激戦の谷筋(大坂夏の陣の舞台)

河堀町
大河ドラマ「真田丸」で、少し出てきましたが、大坂夏の陣は野外戦だけではなく堀を挟んだ攻防戦がありました。というわけで現在も高低差が残る、堀跡を見に行きました。「激戦の谷筋」というノボリが谷筋にはためいています。
この堀跡が注目されるようになったのは尾張徳川家に伝えられた天王寺表合戦緒備之図で、大坂夏の陣の様子を描いたものです。よく見ると真田信繁が陣を置いた茶臼山から大野治房が陣を置いた岡山まで崖が描かれています。昨年、茶臼山と岡山に馬出しがあったことが分かり、堀の両端に茶臼山と岡山の城をセットした防衛線だったことが判明。大坂冬の陣の和睦で総構がなくなってしまいましたが、新たに総構を造っていたことになります。
■和気清麻呂が造った運河
もともとは和気清麻呂が造ったものです。宇佐八幡宮神託事件で有名で、戦前には十円紙幣に描かれていました。この和気清麻呂が行ったのが大和川の付替で上町台地を開削しようとしました。前例があり、それが仁徳天皇が行った”難波の堀江”。つまり運河で現在の大川といわれています。
しかしこの国家プロジェクトは頓挫したようで、茶臼山の横にある河底池はその名残といわれています。この運河ですが茶臼山から岡山まで、戦国時代にもある程度、現存していたようで、おそらく真田信繁が整備して堀にしたのでしょう。今も付近には河堀、堀越、大道などの地名が残っています。
大坂の陣が終わってからは埋められたようで、現在は窪地で残っています。江戸時代の古地図が家にいくつかあるので調べてみましたが掲載されていませんでした。茶臼山の河底池にですが、初代通天閣ができた内国勧業博覧会では飛艇戯(ウォータースライダー)が設置されました。

真田の丸馬出し(茶臼山)

馬出し
天王寺のすぐ近くにある茶臼山は大坂夏の陣では真田信繁の本陣となり、ここから家康目指して突撃しました。茶臼山にはちょこちょこ行っていたのですが、横に丸馬出し跡が残っているとは知らず、見に行ってきました。写真が丸馬出し跡です。
馬出しというのは城の外側に築かれる防御陣地で横の2ケ所から馬が出せるような形になっています。真田丸もこの馬出しを巨大にしたものだと長年、言われていましたが去年、松江歴史館で見つかったのが「極秘諸国城図」で独立した出城だったことが判明します。
馬出しには四角形になった角馬出しと半月型となった丸馬出しがありますが、武田でよく使われていたのが丸馬出し。真田は武田の有力武将でしたので城造りも武田に学んだのでしょう。「摂津茶臼山御陣城図」というのが残っており、茶臼山本陣のすぐ横に造られていたのが丸馬出しでした。ここから家康本陣を目指したんですね。

楠木七城の一つ 金胎寺城

金胎寺城
金胎寺城は河内長野にある楠木七城の一つです。昔、山の麓に金胎寺がありました。
楠木七城というのは楠木正成が鎌倉幕府へ抵抗するために築城した城砦群のことで千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城からなっています。石碑しか残っていない下赤坂城以外の六城には全部、登りました。(笑)
金胎寺城は楠木の城でしたが、室町時代は近くの嶽山城ともども河内守護となった畠山基国の城となり、南朝側の楠木を攻める拠点になります。畠山基国の孫が畠山持国です。持国の実子である義就と甥で持国の養子だった政長の間で家督争いが発生。畠山義就は嶽山城、金胎寺などにこもって畠山政長と戦います。これが将軍家や細川家の家督争いとからんで応仁の乱へと続いていきます。
■登山道が整備された金胎寺城
金胎寺城は、よく歴史書に出てくる城なんですが、今までは藪だらけで整備されておらず、たどりつくのが大変でした。2015年に地元の方が木を伐採、道を整備し、城まで登山道が作られました。道には頂上まであと何分という案内があり、迷うことはありません。えっちらおっちら登ると主郭からは360度、見渡すことができます。
遠くは明石海峡や六甲の山、近くにはハルカスやPLタワーなどが見えます。烏帽子形城や嶽山城もよく見え、連携して動いていたことがよく分かります。他の郭跡や堀切もしっかり残っています。スーツ姿では登れません。

嶽山城 応仁の乱の舞台

嶽山城
「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中公文庫)が28万部を超え、固い歴史書では珍しくベストセラーになっています。いいな~あ、ウチのバグ本も売れないかなあ(笑)。
京都からの視点ではなく、興福寺の僧である経覚と尋尊が奈良を中心に応仁の乱について日記を記載しており、”奈良から見た応仁の乱”になっており、なかなか面白い内容です。
■嶽山城
さて応仁の乱というと京都が戦場というイメージがありますが、そんなことはなく河内も大和も皆、戦場になりました。河内で戦場になったのは若江城、高屋城、そして嶽山城です。
富田林にある嶽山城では”嶽山城の戦い”が行われ、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城し2年以上も幕府軍と戦いました。畠山義就は負けて嶽山城は落城するのですが、畠山義就は紀伊や吉野に逃れ、やがて上洛して畠山政長の追い落しをはかり、これが応仁の乱へとつながっていきます。
嶽山城はもともと楠木正成が作った楠木七城の一つといわれています。現在、城の跡地は「かんぽの宿富田林」となり、城跡などは残っていません。テニスコートの奥の方に碑が建っていて、碑の先に広い平坦地がありました。郭の跡のようですね。

田城城跡

田城城
近鉄志摩線の加茂駅からちょっと行ったところにあるのが田城城跡。
九鬼岩倉神社前という交差点のすぐ近くにこんもりとした丘があり、ここが城跡です。城跡は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵にあり、急峻な崖になっています。主郭跡には九鬼岩倉神社があって、祭神は九鬼澄隆です。
織田信長と石山本願寺が戦った第一次木津川口の合戦では毛利水軍&村上水軍に敗れます。信長の命で九鬼嘉隆が6隻の鉄甲船を伊勢で作り、第二次木津川口の戦いで毛利水軍に勝って制海権を握ります。
この九鬼嘉隆の祖父が九鬼泰隆で、田城城で北畠氏に従い二見七郷と加茂五郷を支配していました。九鬼嘉隆の兄である九鬼浄隆が家督を継いだ頃は北畠や志摩七党と敵対していました。九鬼嘉隆は滝川一益を介して織田信長に接近し、北畠攻めにも参加、志摩七党も破り、田城城を取り戻します。
その後、いろいろと一族の争いがあったようで九鬼嘉隆が兄の子である九鬼澄隆を暗殺し、その後、この城は廃城となりました。九鬼嘉隆は鳥羽城を居城にします。九鬼嘉隆の子である九鬼守隆が重病になった時に澄隆に関するうわごとを言ったため、九鬼澄隆を祀る神社が城跡にできました。

明日香城塞群(10) 五条野城

五条野城
明日香城塞群シリーズの最後は五条野城です。
岡寺駅から少し行った丸山古墳の近くに五条野町という土地があり、ここの丘陵の先端に城跡があります。城跡からは岡寺駅へ向かう155号線が見下ろせます。現在は八咫烏神社になっていて境内が主郭跡で今も屈曲した土塁や堀跡が残っています。
守護がいなかった大和は興福寺が守護代わりで、興福寺と一体化していた春日神社の神人に組み入れられていたのが国民(くにたみ)です。有名なところでは筒井氏、越智氏、十市氏、古市氏などがいますが、興福寺一乗院門跡坊人に五条野氏がいました。土地の名前からいって、この五条野氏の城跡のようです。国民はあっちについたり、こっちについたりという歴史ですが、室町後期には越智氏の「段銭帳」に名前の記載があり、越智氏の支配下にあったようです。
この五条野という土地ですが甘樫丘からつながる丘陵地域です。五条野内垣内遺跡などで建物跡などが見つかっており古代は蘇我氏の支配地域でしたが滅んでからは天皇家に関係する大型建物が造られた土地のようです。今は住宅街になっています。

明日香城塞群(9) 平田遺構

平田遺構
極彩色の壁画が発見され、一躍有名になったのが高松塚古墳。今は国営飛鳥歴史公園として整備されています。
公園の駐輪場にレンターサイクルをおいて、観光客が向かう高松塚古墳方面へ。途中に芝生公園があり、その右側に小高い丘があって、現在は展望台になっています。ここが目指す山城跡です。
すっかり公園化されてしまいましたが4つの郭が残っています。また土塁も一部に残っていました。帯郭らしきものもあり、郭と郭の間のかっての堀切が現在は高松塚古墳への道になっています。展望台などにせず、そのまま山城として残してほしかったですねえ。

明日香城塞群(8) 野口吹山城

明日香城塞群
野口植山城のすぐ近くにあるのが野口吹山城。といっても飛鳥のどこらへんか場所がよく分からないと思いますので地図を参照ください。天武・持統天皇陵のすぐ近くの丘にあります。ついでに今まで回った明日香城塞群にも〇をしています。
野口吹山城ですが、誰がいつ造ったのか、分かっていません。野口植山城の対面にあるので2つの城で一体運用したようです。お墓と神社へつながる階段があり、この神社の裏側に土橋のような長い土塁がありました。切岸をあがると堀切などがありますが、さらにその上の郭に入るにはひどい藪で、さすがにあきらめました。小規模なお城です。

明日香城塞群(7) 野口植山城

野口植山城
明日香の城塞群を巡るとなると周辺部にあるため観光客が多い飛鳥寺、川原宮などがある中心部を素通りすることになります。アップダウンが多い道をレンターサイクルで行くことになり、いい運動になります。
明日香小学校・西隣の小山にあるのが野口植山城。誰がいつ造った城なのか伝わっていません。すぐ近くに野口吹山城があり、飛鳥時代の定林寺跡へ向かう道を両方から守る形になっています。近くにトノガヤシキという小字が残っているそうで、武将の館があったかもしれません。
野口植山城ですが竹藪に覆われていて郭の形などはだいぶ崩れていますがなんとか確認ができます。

明日香城塞群(6) 祝戸城

祝戸城
石舞台古墳から川を渡って南西に向かうと祝戸という土地になり、さらに奥へ行くと飛鳥稲淵宮殿跡があります。石舞台古墳は観光客で一杯ですが、祝戸は飛鳥の中心域からはずれていますので観光客もほとんどいません。
飛鳥稲淵宮殿跡の後ろが山になっていて、山の上に祝戸城があります。山は展望台(国営飛鳥歴史公園)として整備されていて麓から山上まで階段がひたすら続いています。山のピークの中心部まで階段が続いて東展望台と西展望台があります。階段から西展望台に向かう途中に祝戸城がありますが、小さな城ですので、しっかり縄張図を見て城の全体像を記憶していないと気がつきません。私も通り過ぎてから、”待てよ、さっきのは郭みたいだったな”と来た道を戻り、郭に登って気がつきました。祝戸城は2つの郭から構成され、小規模な堀切が2ケ所ありました。公園化でだいぶ改変されたようです。
飛鳥稲淵宮殿跡は発掘調査によると飛鳥の宮殿跡のようですが詳しいことは分かっていません。同様に祝戸城についても詳しいことはわかっていません。