増田氏城のすぐ隣にあるのが知高左衛門城。
知高氏によって造られたとありますが、よく分かっていません。増田氏城と山道を隔てた本当にお隣さんなんで、万が一の時には共同で事に当たったのでしょう。こちらは単郭ですので弟分のような存在だったかもしれません。
竹藪のなかに10mほどの高さの土塁がそびえています。
カテゴリー: 城・山城
伊賀増田氏城
星ケ崎城(近江)
中山道の鏡宿を見下ろす鏡山の北端の支峰に築かれているのが星ケ崎城。
伝承では室町時代中頃に鏡氏(佐々木源氏)によって築城された山城で、常に暮らしていた館が麓の井上館で、こちらは詰城の模様。承久の変で鏡氏が滅んでからは六角氏が城主となったようです。織田信長が足利義昭の上洛で近江に攻め入った時に、六角氏が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたうちの一つという説もあります。
城はよく整備されていて主郭には石垣が残っていました山城に石垣があるのは珍しく、六角氏の時代のものでしょう。また主郭には「星ケ丘城跡」という石碑や説明版までありました。こんな山城ばっかりだと、どこが主郭跡か藪の中を探し回らなくてすむので楽なんですが。
頂上からは眺めがよく琵琶湖や新幹線が一望できます。近江八幡城などもよく見えます。
今も子孫が住む井上館(鏡城)
前田城(安濃)
金ケ原城(菰野)
南北朝時代の忠臣のお城 千草城
菰野にあるのが千草城
住宅街の中の丘の上にあるお城で、公園として整備されていて藪もなく、とても見やすい城になっています。東へ張り出した丘陵に千草城は築かれていて、東西二郭があり、虎口には空堀と土橋が残っています。特に見事なのが西へ続く尾根を断ち切った大空堀です。
■三木一草
千草城は南北朝時代に千種顕経によって築かれたと伝わっています。千種忠顕という後醍醐天皇に仕えた公家がいて、後醍醐天皇が隠岐に流された時にもついていきました。後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、伯耆の名和長年を頼り、船上山で挙兵をします。
これが鎌倉幕府の討幕へと進んでいきます。足利尊氏とともに六波羅攻めにも加わっています。南北朝に分かれてからは南朝方で戦い討死しています。千種忠顕は楠木正成、名和長年、結城親光と共に、「三木一草」と称されています。
■千草城
三重郡を領していた時は禅林寺城を居城としていましたが、子供の顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったようです。数代たった千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていたと言われています。
最後の千草氏は千草顕理で織田信雄、秀吉、秀頼に仕え、大坂夏の陣で討死し千草氏が滅び、この時に千種城も廃城になったようです。
菰野城
狛城(上狛環濠)
上狛駅の西側に拡がるのが上狛環濠で村を取り囲むような環濠が見事に残っていて中心部にあったのが狛氏の居城だった狛城ですが、現在は遺構がなくなっています。城を中心に集落を取り込んで要塞化していました。集落は少し高台になっています。
狛氏は興福寺領の下司でした。ゲスの極みの下衆(ゲス)とは違います。下司とは荘園を現地で管理していた下級職員を指す言葉で、任命されていたのは現地の有力国人でした。狛氏は山城国一揆では三十六人衆に名を連ねる有力国人で、もともとは渡来系でした。
狛氏は、応仁・文明の乱では細川氏の被官として東軍に属していましたが、狛城は南山城に侵攻してきた西軍の畠山義就方に攻め落とされ、畠山方がこの狛城を本拠地にしたようです。ですので狛氏が詰城として鳶ケ城を備えたんでしょうね。
鳶ケ城(恭仁京跡を見下ろせる山城)
東山城(高之林城)に行ったついでに鳶ケ城へ。
ネットで調べるとJR上狛駅から行けるところに鳶ケ城があるような雰囲気だったので、信じてまずは神童寺へ。まずこの神童寺まで行くのが遠い。神童寺から天神社へ向かう手前に小さなお堂があり、ここから山道に入ることができます。尾根まで乗り上げると「鳶ケ城→」という手製の矢印があったので、その方向へひたすら山道を歩きます。これが遠い!
所々に「←神童寺 海住山寺→」の案内があり、案内に従っていくつもの尾根や山を越えていきます。いい加減、疲れた頃に鳶ケ城という案内が出てきます。主郭へ登ると眺めは抜群。それはよいのですが目の前に見えているのは、どう見てもJR加茂駅と木津川。というと足元に見えるのは恭仁京跡!!
けっこう歩いたなと思ったら加茂までたどりついていました。鳶ケ城は狛氏の詰城でしたが、木津から伊賀上野へ抜ける街道をおさえるのが目的だったのでしょう。帰りもひたすら歩いて戻ってきました。