賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いとは1583年(天正11年)4月に余呉湖周辺で行われた戦です。織田信長亡き後、柴田勝家と秀吉が戦い、秀吉が勝ち天下とりがすすみます。北国街道沿いにお互いに陣城を造る攻城戦となった戦いです。20ほどの陣城(砦)が造られました。ということで機会を見つけては陣城(砦)に登ってきました。

■登った秀吉側の陣城
田上山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦、堂木山砦、神明山砦、東野山砦、溝谷砦、菖蒲谷砦、天神山砦

■登った柴田勝家側の陣城
玄蕃尾城、中谷山砦、橡谷山砦、柏谷山砦、別所山砦

佐久間盛政の行市山砦だけ、体力がなく行けませんでした。

陣城をみると城を造る思想がよく分かります。秀吉側の城は虎口など、実に技巧的で絶対に守ろうという思想で城が造られていますが、勝家側は簡易な造りで主郭ぐらいしか整備していません。攻めるぞという意識が見えます。前を線突破したい勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という構図がよく分かります。

秀吉が対峙していたのが勝家以外に岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益です。秀吉は持久戦に持ち込んで各個撃破を狙っていたんですかねえ。

別所山砦

別所山砦

別所山砦は前田利家・利長父子の陣城です。他の砦より、しっかりと構築されていて主郭を巡る土塁と空堀が見事に残っていました。尾根上に削平地が続いており、ここに部隊が駐屯していたのでしょう。別所山城は標高444mの一帯に造られています。ここから佐久間盛政の行市山砦跡を目指そうとしたんですが200m以上も高度差があり、既に尾根を下りたり登ったりで体力は限界、ここでユータンです。

賤ヶ岳の戦いでは前田利家が勝手に陣をひいたことから総崩れになったことになっていますが、安部龍太郎の「戦国の山城をゆく」を読んでいると、別所山にいた前田勢が最前線の茂山に移動。尾根伝いに神明山、堂木山を攻め包囲網の一角をせめ、あわせて柴田軍が東野山に攻めかかる作戦だったようです。

■前田利家は裏切っていなかった説
行市山砦にいた佐久間盛政は後詰のはずが、行市山から集福寺坂を迂回して前田勢を追い越し、権現坂と下って余呉湖の湖畔に出て中入りを行います。軍令違反でした。用意していた秀吉軍は退却に手間取っている佐久間勢を攻撃します。

前田利家が敵前逃亡したという噂がたちますが、秀吉は府中城へかけつけて利家を説得したのではないかという説です。秀吉は右腕が必要なので最初から秀吉と話を通じていたことにしないかともちかけます。利家は家の安泰と加増に決断せざるをえません。結果をみて世間は最初から話ができていたと考え、敵前逃亡のうわさが流れます。

実際に別所山砦から見ると秀吉側の堂木山砦、神明山砦、北国街道はよく見えますが、余呉湖は全然、見えません。また行市山砦の動きも把握できません。佐久間盛政が秘密裏に動いても前田勢には分からなかったでしょうね。

橡谷山(とちたにやま)砦

橡谷山(とちたにやま)砦

登山道入り口にあった案内板には中谷山砦になっていますが、全国文化財総覧で調べると中谷山砦遺跡は橡谷山砦遺跡へ登る途中にあり、橡谷山砦は標高368.4mのピークにあります。やっぱり案内板が間違っていますね。

柏谷山砦からエッチラオッチラ下ってきた藪だらけの尾根を登り返して登山道に入って、少し行くと郭跡があります。ここが橡谷山砦です。標柱には「中之谷山 原彦次郎長頼」と記載されていますが、金森長近が守っていました。金森長近は前田利家とともに撤退し、その後は秀吉、家康につかえます。飛騨高山城をおさめた時に現在に続く高山の城下町を整備しました。

橡谷山砦の郭には低い土塁が巡り、削平地が拡がっていました。

柏谷山砦

柏谷山砦

中谷山砦から橡谷山砦へ登る途中に「頂上まで2300M」という標識があります。ここでGoogleマップを確認すると尾根の先に柏谷山砦が表示されました。この先に砦があるんだと登山道を離れて、藪だらけの尾根を下っていきます。

尾根を下って少し登り返すと尾根のピークに土塁に囲まれた郭跡がありました。ここが柏谷山砦です。方形に盛り上がった場所がありましたので、おそらく櫓台跡でしょう。縄張は単純で、兵を駐屯させる削平地があります。

柴田勝家の与力だった徳山則秀が布陣していたとも言われていますが、詳細は不明です。砦跡を確認した後は藪だらけの尾根を登り返します。ゼイゼイ言いながら、ようやく登山道へ復帰です。帰ってから調べると、柏谷山砦から、さらに尾根を下ったところに大谷山砦がありましたが、分かっていたとしても、さらに尾根を下る体力はありませんでした。

中谷山砦

中谷山砦

林谷山砦からヒーハー言いながら、尾根道を登り返し案内板のある頂上へ着きました。案内板によると、このあたりに橡谷山砦があり、さっそく探しましたが城の遺構らしきものは何もありません。あきらめて中谷山砦を目指します。

■山城なんだけど
ずっと尾根道を登っていくと途中で、登山道が堀底道風になっているところがあり土塁で囲まれた郭らしきものがあります。「これ山城じゃない!」のと思っても案内も何もありません。でもどう考えても郭が連続しています。

■本来の中谷山砦
後で調べると案内板にある中谷山砦が間違っていて、実は橡谷山砦だったようです。本来の中谷山砦がある位置は案内板に載っていません。城と気づかずに登っている人も多いでしょう。

柴田勝家側の山城で原彦次郎長頼が守っていました。柴田勝家軍が越前に退却する時の殿(しんがり)をつとめます。その後は前田利家、秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍について自刃します。

林谷山砦

林谷山砦

賎ヶ岳合戦の砦跡の一つが林谷山砦です。

毛受(めんじゅ)兄弟の墓近くに動物除けフェンスの入口があり、登山道に入れます。まずはひたすら登って尾根分岐点に至ると案内板があり、別の尾根をずっと下っていきます。この道を登り返さないといけないので気分が下がります。

徳山五兵衛秀現の砦跡、毛受勝助家照の砦跡と書いた木標があり、ここが主郭です。ずっと長大な土塁が続き土塁の向こう側は犬走になっています。柴田勝家軍の不破勝光,毛受勝助・家照兄弟,徳山五兵衛等が布陣したと伝わっています。柴田軍の中では最も低い位置にある砦です。

守将の一人である毛受勝照は柴田勝家に小姓として仕えていました。敗色が濃くなるなか、主君である柴田勝家を退却させるために、勝家の馬印を掲げ、わずかの兵で林谷山砦に登り、秀吉方の軍勢を引きつけ時間を稼ぎます。最後は討ち死にしますが秀吉は毛受兄弟の忠節を称賛し、供養を頼んで北ノ庄城を目指します。

芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。

近江安村城

近江安村城

伊勢遺跡をGoogleマップで見ると近くに近江安村城があることが分かり行ってみました。

と言っても城跡は何も残っておらず日吉神社あたりが水路に囲まれているので、堀跡の名残でしょう。平城で阿村集落にあり、阿村城とも呼ばれていました。江州佐々木南北諸士帳という近江守護だった佐々木氏時代の城名と城主一覧があり安村城には城主として安むら善兵衛の名前が記載されています。

近くには野尻城、下鈎城、上鈎城(鈎の陣で有名で土塁などが残っています)、勝部城などがありました。佐々木氏の本拠地だった観音寺山城が近くなので信長が足利義昭を奉じて上洛する時に佐々木氏(六角氏)が敗れたので、進路沿いにある近江安村城も攻められたか逃げたでしょう。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

北陸の雪解けで始まったのが賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、秀吉側、双方とも陣城戦になりました。

秀吉側は弟の羽柴秀長が田上山城に入り本陣にしました。北国街道を封鎖する神明山砦、堂木山砦、東野山城、溝谷砦、菖蒲嶽城に第一防衛ラインを築きます。また余呉湖東側の尾根に賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦を築き第二防衛ラインにします。

対する勝家側は玄蕃尾城を本陣とし、行市山砦に佐久間盛政、派生する尾根筋に前田利家・利長が入った別所山砦などを築きます。

勝家側は挙兵した滝川一益との連携でしたので秀吉の封鎖を突破する必要がありました。ですので陣城は簡易的なものが造られます。反対に秀吉側は南下を食い止めながら、滝川一益を孤立させ各個撃破したらよいので、技巧的で守りに徹した陣城を築きあげます。

ですので山城的に面白いのは秀吉側の陣城になります。秀吉側の陣城を優先して、ほぼすべてに登りましたが、まだ勝家側の陣城が残っています。これから積雪シーズンですので賤ヶ岳の戦いと同様に雪解けシーズンを狙うしかなさそうです。