渚陣屋跡

渚陣屋跡

京阪に御殿山駅があります。名前の通り駅近くの丘陵上に御殿(渚陣屋)がありました。

陣屋を作ったのは永井伊賀守尚庸という人物で、淀藩の初代藩主だった永井尚政の息子です。永井尚政が信濃守となった時の下屋敷があったことから東京都新宿区信濃町になっています。息子の永井尚庸は徳川家綱の小姓を務め、2万石を分与されて渚陣屋を作りました。その後、子孫はすぐ移封となったため陣屋があった時期は短そうです。

現在、陣屋跡は神社や公園になっていますが、けっこう広く、断崖で囲まれているため守りやすい城で枚方や樟葉も一望できます。発掘調査で、中世の大溝が見つかっており、陣屋の前に松永久秀方の野尻備後大夫が造った渚城があったと言われています。この野尻備後大夫ですが借金返済が滞っていると今井宗久が信長に訴えた記録が残っています。

近くには渚の院という惟喬親王の別荘があり、在原業平もよく訪れたようで渚の院をよんだ歌が残っています。

楠葉台場

楠葉台場

枚方で打ち合わせでしたので楠葉台場に寄ってきました。京阪電車の路線のすぐ横に遺構があります。なにもない畑でしたが発掘調査の後、2011年に楠葉台場跡として国の史跡として整備されました。

黒船来航以降、全国に台場が作られ、その一つが楠葉台場。京都の入口にあたる淀川左岸にあり大砲3門を備えていました。勝海舟が指揮をとり外国船が淀川を遡ってくることがないように作られましたが、外国人におびえる朝廷を安心させるためと、過激派などを京に入れさせないための関所の意味合いが強かったようです。

■鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いでは初戦で敗退した幕府軍が後退し淀城へ向かいますが淀藩に入城を断られます。しかたないので淀の先の橋本番所と楠葉台場に兵を集合させます。ところが対岸の高浜台場を守備していた津藩が新政府側について幕府軍に砲撃をはじめたため、幕府軍は総崩れになって大坂に退却します。

楠葉近辺は交通の要衝で今も名神、新幹線、JR、阪急、京阪電車が狭いエリアを走っています。写真に見える山は山崎山で秀吉と明智光秀が激突した山崎の合戦が行われたところです。

佐竹氏

佐竹氏陣跡

”今福の戦い”で豊臣方と戦った佐竹義宣は佐竹氏19代、佐竹氏は常陸源氏の嫡流で名門でした。本貫は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)で、鎌倉公方や足利将軍家との争いに巻き込まれながら常陸を中心に戦国大名へと育っていきます。

当主の佐竹義宣は石田三成に近かったですが、関ヶ原の戦いでは家中での意見がまとまらずに中立的な態度をとります。これが問題となったのか徳川家康から突然、出羽国秋田郡への国替えを命じられ、先祖伝来の常陸を離れることになりました。国替えの原因は諸説あります。

この後、大坂冬の陣で上杉景勝と共に最前線を任せられ鴫野・今福の戦いに臨みますが、この時の陣跡が現在、若宮八幡大神宮となっています。江戸時代は国替えもなく明治維新を迎えますが、幕末はいろいろと事件がありました。まず平賀源内が遠近法などの蘭画の手法を伝えたところから生まれたのが秋田蘭画でなんと藩主までが蘭画を描いています。戊辰戦争では平田篤胤が秋田出身ということもあり尊王の意識が強く、最初は奥羽越列藩同盟に加わっていましたが離脱して新政府軍に参加、怒った仙台藩と秋田戦争を戦うことになります。

今福の戦い(大坂冬の陣)

今福の戦い(大坂冬の陣)

大坂城の北側にある鴫野村のさらに北側を大和川が流れ、川を渡った対岸が今福村です。今は大和川でなく寝屋川が流れています。

今は住宅街になっていますが当時は低湿地帯でした。兵が展開できるのは堤の上だけで周りは田んぼという状況です。豊臣方は柵を設け守備していましたが、徳川家康は附城を鴫野と今福に築くため、柵の攻略を佐竹義宣に命じます。佐竹義宣が堤を進み柵に攻めかかっていたところ、大坂城から木村重成が応援に出て反撃したため佐竹勢は後退します。ところが対岸から上杉勢が銃撃するため木村隊も進めず膠着状態になります。

そこへかけつけたのが後藤又兵衛で、ひるむ豊臣方を立て直して堤の上から銃撃を開始し、木村隊が突っ込むことで佐竹勢の先鋒隊が潰走することになります。佐竹義宣も危うくなり家老が討死にする事態となります。対岸の上杉勢に救援を求め、上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が中州まで降りて側面から銃撃したことで豊臣方が引き上げることになりました。両者、引き分けの戦いでした。

今福の戦いの碑が三郷橋稲荷神社のすぐ横にありますが、何も残っていません。ただ堤の高低差が残っていて、かなり狭い堤の上での戦いが実感できます。真田丸での戦いが始まる2週間前のことです。

上杉景勝陣跡(鴫野)

八剱神社

大河ドラマ「真田丸」で真田丸での真田軍の奮闘を見た上杉景勝が「真田左衛門佐、日ノ本一の兵なり! 」と叫ぶシーンが出てきますが、上杉景勝は真田丸近くにはおらず、いたのははるか北の鴫野という場所です。

鴫野には八劔神社があり、ここが大坂冬の陣での上杉景勝陣所と伝わっています。ここで鴫野の戦いが行われました。豊臣方は鴫野村に柵を設置し、兵2,000で守備していましたが、徳川家康は付城を築くため、鴫野の柵の奪取を命じます。鴫野へ向かったのが上杉景勝と後詰の堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝です。

上杉軍が鴫野の柵を攻撃し、柵を占拠しますが、大坂城から大野治長らが12,000の兵で来援し反撃に転じました。上杉軍は鉄砲の一斉射撃や槍兵の側面からの突撃で援軍を撃退します。

鴫野の戦いの後、上杉景勝は大坂城の東側で大坂方と対峙しましたので真田丸ははるか先です。日ノ本一の兵なり! と言ったのは大体、島津ですしね。

岩﨑山城(北ノ庄城)

岩﨑山城(北ノ庄城)

八幡山城の「北の丸」脇から山道が出ていて、これが尾根沿いに百々神社まで行くことができる縦走路。途中に岩﨑山城(北ノ庄城)があります。

岩﨑山城は佐々木氏の支城ということでしたが発掘調査の結果、大規模な堀切や虎口が見つかり、どうも八幡山城と有機的な結びつきがあったようです。秀次の時代に八幡山城の北側を守るために佐々木氏の城に手を入れて有効活用したのでしょう。

縦走路は土橋の上を渡り、北側の土塁上に続いています。南側に郭が続いているのですが、これが藪だらけになっていて郭に入るのがなかなか大変。虎口などがあるはずですが、そこまでたどりつけませんでした。東側の石垣がある平虎口は見られました。岩﨑山城で有名なのが七つ池といわれる窪みで、水を確保するためのものだったのでしょうか、これは縦走路近くだったので見られました。

岩﨑山城から麓の北ノ庄神社に降りる道があったので、山を降り始めましたが誰も通らないため途中から藪と蜘蛛の巣だらけに。とりあえず道らしきところを通って麓へたどりつくと神社から少し離れたところへ到着(笑)。ハードな山城シーズンには、まだ早すぎたようです。

近江八幡山城

近江八幡山城

八幡山城ですが、なんてたってロープウェイ(近江鉄道)があるのがいいですねえ。片道4分(490円)乗車するだけで苦労せずに山城に到達できます。山城は好きですが、別に登山は趣味じゃないので山城まで楽に行ければ、それにこしたことはありません。ただそんな山城は岐阜城と松山城ぐらいしかなく、せっせと藪漕ぎしながら山道を登ることになります。

八幡山城を作ったのは秀吉で、秀次を入城させますが秀次が高野山で切腹した後に聚楽第とともに廃城となりました。信長が安土城を造った時に中山道より琵琶湖側に入った脇街道を整備し、安土と京都を結びました。近江八幡は安土に代わって、この脇街道や琵琶湖の水運など物流をおさえる拠点として造られます。脇街道は江戸時代に朝鮮通信使が通る道となったので朝鮮人街道とも呼ばれています。

八幡山城本丸跡は瑞龍寺となっていますが、石垣はそのまま残っていて枡形虎口などが確認できます。北の丸からは安土城、観音寺城がよく見え、西の丸からは琵琶湖が一望できました。ただ西の丸から出丸まで行こうと思ったら通行止めになっていました。

豊臣秀次館跡

豊臣秀次館跡

近江八幡の城下町を整備したのが豊臣秀次です。秀吉の姉の子で後継者がいなかった秀吉の養子となります。

本能寺の変で織田信長が亡くなり、その後の混乱で安土城が燃えてしまいました。ルイス・フロイトによると犯人は織田信雄が濃厚のようです。近江を支配することになった17歳の豊臣秀次は八幡山城を築き城下町を整備します。すぐ隣の安土城下の民衆を移し、楽市楽座を開設。琵琶湖がすぐ横ですので安土城と同様に水運を重視します。もっとも秀次についた宿老たちが優秀だったのでしょう。

八幡山城は詰の城で、山麓に居館が作られました。場所は市立図書館の裏手で八幡公園の一番西にある階段をひたすら登るとたどりつくことができます。ところが観光案内にも載っておらず看板もありません。というわけで誰もいません(笑)。

八幡公園も含め、平坦地の段が階段の両側に続いていますが、これが家臣団屋敷で、ところどころに石垣が残っています。一番上まで登ると石垣の壁があらわれ、これが秀次館跡。発掘調査で秀次が使っていた沢瀉紋(おもだかもん)が入った金箔瓦が発見されて秀次館跡と特定されました。なんで観光名所になっていないんでしょうね。

長光寺城(瓶割城)

長光寺城(瓶割城)

ようやく山城シーズンが到来しました。

ガチャコン(近江鉄道)に乗って武佐駅へ。駅から中山道の西宿を抜け工業団地の脇を通ると瓶割山の麓につきます。ここから山道に分け入って頂上まで登ると長光寺城があります。日吉神社裏から登るのが定番のようですが、工業団地のすぐ近くに案内版があったので、こちらから登りました。

広い主郭以外に4つほどの郭があり、主郭からは近江八幡城と琵琶湖を見ることができます。安土城もすぐ近くにあります。主郭の横には石垣の一部が残っていました。おそらく勝家の時代のものでしょう。

長光寺城はもともとは鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと言われていますが、織田信長の上洛にあわせ、1570年に長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。八風街道と中山道をおさえる城でしたので京都への路を確保する狙いがありました。

■瓶割城
信長に敵対する佐々木氏(六角氏)が攻めてきた時、柴田勝家は籠城して耐えましたが、味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割り背水の陣で討って出ました。これが「瓶割り柴田」の異名となりますが、どうも伝説のようですね。長光寺城は別名、瓶割城と呼ばれています。

中村一氏時代の駿府城が見つかる

駿府城

朝、ニュースを見ていると駿府城発掘調査で秀吉時代の金箔瓦と天守台が見つかったと報じていました。

秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼした後、徳川家康に後北条氏の遺領となった関東への国替えを命じます。この家康を封じるために各所に子飼いの大名を配置しますが。駿府に入ったのが中村一氏で、この時に築城されたようです。

この中村一氏ですが、まだ和泉や紀州が秀吉に敵対していた時代に大坂の南のおさえとして岸和田城主となります。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉軍主力が尾張へ展開している間隙をぬって、根来・雑賀衆、粉河寺衆が攻めてきます。岸和田城の攻防戦を何とかもちこたえ、秀吉軍と共に貝塚の千石堀城、積善寺城など相手の拠点を次々に落して紀州征伐となります。

南海電車に蛸地蔵駅がありますが、駅名の由来はこの時の岸和田城の攻防戦で落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ落城を救ったという伝説からきています。

中村一氏は秀吉の信頼あつく駿河一国をまかされ、関ケ原の戦い合戦前に亡くなります。この中村一氏時代の城跡ですか~あ。見てみたいな~あ。静岡からセミナーの話でも来ないかなあ(笑)。