御着城

御着城
大河ドラマ「軍師官兵衛」の前半でよく出てきた御着城です。
大河ドラマでは片岡鶴太郎が播磨御着城主である小寺政職を演じていました。小寺政職は家老・官兵衛の進言に従って織田方についたのですが、別所一族や荒木村重の裏切りをみて毛利方につきます。織田は石山本願寺とも戦っており、けっこう危ない時期だったので判断としては妥当でしょう。
ところが織田はしぶとく生き残り、御着城は結局は織田に攻められて落城し、落ちのびます。小寺氏は播磨守護であった赤松氏の一族でした。
御着城は平城で川の水をひき堀にしていました。広大な敷地の城だったようですが、城跡は何も残っておらず、本丸跡は公園になっているだけです。JR御着駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。

英賀城

英賀城
山陽姫路駅から3駅目が飾磨駅(しかまえき)。ここから山陽電鉄網干線という支線が出ていて一駅目が西飾磨駅です。
駅から歩いてすぐの所にあるのが英賀(あが)城で、ほとんど住宅地に埋没してしまったのですが墓地や神社などに土塁が少し残っているのと堀跡が水路として残っています。この水路がけっこう湾曲していて昔は横矢はかかるように考えられていたんですね。
瀬戸内海が近く、英賀は古代より水の要所と栄えていました。夢前川の河口にあり、南が瀬戸内海、西に夢前川、東に水尾川が流れ、川を堀替わりにした平城で、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城の一つです。大河ドラマ「軍師官兵衛」では播磨進出を狙う毛利と小寺氏の部下だった黒田官兵衛が英賀で戦い、毛利軍を撃退する英賀合戦が描かれていました。英賀城は秀吉の播磨進出で敵対したため攻められ落城しました。

向島城

向島城
伏見指月城の横を宇治川が流れています。豊後橋(現在の観月橋)を渡ると向島です。
向島は昔、巨椋池を拡がる湿地帯でした。ここに造られたのが向島城で伏見城の出城の役割がありました。秀吉が亡くなってから家康の一時的な居城にもなっています。古地図を見ると本丸、二の丸、三の丸からなる大きな平城でした。水堀も大きかったようです。
今は市街地となってしまい、何も残っていません。本丸町、二の丸町という名前がついていますが昭和のはじめにつけた町名のようで、当時は堀跡などがまだ池として残っていました。昔の堀跡の位置に水路があったり微妙な高低差があったりして楽しめます。

伏見指月城 舟入

伏見指月城 舟入
京都橘大学へ。それにしても今日の京都は暑かったですなあ。
大学へ1年ぶりに行くと、けっこう色々と変っていて学食に行ったらカフェに変っていました。他の学食を探して、ようやく昼飯をゲット。帰りには伏見に行くスクールバスがあったので乗車。伏見指月城の舟入を見てきました。
秀吉が最初に造った伏見城で、観月橋近くの丘に造られましたが、慶長大地震で倒壊してしまいます。新たにの木幡山に造りなおすことになりますが、大河ドラマ真田丸では、新しい城の縄張図を真田昌幸に命ずるシーンが登場していました。伏見指月城跡は団地になってしまいましたが東側に大きな舟入があり、川から城に入れるようになっていました。
写真の先が深い谷になっていて、ここが舟入跡です。今は住宅地になっていますが高低差が見事です。

小松原館(紀伊)

小松原館
久しぶりに専門家派遣で紀州国へ行ったので、御坊駅で途中下車。
御坊駅のすぐ北側にあるのが亀山で頂上に紀伊亀山城があります。代々湯川氏の居城でした。紀伊亀山城は昔、これまた専門家派遣のついでに行きましたので今回は平城の小松原館を目指します。十一代城主・湯川直光が造った小松原館です。紀伊亀山城は山の上なので、寒風の季節は住みにくいというのが造った理由ですが、本当ですかねえ。そんな標高の高い山でもないし、温暖な紀州ですから冬の別荘替わりといったところでしょうか。河内国のもっと標高が高い飯盛山城に三好長慶なんか、ずっと住んでいました。
城跡はほとんど遺構が残っておらず、紀央館高校と湯川中学校になっています。湯川神社に堀の一部が残っています。後に羽柴秀吉による紀州攻めがあり、湯川氏は小松原館、紀伊亀山城を焼き払って退去したと伝わっています。

龍野城

龍野城
鶏籠山の麓にあるのが龍野城で平城になっています。龍野城の裏から龍野古城へ行けるのですが、ふつうの観光客は龍野城と城下町巡りを楽しみます。山城へ登るような、酔狂な人間はいません。(笑)
龍野城は戦国も終り、幕藩体制が整った頃に造られたので陣屋形式の城となりました。造ったのは脇坂安政です。石垣しか残っていませんでしたが隅櫓や埋門などが再建されました。脇坂家は幕末まで続くことになります。脇坂家の初代といえば”賤ヶ岳の七本槍”の一人である脇坂安治です。秀吉のもとで福島正則や加藤清正らと共に活躍しましたが、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋と一緒に裏切りました。まあ家康には事前に裏切ると言ってあったようです。
■しつこくて細かな性格だった秀吉
昨年、秀吉から脇坂安治へ宛てた手紙33通が新たに見つかり話題になりました。秀吉が佐々成政を相手に北陸攻めをしていた時、脇坂安治は京都御所などの建設用資材(材木)を運ぶ役割でした。ところが脇坂安治は北陸攻めに参加したかったようで、秀吉から”しっかり身をいれて材木を運べ、戦に参加したいとか言うな”という叱責の手紙をもらっています。しかも10日おきぐらいに出している時があり、秀吉は北陸ですから返事が来る前に出していたようです。子飼いの武将なんで秀吉も信用していたのでしょう。

龍野古城 軍師官兵衛の舞台

龍野古城
■嘉吉の乱
室町時代、赤松家といえば名門で播磨・備前・美作の守護をつとめていました。ところが6代将軍となった足利義教という人物がとんだ曲者。最初は集団指導体制だったのが、だんだん独裁者に変わっていき、粛清がはじまります。どっかの国みたいですね。
次は俺がやられると思った赤松満祐はクーデターを起こし、将軍を暗殺してしまいます。独裁者を殺したから周りも納得し、助けてくれるだろうと思ったら手のひら返しで赤松氏は滅ぼされてしまいました。これが日本史で習った嘉吉の乱です。
■赤松家と黒田官兵衛との戦い
南北朝など紆余曲折があり赤松氏は復活します。ただ本家と分家があり、龍野赤松家は分家の方で本家とも争っていました。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では初期の頃に小寺、浦上、赤丸と黒田家が入り乱れての戦いとなります。
龍野城主・赤松政秀は団時朗という渋い俳優が演じていて、”青山・土器山の戦い”で黒田官兵衛に敗れます。ただ黒田家も被害が大きく、母里武兵衛(永井大が演じてました)などが戦死します。
■龍野古城
というわけで龍野赤松家の龍野城です。鶏籠山頂に築かれた山城で、地元の人がきっちり登山道を整備し、そこかしこに案内版があるので迷うことなく山城に到達します。まず二郭に入れますが、けっこう大きな城で主郭には崩れた石垣が残っていました。帯郭なども見事でした。

激戦の谷筋(大坂夏の陣の舞台)

河堀町
大河ドラマ「真田丸」で、少し出てきましたが、大坂夏の陣は野外戦だけではなく堀を挟んだ攻防戦がありました。というわけで現在も高低差が残る、堀跡を見に行きました。「激戦の谷筋」というノボリが谷筋にはためいています。
この堀跡が注目されるようになったのは尾張徳川家に伝えられた天王寺表合戦緒備之図で、大坂夏の陣の様子を描いたものです。よく見ると真田信繁が陣を置いた茶臼山から大野治房が陣を置いた岡山まで崖が描かれています。昨年、茶臼山と岡山に馬出しがあったことが分かり、堀の両端に茶臼山と岡山の城をセットした防衛線だったことが判明。大坂冬の陣の和睦で総構がなくなってしまいましたが、新たに総構を造っていたことになります。
■和気清麻呂が造った運河
もともとは和気清麻呂が造ったものです。宇佐八幡宮神託事件で有名で、戦前には十円紙幣に描かれていました。この和気清麻呂が行ったのが大和川の付替で上町台地を開削しようとしました。前例があり、それが仁徳天皇が行った”難波の堀江”。つまり運河で現在の大川といわれています。
しかしこの国家プロジェクトは頓挫したようで、茶臼山の横にある河底池はその名残といわれています。この運河ですが茶臼山から岡山まで、戦国時代にもある程度、現存していたようで、おそらく真田信繁が整備して堀にしたのでしょう。今も付近には河堀、堀越、大道などの地名が残っています。
大坂の陣が終わってからは埋められたようで、現在は窪地で残っています。江戸時代の古地図が家にいくつかあるので調べてみましたが掲載されていませんでした。茶臼山の河底池にですが、初代通天閣ができた内国勧業博覧会では飛艇戯(ウォータースライダー)が設置されました。

真田の丸馬出し(茶臼山)

馬出し
天王寺のすぐ近くにある茶臼山は大坂夏の陣では真田信繁の本陣となり、ここから家康目指して突撃しました。茶臼山にはちょこちょこ行っていたのですが、横に丸馬出し跡が残っているとは知らず、見に行ってきました。写真が丸馬出し跡です。
馬出しというのは城の外側に築かれる防御陣地で横の2ケ所から馬が出せるような形になっています。真田丸もこの馬出しを巨大にしたものだと長年、言われていましたが去年、松江歴史館で見つかったのが「極秘諸国城図」で独立した出城だったことが判明します。
馬出しには四角形になった角馬出しと半月型となった丸馬出しがありますが、武田でよく使われていたのが丸馬出し。真田は武田の有力武将でしたので城造りも武田に学んだのでしょう。「摂津茶臼山御陣城図」というのが残っており、茶臼山本陣のすぐ横に造られていたのが丸馬出しでした。ここから家康本陣を目指したんですね。

楠木七城の一つ 金胎寺城

金胎寺城
金胎寺城は河内長野にある楠木七城の一つです。昔、山の麓に金胎寺がありました。
楠木七城というのは楠木正成が鎌倉幕府へ抵抗するために築城した城砦群のことで千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城からなっています。石碑しか残っていない下赤坂城以外の六城には全部、登りました。(笑)
金胎寺城は楠木の城でしたが、室町時代は近くの嶽山城ともども河内守護となった畠山基国の城となり、南朝側の楠木を攻める拠点になります。畠山基国の孫が畠山持国です。持国の実子である義就と甥で持国の養子だった政長の間で家督争いが発生。畠山義就は嶽山城、金胎寺などにこもって畠山政長と戦います。これが将軍家や細川家の家督争いとからんで応仁の乱へと続いていきます。
■登山道が整備された金胎寺城
金胎寺城は、よく歴史書に出てくる城なんですが、今までは藪だらけで整備されておらず、たどりつくのが大変でした。2015年に地元の方が木を伐採、道を整備し、城まで登山道が作られました。道には頂上まであと何分という案内があり、迷うことはありません。えっちらおっちら登ると主郭からは360度、見渡すことができます。
遠くは明石海峡や六甲の山、近くにはハルカスやPLタワーなどが見えます。烏帽子形城や嶽山城もよく見え、連携して動いていたことがよく分かります。他の郭跡や堀切もしっかり残っています。スーツ姿では登れません。