芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。

近江安村城

近江安村城

伊勢遺跡をGoogleマップで見ると近くに近江安村城があることが分かり行ってみました。

と言っても城跡は何も残っておらず日吉神社あたりが水路に囲まれているので、堀跡の名残でしょう。平城で阿村集落にあり、阿村城とも呼ばれていました。江州佐々木南北諸士帳という近江守護だった佐々木氏時代の城名と城主一覧があり安村城には城主として安むら善兵衛の名前が記載されています。

近くには野尻城、下鈎城、上鈎城(鈎の陣で有名で土塁などが残っています)、勝部城などがありました。佐々木氏の本拠地だった観音寺山城が近くなので信長が足利義昭を奉じて上洛する時に佐々木氏(六角氏)が敗れたので、進路沿いにある近江安村城も攻められたか逃げたでしょう。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

北陸の雪解けで始まったのが賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、秀吉側、双方とも陣城戦になりました。

秀吉側は弟の羽柴秀長が田上山城に入り本陣にしました。北国街道を封鎖する神明山砦、堂木山砦、東野山城、溝谷砦、菖蒲嶽城に第一防衛ラインを築きます。また余呉湖東側の尾根に賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦を築き第二防衛ラインにします。

対する勝家側は玄蕃尾城を本陣とし、行市山砦に佐久間盛政、派生する尾根筋に前田利家・利長が入った別所山砦などを築きます。

勝家側は挙兵した滝川一益との連携でしたので秀吉の封鎖を突破する必要がありました。ですので陣城は簡易的なものが造られます。反対に秀吉側は南下を食い止めながら、滝川一益を孤立させ各個撃破したらよいので、技巧的で守りに徹した陣城を築きあげます。

ですので山城的に面白いのは秀吉側の陣城になります。秀吉側の陣城を優先して、ほぼすべてに登りましたが、まだ勝家側の陣城が残っています。これから積雪シーズンですので賤ヶ岳の戦いと同様に雪解けシーズンを狙うしかなさそうです。

神明山砦

神明山砦

堂木山砦と連携していたのが神明山砦です。堂木山砦を一巡りした後、各砦への分岐点に戻り、西側にある山頂へ向けて登っていきます。途中に切岸と郭らしきものがあり、出丸のようです。さらに登っていくと大きな郭があり山頂に主郭がありました。

神明山砦の守将は蜂須賀家政(蜂須賀小六の息子で徳島藩の藩祖)と記載されていますが「賤ヶ岳合戦記」には木村隼人(大坂の陣で有名な木村重成のお父さん)が中心になって守備したとあります。郭の周りにも削平地があり兵が駐屯したのでしょう。

この主郭を中心に東西尾根に郭が配置されています。奥には二重になった堀切があり、茂山砦へと続いています。茂山砦は前田利家が佐久間盛政の中入り攻撃を助けるため移動した茂山に築かれた砦です。ただ一時的な利用のためか遺構が残っていないようで行くのは断念。茂山から堂木山にかけてはハイキングコースになっていて、山城では珍しく2組のハイカーとすれ違いました。

堂木山砦

堂木山砦

賤ヶ岳の戦いの最前線になったのが堂木山砦です。柴田勝家に対抗するために秀吉は天神山砦-今市山砦を防衛ラインとしましたが、天神山砦を見下ろせる行市山砦に佐久間盛政が陣取ったため防衛ラインを1.5km南側に下げます。

神明山砦・堂木山砦を尾根沿いに配置し、北国街道を挟んだ反対側の尾根に東野山城を築きました。堂木山砦と東野山城の間には土塁の壁を造り最前線の防衛ラインにします。堂木山砦には秀吉方に寝返った長浜城主・柴田勝豊の家臣が入りました。城主は寝返りましたが反対した家臣も多く砦を脱走して柴田側に寝返るものもいたため、最終的には木下一元が守将となります。

余呉駅のすぐ北にある山にエッチラオッチラ登ると堂木山砦と神明山砦への分岐点に出ます。ここから登っていくと堂木山砦に到達しますが砦というより城になっています。郭が4つあり、虎口も食い違いになっており、なかなか技巧的です。

高野東城(甲賀)

高野東城(甲賀)

高野東城(甲賀)

甲賀町高野の寺井集落の北方丘陵先端部にある城で近くに高野城があり支城のようですが、高野東城も大きく並立していたのかもしれません。高野城には案内板がありましたが、こちらは何もありません。

溜池横を進んでいくと、右手に壁のような斜面がみえはじめます。頂上は削平地になっていそうで郭跡のようです。登る道がどこにもないので斜面を直登。ようやく登りきると平坦地があり、郭跡になっていました。さらに奥に進んでいくとコの字に土塁が巡った主郭があり土塁は一番高いところで4mほどでした。

この主郭の奥に祠があり、祠のところから参道が出ていました。こっちを登れば苦労して直登しなくてもすみましたが、登る前には分かりませんね。

高野城(甲賀)

高野城(甲賀)

高野城(甲賀)

昔から城跡があると伝わっており、小規模な土塁を持つだけの単純な城館遺跡とみられいました。北側に続く丘陵上で第二名神の建設が行われることになり、発掘調査が実施されました。すると平坦面が4つと、10カ所の堀状の凹地が確認されます。この結果から、東西250m、南北230m以上にわたり広い城域があったようです。

1570(元亀元)年前後には、織田信長が甲賀に侵攻しており対応するために、いろいろと工夫をしたようです。案内板があるところから山の中に分け入ると、すぐに城域です。一番最初の郭から登っていくと主郭にはいれ、周囲を土塁が巡っています。一部、分厚くなっているところがあり櫓台があったのでしょう。

篠山城(甲賀)

篠山城(甲賀)

篠山城は甲賀町鳥居野にあります。虎口から入ると長方形型の土塁に囲まれ2つの郭跡がまっています。少し藪がありますが、郭の形もよく分かり、もう一つの虎口も残っていました。

篠山城を築いたのは篠山氏です。本家が甲賀五十三家である大原氏で、大原景春が篠山に改姓し初代となりました。秀吉の時代、紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するため甲賀衆が動員されて太田城・水攻めの堤を築かせましたた。ところが秀吉は不備であったと難癖をつけて甲賀衆の所領を没収します。大原氏はもともと三河武士だったようで篠山景春は徳川家康との関係を築いていました。

秀吉が死ぬと、笹山景春は近隣の代官に取り立てられ、豊臣勢力に備えて篠山城を築城したようです。関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城籠城戦で徳川側として戦い討ち死にします。家康は功に報いるため、子孫を江戸城警護役や旗本(鳥居野の領主)として遇しました。

「改正三河後風土記」によると会津の上杉景勝を討つため伏見を出て石部で宿泊をしていたところ、水口岡山城主・長束正家が家康を岡山城へ招きます。篠山景春は、豊臣方の陰謀だと家康に告げ、夜中に鈴鹿峠まで家康を送ったと記録されていますが、長束正家は三成とも連携できていないはずですので、どうですかねえ。

竹林城(甲賀)

竹林城

甲賀駅から北に向かうと慶徳寺があり一帯に築かれたのが竹林城です。北側を大原川が流れていて堀替わりになっています。寺の入口付近に、すごく低くなっていますが土塁跡が少し残っています。ただ基部に石積みされ改変はされています。北側にも土塁があるということで寺の裏側にまわると、こちらは少し高めの土塁がそのまま残っていました。

甲賀、伊賀に多い四角形の城郭型で室町時代に造られたでしょうが、詳しいことは分かっていません。周りは住宅地になりましたが何とか残りました。