金曜日、午後から夜にかけてセミナーがダブルヘッダーでしたが午前中、時間が空いていたので家所城へ出かけてきました。
家所城には津新町駅から穴倉行きのバスに乗っていきます。バスは2時間に1本しかないのですが、ちょうど行って帰ってこれるバスがありました。場所は巨大干支で有名な辰水神社の近くです。
家所城は長野工藤氏の一族のお城。長野工藤氏といえば、曾我兄弟の仇討ちで、討ち取られた工藤家の子孫で、伊勢国長野の地頭職となり伊勢の国人となりました。
■信長のM&A戦略
戦国時代となり織田信長の伊勢侵攻が始まります。伊勢ではM&A戦略をとりました。神戸氏には織田信孝をおくりこみ、北畠氏には織田信雄をおくりこみます。長野工藤氏には信長の弟・信包を養嗣子とおくりこみ、乗っ取ります。
■家所城
丘に造られた城で、きれいに整備されています。入口には案内板が造られ、城の中も整備されていて、藪などはなく、とっても見やすくなっています。スーツ姿での十分です。
城を取り巻く空堀も残っています。案内版には単郭になっていますが、周囲には郭らしきところがいくつもあり、かなり大きな城になっていて、見応えがあります。
→ 動画: 家所城
カテゴリー: 城・山城
川越夜戦の舞台 川越城
Red Ballが始まる前、川越へ行ってきました。
”時の鐘”がある蔵の街はすごい人でしたが、川越城の本丸御殿あたりはほとんど人がいません。富士見櫓跡にいたっては誰もいませんでした。(笑)土塁などが見事に残っていて川越の街が一望できるのにもったいないな~あ。
■川越夜戦へ
川越城といえば川越夜戦でめちゃくちゃ有名です。造ったのは太田道灌で江戸城と結ぶ防衛ラインを作るためでした。太田道灌が亡くなってから、川越城は取ったり取られたりとなり、やがて北条氏が支配するようになります。
北条氏康に対し、互いに争っていた山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏が手を組んで大連合を組みます。圧倒的な戦力で三方から川越城を囲み、兵糧攻めとなります。
後詰ででてきた北条氏康ですが、消極的な戦いで相手を油断させ、夜、扇谷上杉朝定の陣を攻め、上杉朝定は戦死。潰走した扇谷軍が山内軍がなだれ込む事態になりました。川越城にこもっていた北条軍は戦いに気がつき、うまいことに古河公方軍を攻撃。結果的に各個撃破となり劇的勝利をおさめることになります。
■上杉謙信誕生へ
この戦いを契機に没落していった山内上杉憲政は最終的に越後の長尾景虎を頼ることになります。上杉の名跡を継ぐことになり長尾景虎は上杉謙信となります。川後夜戦により北条家は関東で圧倒的な勢力となります。
深野池にあった三箇城
戦国時代の大阪東部には深野池(ふけのいけ)という大きな池があり、現在の寝屋川市南部、門真市東部、大東市中央部、東大阪市北部、四條畷市西部に拡がっていました。もともとは神武東征の時代にあった河内湖の名残です。江戸時代に大和川の付替が行われ、深野池はだんだん縮小し、今ではふつうの池になっています。
■三箇城
深野池は淀川などとつながっていますので港がありました。上方落語「野崎参り」に屋形船のシーンが出てきますが、近年まで船運が使われていました。三好長慶の時代も港があり、飯盛山城の支城が深野池の島に造られます。それが三箇(さんか)城。池に3つの島があったことから三箇と名付けられ、最も大きかった大箇島に城は造られました。
岡山城や城と同様に河内キリシタンの拠点でした。朝廷から伴天連追放令が出た時に京都から逃れてきたビレラやフロイスが数か月滞在したのがこの三箇にあった教会です。フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。城主は三箇頼照でキリスト教の洗礼を受けサンチョと名乗りますが、敬虔なキリシタンとして修道士の間でも有名でした。畿内一大きかったと言われる三箇の教会では盛大に復活祭(イースター)もやっていたそうです。劇も行われ見物客が3000人もいたと記録されています。
■明智光秀に味方
三箇頼照の息子になった時代、”河内国の半分をやる”といった条件にのって明智光秀に味方してしまいました。結局、秀吉に領地などを没収され三箇頼照と息子などは追放されることになり教会も破壊されてしまいました。
三箇城跡は残っておらず、現在の三箇菅原神社付近にあったようです。
フロイスの日本史に登場する「砂」
先日、行った河内岡山城のすぐ近くにあるのが砂という住宅地。今は単なる住宅地ですがルイス・フロイスの「日本史」に「砂の寺内」として登場します。
■河内がキリシタンの土地となる
信長より先に天下人となった三好長慶に仕えていたのが松永久秀。都を支配していた松永久秀はキリシタンがきらいだったようで朝廷に手をまわして都から伴天連を追放せよという命令を出させました。やむなく伴天連は堺などへ避難します。
松永久秀は部下に命じてキリシタンとの宗論(宗教間のディベート)をするよう計画しました。事前準備のために修道士を訪ねたところ、理路整然とした修道士からの回答に感銘をうけて結城忠正や高山図書(高山右近のお父さん)が洗礼をうけます。
結城忠正が、飯盛山城へ戻った時に同僚の武将にもデウスの教えをすすめます。息子の結城左衛門尉は飯盛山城に近い砂に邸宅を構えていたこともあり、この地に最初の教会を建てました。
またロレンソ修道士などが三好長慶に招かれて飯盛山城に来訪し河内はキリシタンの一大拠点となり3,500人のキリシタンがいたと言われます。砂にも砂城があったようで、結城左衛門尉の邸宅がそうだったのでしょう。三好長慶は茶や連歌でも有名で、当時の砂は最先端の文化都市でした。
■松永久秀の子孫
信長が天下人として台頭すると、フロイスとロレンソは足利義昭のために二条城を工事している最中の信長と対面。京に居住する許可をもらい、先に出ていた宣教師追放令は事実上、無効になりました。よく映画などで信長が伴天連と会うシーンで登場しますが、この時です。
この後、安土にはセミナリヨなどが建てられます。そうそう信貴山城で信長に刃向って死んだ松永久秀の子孫がiモードの生みの親でもある松永真理さんです。
■砂は大坂夏の陣の舞台の1つ
大坂夏の陣が起きると徳川本体は京都から道明寺をめざし、東高野街道を南下します。途中、家康が陣をおいたのが砂。秀忠は近くの岡山城に陣を置きました。
南下する徳川本体を横から攻めるため大坂城から出撃したのが木村重成と長宗我部盛親で、これに気がついた藤堂高虎と井伊直孝が多大な犠牲をはらって敗退させ、木村重成を討ち取ったのが八尾・若江の戦いです。砂を出た家康は枚岡に宿営します。
河内岡山城
岡山城へ行ってきました。
岡山城といっても宇喜多秀家の岡山城ではなく飯盛山城の支城の1つである岡山城でJR学研都市線の忍ケ丘駅の近くにあります。東高野街道と清滝海道の交差するところの近くで交通の便のよいところでした。
名前の通り忍ケ丘の高台の端にあり、現在は忍陵神社があります。城の遺構は残っていませんが、眺めがいいですね。室戸台風で社殿が倒壊した時の再建工事で石室があるのが分かり、古墳だったことが判明します。古墳の上に造られた城でした。
■河内キリシタンの拠点
松永久秀の家臣だった結城忠政が高山右近の父親である高山友照と共に大和の沢城でキリシタンとなったのが河内キリシタンのはじまりですが、この結城氏一族が岡山をおさめており城を造りました。
熱心なキリシタンで家臣にもすすめ、京都の教会作りにも積極的に参加しています。岡山城にも教会堂が造られました。
■徳川秀忠の陣になる
信長の時代に岡山城は破城となりましたが、大坂夏の陣では徳川秀忠の陣が置かれました。徳川秀忠は京都から東高野街道を使って大坂へ向かいましたので、大坂城もよく見える高台の岡山に陣を置いたのでしょう。
中川清秀、片桐且元の茨木城
高槻と大阪の間にあるのが茨木市。
イバラギではなくイバラキです。そういえばSEをやっていた頃、イバラギでプログラムから帳票印刷してしまい、回収騒ぎになったイヤな思い出がある地名です。(笑)
■城主 片桐且元
阪急茨木市駅から少し行ったところが片桐町。大河ドラマ「真田丸」では、後半の方に登場してくる片桐且元にちなんだ町名でしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、徳川家康側ですが秀頼の代行のような役割をしていました。方広寺鐘銘事件では大坂方と徳川方の調整をしていましたが決裂し、徳川との内通を疑われた片桐且元は大坂城を出て茨木城に入ります。
■城主 中川清秀
片桐且元の前には中川清秀が城主を勤めていました。荒木村重が謀反を起こした時に従いましたが織田信長の調略で寝返りました。中川清秀がそのまま荒木方だと播磨へ進出していた秀吉は摂津が閉ざされ連絡ができなくなり、大変な事態になっていたでしょう。
本能寺の変の後、中川清秀は秀吉に味方し、柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の奇襲を受けて討死しています。
茨木城ですが本丸などの字名が残っているだけで遺構はありません。茨木神社の門が茨木城の搦め手門を移築したものになります。
小牧・長久手の合戦の舞台 蟹江城
関ヶ原の合戦は美濃の関ヶ原だけでなく東北から九州まで各地で戦闘が行われましたが、小牧・長久手の合戦も尾張だけでなく伊勢などが戦場になりました。
■蟹江城合戦
名古屋から桑名へ向かう途中にあるのが蟹江。蟹江駅の近くの地名はそのものずばり「城」になっています。戦国時代、ここに蟹江城がありました。現在は住宅地に本丸にあった井戸が残っているだけです。この蟹江城で蟹江城合戦が行われました。
家康・信雄陣営と秀吉陣営がこう着状態になった時、秀吉は既に隠居していた滝川一益と一益の息子に加勢を頼みます。滝川一益は清洲城と桑名城の連携を妨害するために途中にある蟹江城の攻略をはじめ九鬼水軍と連携して蟹江城を落城させます。蟹江川をはじめ川が多く、ゼロメートル地帯で湿地帯になっていますから攻めるのは難しかったでしょう。
ここまではよかったのですが、秀吉側の主戦力の投入などが遅れ、織田信雄と徳川家康が蟹江城を攻め、これを開城させます。蟹江城合戦こそが徳川家康の生涯における最も重要な勝利であるという評価もあるような戦いでした。
茨木郊外に残る安威砦跡
先日、高槻からの帰り道に茨木で下車。駅前からバスに乗って郊外の安威という場所へ。近くには追手門学院大学があります。
安威川が流れていて、川沿いに茨木と京都の亀岡を結ぶ街道が走っています。この街道を見下ろす天神山の山頂に築かれたのが安威砦。3つの曲輪と帯曲輪などが残っており、見事なのが曲輪との間の大堀切。高さは8メートルほどあります。一番端の曲輪へ行くと街道をすぐ下に見下ろすことができます。街道側には石垣跡もありましたので、街道を威圧していたのでしょう。
城を造ったのはこのあたりを支配していた安威氏で、近くに安威城があり、安威砦は詰めの城だったようです。安威城は住宅化で遺構がなくなってしまいましたが、こちらの砦はよく残りました。安威氏は茨木城主・中川清秀に属していたようです。
城の近くには排水場があり、舗装された道が通っており、ここから山城まではすぐ。ですのでスーツ姿でも登れる山城です。
高山右近の高槻城
高槻で午前中、お仕事でしたので終わってから高槻城跡に行ってきました。といっても城跡は残っていません。ただ街を歩き外堀跡には今でも見事な高低差が残っています。ほとんどブラタモリですねえ。(笑)
高槻城で有名なのが高山右近。キリシタン大名として有名で、先日、バチカンによって福者として認定されたと報道がありました。
■高山右近
高山右近はもともと北摂の余野近くにある高山の出身。まだ行けていませんが高山城という山城があります。
織田信長が足利義昭を伴って京都入りしたことから高山右近など摂津の国人衆は信長に従うことになります。また高山右近は強奪にちかいやり方で高槻城城主となります。戦国時代ですので血塗られたこともいろいろやっており、キリシタン大名になるのも救いを求めたためのでしょう。
摂津をおさめる荒木村重の与力となりますが、この荒木村重が信長に謀反を起こします。右近は悩みますが信長に味方。これが荒木村重敗北の一因となります。本能寺の変の後の山崎の合戦では先鋒として活躍。秀吉のもとで活躍しますが、やがてバテレン追放令がでます。
高山右近は棄教をすすめられますが、領地も財産もすべて捨てて信仰を守る方を選びます。前田利家に招かれて金沢に滞在していましたが、徳川家康の時代となりマニラに国外追放となり、現地で亡くなりました。
小牧・長久手の合戦の舞台 岩崎城
専門家派遣のついでに地下鉄・星ヶ丘駅から名鉄バスに乗って岩崎城へ出かけてきました。
現在は公園になっていて立派な模擬天守が建っていますが、戦国時代のいわゆる土の城で、こんな天守はありませんでした。中は博物館になっています。外観がこの模擬天守なんで、あまり期待せずに行ったのですが、城の周りの空堀や櫓台跡、西の曲輪などが見事に残っていました。なかなか見応えがあります。
■小牧・長久手の合戦
こう着状態に陥った小牧・長久手の合戦で、池田恒興が長躯して家康の岡崎を狙おうと進言。これが認められて進軍しますが、第一軍の池田恒興の前に立ちはだかったのが岩崎城。池田隊7000に対し、300の兵で守っていましたので降伏してもよかったのですが徹底抗戦し、玉砕してしまいます。
これが足止めとなり、岡崎を目指す第三軍に家康軍が襲い掛かり、池田恒興、森長可らが討死することになります。
■織田信秀が築城
岩崎城を造ったのは信長のお父さんである織田信秀。ところが家康の祖父である松平清康に攻められて城が獲られてしまいます。この松平清康、矢田川沿いにある守山城にいたところを部下に暗殺されてしまい、松平家は没落し、竹千代(家康)は今川家の人質になることになります。
城は名門・一色氏の一族である丹羽氏の城となり、小牧・長久手の合戦でも丹羽氏が守っていました。