりました。ただし永井家は情状酌量され、弟の永井直圓に大和新庄1万石として存続が許されます。まだまだ戦国の気風が残っている時代でもありました。

永井尚長に斬りつけた内藤忠勝は、忠臣蔵で知られる浅野内匠頭の伯父にあたります。

伊勢神戸城

伊勢神戸城
伊勢神戸城

伊勢平氏の祖となった平維衡(子孫が平清盛)の末裔が鎌倉時代に御家人として伊勢国鈴鹿郡関谷を賜り、ここから名字をとって関氏が生まれます。この関氏の一族が伊勢国河曲郡神戸郷を支配し神戸氏を名乗ります。

やがて尾張を平定した織田信長の伊勢攻めが始まります。基本は力攻めですが、この頃の信長はM&A戦略をとっており、それぞれの名家に養子をいれて最終的に乗っ取る形をとりました。神戸家に入ったのが織田信長・三男の織田信孝で、これ以降、神戸信孝と名乗ります。

伊勢は滝川一益・神戸信孝・長野信包(信長の弟で長野氏の養子)、北畠信雄(信長の次男で北畠氏の養子)による支配下になります。本能寺の変の後、神戸信孝と北畠信雄による跡目争い、いわゆる清須会議が行われます。

伊勢神戸城はそれ以前からありましたが、神戸信孝が強固に整備し、5重の天守閣が築かれます。本丸と堀の一部が遺構として残っています。

大和万歳山城

大和万歳山城
大和万歳山城

ようやく涼しくなり山城シーズンが到来。ということで大和万歳山城へ。

二上山の隣にある山です。當麻寺から當麻山口神社に入り、林道をすすむと尾根筋に入る道があり、この道をひたすら登ります。ハイキングコースになっているので楽なものです。頂上に主郭があり、ここから尾根筋に郭が続いています。縄張図を見ると畝状竪堀があるはずですが、藪のなかにあり、さすがに見られませんでした。堀切はいくつか発見。尾根の東端まで歩くと展望台のような郭があり、大和の南が開け越智城や高取城などを見ることができます。ただ二上山雌岳の山城からは眼下に見えるので一体運用していたか、時代が少しずれるのでしょう。

大和万歳山城は五位堂や鎌田地域を支配していた万歳氏の詰城です。万歳氏は春日神社おん祭の流鏑馬をつとめる国民でもありました。最後は大坂の陣で大坂方に組し、滅びます。

貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

久米田池のすぐ横にあるのが貝吹山古墳。前方後円墳で上に登れます。一説では橘諸兄の墓という説があり諸兄塚とも呼ばれています。

戦国時代、三好実休(三好長慶の弟)が古墳を改良して城にしました。これが貝塚山城です。堀を作り、削平して郭も整備していました。永禄5年(1562年)3月に三好実休と畠山高政がぶつかりました。畠山高政は紀伊・河内国の守護大名でしたが三好長慶に敵対し古市にある高屋城を追われて紀伊に逃れます。再起を期して紀伊から根来衆の援助をえて三好勢を攻め、これが久米田の戦いです。畠山高政は三好実休を破り戦死させます。

三好長慶は飯盛山城で連歌の会の最中に実休の訃報を聞くことになります。三好実休は茶道の造詣が深く武野紹鴎に学び、千利休らとも交流していました。実休の茶道具の多くは信長の手に渡り、本能寺の変でなくなります。辞世の句が「草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず」と伝わっています。

稲葉塁

稲葉塁
稲葉塁

岸和田にある菅原神社の奥にあるのが稲葉塁とよばれる単郭山城。牛滝川と支流に狭まれた河岸段丘にあります。

堀と丸い形をした郭があり詰城として使われていたようです。城主についてはよく分かっておらず、今木氏、大井氏などの名前の他、稲葉氏が城主を勤めていた時代もあるようです。天正8年(1580年)に織田勢が岡山御坊を攻撃する時に稲葉氏が岡山御坊側に着いたため、攻撃され落城したようです。

山城に登るって言ったじゃない!

ファイティング・コンサルタンツ研究会
ファイティングコンサルツ研究会

ファイティング・コンサルタンツ研究会という中小企業診断士の研究会があって秋になると歴史探訪シリーズを行っています。

一度ぐらい山城を登りますかということで織田信長以前に天下をおさめた三好長慶の飯盛城を提案したところ皆が賛同。本日のスケジュールは上方落語で有名な野崎観音ー野崎城(飯盛城の出城)-飯盛城ー四条畷神社ー楠木正行墓所を巡るコースです。

飯盛城はハイキングコースになっていて、山城にしては珍しくきちんと山道が整備されており、高さも300メートル少しで山城を体感するには最適なコースです。大体、山城へ行くのに山道があるだけでありがたいです。

ところが野崎城から飯盛城へ登り始めると、「しんどい!」と不平がオンパレード。いつもは頂上までノンストップで登るのですが、休憩しながらひたすら頂上を目指します。

大体、登る前にランチを食べに入った中華料理屋で宴会してビールをバカバカ飲んでいたのがしんどいの一番の原因でしょう。

だから山城に登るって言ったじゃない!

中野古城

中野古城
中野古城

大阪府よろず支援拠点のお仕事でクラウド会計活用セミナーを富田林商工会で行ってきました。古市古墳群の中にあり、東に行くと二上山で、麓には聖徳太子が眠る上ノ太子があります。駅前からバスが出ています。

セミナーはWヘッダーで前半を担当し、後半は大阪府によるIoT事例のお話でした。IoT事例の時に近くに古墳がないかなと探していると中野古城なるものをGoogleマップで発見。城の情報を探しましたが、何もないですね。富田林の文化財コーナーを見ると商工会議所がある粟ケ池から東へ約200メートルの石川西岸に喜志城跡があったようなので、中野古城は喜志城と連携していたのかもしれません。喜志には東高野街道が通り、ちょっと行ったら河内長野で楠木正成の山城群となりますから城の可能性は高いです。

セミナーと個別相談が終わり、日没までの時間に中野古城まで出かけてきました。台地の縁が城跡になっており、周りは帯郭なのか堀跡なのか分からないものが巡っていました。郭までは切岸になっていて高さは5メートルほどあります。写真の右側が郭跡です。周りには水路があるので、これがかっての堀跡だったかも知れません。

共和国の砦だった草路城

草路城
草路城

JR同志社前駅を西に行くと普賢寺谷で山城群になりますが、東に行くと平地が拡がっており草路城があります。城跡は咋岡(くいおか)神社境内になっていて、神社の周りを水堀が巡り、境内には土塁の一部が残っています。

「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(呉座勇一 中公新書)がベストセラーになりましたが、とにかく複雑怪奇なのが応仁の乱。天皇だけでなく管領などの各家でも跡目争いが起こり登場人物が多すぎてよく分かりません。この草路城が応仁の乱の大きな舞台となります。

■山城国一揆の舞台
幕府の有力守護だった畠山家では畠山政長と畠山義就が争い、山城国をどちらが支配するかでも争っていました。畠山政長が支配していた草路城を畠山義就が攻め、落城させます。この後、南山城から大和にかけて戦場となり2ケ月ほど続いた時、疲弊した国人と農民が「もう、やってられない!」と起こしたのが山城国一揆。

1485年(文明17年)に南山城(久世郡、綴喜郡、相楽郡)の国人や農民が集まり自分たちで南山城の自治を行うことを決めます。その際、立て籠もったのが草路城とされています。さすがの畠山政長・義就もどうすることもできず、両者とも南山城から引き揚げます。

翌年、国人や農民が宇治の平等院に集まり、国中掟法を取り決めます。南山城は「惣国」と称される自治制となり、つまり共和国的存在となりますが、最終的には帝国軍である織田信長が侵略を迎えることになります。

普賢寺谷 大西館

大西館
大西館

普賢寺谷の小野垣内遺跡の対面にあるのが大西館。3つの郭をもつ城でしたが開発でほとんど削平され、郭の一部だけが残っていました。戦国時代の城としては珍しく城主が分かる城だったのにもったいない。

1437年に普賢寺が炎上した後、大西志摩守が普賢寺再興のために全国を勧請したという記録が残っています。普賢寺に一番近いところにもあり、このあたりの盟主だったようです。織田信長が侵攻してきた時代は反信長派だったようで織田信長の命令で切腹させられています。足利義昭と信長が仲違いし、足利義昭が宇治の槙島城で挙兵しましたが敗れて河内へ逃げる時に普賢寺谷を通っています。大西備前守敏元は、この時に足利義昭に付き従ったようで河内若江城で討死にしています。