茶臼山古墳 真田幸村の陣跡

cyausuyama201401.jpg今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。 

和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。 

茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。 

ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。 

真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。 

茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。 

大坂国誕生の地 真田丸

  • sanada201401.jpg

    今年は大阪冬の陣から400年。 

    大坂城は総構えで防御していましたが弱点は南側。堀はありましたが上町台地沿いに攻められる地形になっていました。冬の陣で真田幸村が作ったのが真田丸。出城になっていて堀(現在の空堀町)の外側、現在の宰相山公園から真田山公園の一帯が真田丸跡地と言われています。 

    遺構はなにも残っていませんが、公園はかなりの高台にあり見晴らしのよい所にあります。真田は武田二十四将の一人で、武田の特徴と言えば丸馬出。真田丸は巨大な丸馬出だったようです。結局、徳川家康軍はこの真田丸を破れず、総構えから侵入できないため和睦になります。 

    真田丸のあった宰相山公園にあるのが三光神社。ここに真田の抜け穴があります。大坂城まで続いていて豊臣秀頼の遺児・国松はここから無事に脱出しました。以来、秀吉が造った大坂城の痕跡をなくし、巨大な盛り土をして新たな大坂城を造ったタヌキ親父のやり方に不満を抱いた大坂の町人が、この国松の子孫を現在まで守り通しています。大阪の人間なら誰もが知っている秘密です。(笑)

人は見たいものしか見ない 鷹尾城跡

  • siroyama201401.jpg

    20代の頃、阪急・上新庄駅近くに住んでいたので、休みになるとハイキングに出かけていました。よく行ったのが阪急・芦屋川駅から高級住宅街を歩き、城山(鷹尾山)、岩梯子、荒地山、雨ヶ峠、東お多福山から六甲山を超えて有馬温泉へ向ける縦走ルート。有馬温泉で市営の有馬温泉会館に行って、金泉、銀泉に入り、帰りは六甲ロープウェイとケーブルで帰ってきました。最後に温泉でさっぱりできるので、なかなかおすすめのハイキング・コースです。 

    城山(鷹尾山)は芦屋の住宅街から見えている小山で何度も登っているのですが、ここに城跡があったとは全然気づかず、先日確かめるために登ってきました。山頂近くのハイキングコースの近くにあったのが二重の堀切。土橋もしっかり残っていました。何度も通っている道なのに全然、気がつかないものなんですね。人は見たいものしか見ないというのはまさしくです。 

    室町幕府の時代、摂津守護の細川高国が1511年に瓦林正頼に命じて造らせた城で、築城後すぐに赤松氏に攻められ(芦屋河原の合戦)、落ち延びることになります。

太平記の舞台 摩耶山城

maya201312.jpg暮もおしつまっているのに山城に登ってきました(笑) 

場所は神戸にある摩耶山。王子公園駅で降りて、坂道をひたすら上がり、上野道という登山道を登ってきました。摩耶ケーブルの終着点「虹の駅」あたりから、ずっと城跡になっています。と言っても見た目は単なる山道です。山道横の丘を登ると、そこが曲輪跡になっていて、山道を上から攻撃できるようになっています。 

大晦日前日なのに歩いているハイカーが多いですね。もっとも皆さん、山歩きを楽しんでいるようで山城跡を見ているような酔狂な人物はおりませんでした。山道からは六甲アイランドやポートアイランドなどが一望できます。 

摩耶山城を造ったのは赤松則村。南北朝時代に活躍した人物で、鎌倉幕府(京都の六波羅探題)を倒すため播磨国で挙兵。摩耶山麓に陣を構える六波羅探題軍を破り、摩耶合戦として太平記に書かれています。足利尊氏の湊川の戦にも協力し、足利幕府を支えることになります。 

この赤松氏ですが室町幕府6代将軍足利義教を暗殺します。日本史で習った嘉吉の変(かきつのへん)ですが、恐怖政治を行っていた将軍でしたので、自分の側についてくるものがいるだろうという目算もありました。結局、誰も賛同せず幕府方討伐軍に敗れて討たれてしまいました。 

昔、観光エレベータがあった日和山の山城(鳥羽)

toba201312.jpg

子供の頃、鳥羽へ行くと楽しみは観光船で行くイルカ島と日和山展望台の観光エレベータ。観光エレベータは鳥羽駅のすぐ横にありました。10名ぐらいは乗れたと思いますが、ヨーロッパにあるような鉄製の外から丸見えで風通しのよいエレベータです。これで50メートルほど上がると日和山展望台につき鳥羽の海が一望できました。調べたら昭和9年にできたエレベータなので戦前のもの、よくエレベータなんか作りましたねえ。残念ながら昭和49年に鳥羽駅が火事となり、この時にエレベータも燃えてしまって撤去されてしまいました。 
江戸時代、鳥羽を出航すると一気に遠州灘を渡りきり、伊豆の下田まで避難できる港がなかったため天候を見定める必要がありました。白子を出航した大黒屋光太夫は暴風に巻き込まれて、遠くアリューシャン列島まで流されてしまいました。鳥羽で天候を見定める場所だったのが日和山。 
観光エレベータがなくなったので今は登山口を登らないといけません。鳥羽駅の裏側からも登れますが、鳥羽市街の賀多神社からも登れます。こちらから登ると鳥羽城が見え、やがて登山道の横に藪だらけの廓がいくつも見えます。上まで登ると高台になっているところがあり、ここが戦国時代の城の本丸跡。泊浦城(取手山砦)で九鬼嘉隆が志摩を平定する前、志摩地域に勢力を持った海賊衆の盟主的存在であった橘宗忠の城。鳥羽が一望できますので出入りする船から関銭を徴収する監視場所にしていたようです。九鬼嘉隆が平定した後は居城にしていたようで、後に鳥羽城を造り、居城を移しました。 
日和山の尾根沿いに曲輪が拡がっており、よくみると櫓が建っていたような跡や虎口が見えます。一番先に行くと見晴台になっていて、ここが観光エレベータで上がって来た時に鳥羽の海を見た場所。よく見ると曲輪になっていて、ここで戦国時代に船を監視していたんですなあ。

交通の要所だった田丸城(清州会議)

tamaru201312.jpg今は1時間に1本程度しか列車が止まらないJR田丸駅。田丸駅から少し歩いた所に田丸城跡があります。石垣や土塁が見事に残っています。 

戦国時代は交通の要所でした。奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道(伊勢本街道)、そして紀州へと続く熊野古道が交わる所で、城からは伊勢の街がよく見え、伊勢神宮を抑える戦略的要衝でした。城を造ったのは伊勢国司であった北畠。 

ところが織田信長の伊勢進攻によって北畠は敗退。養子として二男の織田(北畠)信雄が送り込まれ、田丸城は織田(北畠)信雄の居城となり、天守が造られます。 

映画「清州会議」ではバカ殿として描かれた人物で妻夫木聡が演じていました。伊勢は尾張の隣ということもあり織田信長が美濃と同時におさえようとした国です。まずは鈴鹿の有力氏族だった神戸氏に、養子として三男の織田(神戸)信孝を送り込み、神戸城に天守を築きます。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。かしこい方です。

津城には信長の弟である織田信包が入り、城を整備し5重天守と小天守を造ります。映画「清州会議」では伊勢谷友介が演じていて、映画の最後では秀吉に向かって「織田家を乗っ取れ」とか格好いいセリフを言ったりします。映画に出てくる3人の織田家の人物が伊勢に揃っていたんですね。

まだまだ山城が中心の時代、伊勢には平城である神戸城、津城、田丸城に天守がそびえていました。

いざという時に砦になる寺 八事・興正寺

yagoto201312.jpg

名古屋の繁華街・栄から城下町を斜めに走っているのが飯田街道。碁盤目の街を斜めに通っているので、城下町では珍しい3方向の道が交差する複雑な交差点がそこらへんに生まれます。
飯田街道は徳川家康が作った、尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道で、途中の豊田から南下すると岡崎に到達します。つまり西から攻められ名古屋城が落城すると飯田街道を通って次に岡崎城が狙われます。そこで一気に岡崎を攻められないよう八事に砦が作られました。大坂の陣は終わりましたが、まだまだ戦国時代の気風が残っている頃です。
飯田街道は栄から吹上を通り、最初の山が八事山。八事と言えば現在は高級住宅街ですが、江戸時代は名古屋の東の端でした。八事にあるのが五重塔で有名な興正寺。五重塔は愛知県では興正寺にしかありません。
興正寺は西山と東山に分かれていて五重塔など主要な伽藍は西山にありますが、東山が小高い山になっていて、こちらが砦の役割をもっていました。峠道(飯田街道)に面した所には東山門(黒門)があります。名古屋城から移築された出丸門で、両側が格子になっていて弓や鉄砲が撃てるようになっています。門の前には堀がありましたが、現在は埋め立てられて飯田街道の一部になっています。
東山門を入ると坂になっていて、まっすぐ侵入されないようS字の蛇腹道になっています。もっとも名古屋城を落城させるような敵なら、興正寺は小さな平山城程度ですので簡単に落とされるので岡崎で戦闘準備を整える時間稼ぎにしかなりません。東山は公園となり散歩コースになっています。
興正寺の近くには隼人池があり、江戸時代に尾張藩の家老成瀬隼人が新田開発のために整備したため池です。成瀬家と言えば、犬山城城主で明治維新後も、そのまま城主を勤め、2004年まで国宝・犬山城を代々私有していたことで有名です。

本丸に小学校校庭があった鳥羽城

toba201311.jpg鳥羽駅から歩いてすぐの所にある城山公園は昔の鳥羽城跡。 

鳥羽城を造ったのは九鬼水軍で有名な九鬼嘉隆で海に浮かんだような城でした。城の大手門があったのが現在の鳥羽水族館のところで、当時は海。つまり海を向いた大手門になっていました。さすがに九鬼水軍です。城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城(錦城)とも呼ばれました。 

本丸跡が一番高いところにあったのですが、以前は鳥羽小学校の校庭で自由に立ち入れませんでした。2009年に鳥羽小学校が校舎の老朽化を理由に移転したので、発掘調査が行われ天守跡などが確認され、九鬼水軍の城として整備されています。 

校舎は一段低い、二の丸にあり、校庭が一番高い本丸にあります。本丸からの眺めは鳥羽が一望でき、神島なども見え最高です。考えてみたら毎日、城跡に通えなかなか贅沢な小学校だったんですね。もっとも平山城と言いながら階段を登って毎日、本丸まで行かないといけないので大変ですね。 

民家が立ち並ぶ古墳にあった城(丹下城)

tange201311.jpg河内松原にある古市古墳群の巨大前方後円墳「大塚山古墳」。全長335メートルあり日本で5番目の大きさの古墳です。昔は丹下城が墳丘内に築かれていました。 

古墳が城に使われることは多く、古市の高屋城もそうですし、山崎の合戦では明智光秀が恵解山古墳に本陣をかまえました。大坂冬の陣では茶臼山古墳が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村が本陣にしていました。継体天皇陵ではないかと言われている摂津の今城塚古墳も織田信長が三好家を攻める時に築いた城と言われています。それで今城という名前がついています。 

丹下城ですが北朝側に組みする丹下氏の城郭で、南北朝時代から戦国時代まで使われていたようです。織田信長によって城は壊されました。 

江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には村の氏神さんである天満宮が祀られました。古墳の中に民家が立ち並んでいたんですね。ところが、大正14年に陵墓参考地になってしまい民家は古墳の外に立ち退きとなってしまいました。古墳に民家が立ち並ぶところは見てみたいですね。 

住宅街に土塁が残る高屋城(古市)

takaya_201311.jpg阿倍野で仕事でしたので、阿部野橋駅から近鉄南大阪線で古市駅へ。阿倍野橋駅の横にあるのがアベノハルカスです。 

古市駅から少し歩いたところにあるのが安閑天皇陵。この古墳が戦国時代は高屋城の本丸でした。高屋城はもともと応仁の乱後に畠山義就が築いた城です。古市は河内長野から高野山へ抜ける道、穴虫峠から奈良へ抜ける道の接点でもあり、交通の要所でしたから30回以上も城主が入れ替わっている城です。 

奈良から大阪へ大勢の軍隊が入ろうとすると生駒山脈が連なっていますので、北の枚方方面から入るか南の穴虫峠からしか入れません。ですので壬申の乱では近江軍と大海人皇子軍との戦いや大坂夏の陣では後藤又兵衛が敗れた戦いなどが行われました。最後は織田信長に攻められて落城し、廃城になりました。 

城跡ですが天皇陵以外はすっかり住宅地になっています。本丸以外に二の丸、三の丸がありましたが、こちらも住宅地。ただ地名は城山になっています。不動坂という近鉄の踏切があるところがありますが、ここだけは土塁が残っていました。写真の左手は5メートルほど。右手はほとんど残っていませんでしたが、こっちは10メートル以上の土塁でした。ここに不動坂門があり、信長にこの門を突破されて落城してしまいました。 

踏切近くで写真を撮っていたら、ドライバーが怪訝な顔をして見ておりました(笑)まあ単なる土の山ですからねえ。