足助城

足助城

せっかく豊田に行ったのなら、目指すは足助城です!

豊田市駅からバスで1時間ほど揺られ足助の町へ、町から1時間ほどかけて真弓山に登ります。車でも登れるように舗装されていますが、歩くとなるときついですね。足助城は発掘調査にもとづいて全国で初めて戦国の山城を再現したもので、まさに山城のテーマパークです。高櫓、長屋、物見台、冠木門、木柵などが復元されています。当時の山城を体感できる全国でも珍しい施設で公園として整備されていて入場料は300円です。平日の朝、行ったのですが誰も観光客はいませんでした。なんてもったいない!

足助城は境目の城で、いろいろな文献に登場し小牧・長久手合戦の舞台にもなっています。足助城を作ったのは挙母神社にも関係している足助鈴木氏のようですが足助氏という説もあります。城からは足助の町がよく見えます。堀切や切岸などよく整備されていました。

井伊谷城

井伊谷城

井伊谷の目的地はもちろん井伊谷城です。大河ドラマでも井伊直虎などが井伊谷城から井伊谷を一望するシーンがでてきます。

井伊谷城がある山は、そう高い山ではないので麓から15分ほど登ると城跡につきます。井伊谷城はけっこう単純な縄張りで土塁がある主郭と帯郭で構成されています。戦国時代に改修されることがなかったんですね。すぐ眼下に井伊家の屋敷があったはずですが、今は住宅地になっています。

井伊谷城を造ったのは井伊家初代の井伊共保といわれています。そう井伊の旗印になった井戸の人物です。屋敷のすぐ裏山が井伊谷城で、詰め城になっています。

浜松城 出城

浜松城 出城

浜松城は三方原台地の東縁にあたる段丘を利用した平山城で、浜松駅から少し登ったところにあります浜松城の二の丸から少し離れた南側を守るために出丸がありました。現在は浜松市中央図書館になっていて、階段脇に、出城跡の石碑が建っています。見上げるとけっこうな高低差があります。この出丸は家康の伝記「武徳編年集成」に書かれている鳥居曲輪とみられています。鳥居とは鳥居元忠のことで家康が浜松城に在城した時に曲輪に屋敷をかまえ守備していたようです。

鳥居元忠は超有名人で、家康が大坂から会津征伐に向かう途中、伏見城の守備をまかせた鳥居元忠と酒を酌み交わすシーンは必ず映画やドラマで出てきます。「どうする家康」では音尾琢真さんが鳥居元忠を演じていて、武田の間者だった千代ともども伏見城落城で散っていくシーンが描かれていました。

浜松城

浜松城

お仕事のついでに久しぶりに浜松城に寄ってきました。

もともとは曳馬城と呼んでいましたが、馬を引くのは敗北につながるので、家康は浜松城に名前を変え城を拡張していきます。もともとの曳馬城は今は城横の東照宮になっています。発掘調査が進んでおり、天守の前にある天守門が復元され、中にも入れました。本丸が整備されていて、古い野面積みの石垣を見ることができるのがいいですね。

家康は武田信玄の侵攻に備えるため、岡崎から東側の浜松に移し、岡崎は嫡男・信康が預かることになります。

中村一氏時代の駿府城が見つかる

駿府城

朝、ニュースを見ていると駿府城発掘調査で秀吉時代の金箔瓦と天守台が見つかったと報じていました。

秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼした後、徳川家康に後北条氏の遺領となった関東への国替えを命じます。この家康を封じるために各所に子飼いの大名を配置しますが。駿府に入ったのが中村一氏で、この時に築城されたようです。

この中村一氏ですが、まだ和泉や紀州が秀吉に敵対していた時代に大坂の南のおさえとして岸和田城主となります。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉軍主力が尾張へ展開している間隙をぬって、根来・雑賀衆、粉河寺衆が攻めてきます。岸和田城の攻防戦を何とかもちこたえ、秀吉軍と共に貝塚の千石堀城、積善寺城など相手の拠点を次々に落して紀州征伐となります。

南海電車に蛸地蔵駅がありますが、駅名の由来はこの時の岸和田城の攻防戦で落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ落城を救ったという伝説からきています。

中村一氏は秀吉の信頼あつく駿河一国をまかされ、関ケ原の戦い合戦前に亡くなります。この中村一氏時代の城跡ですか~あ。見てみたいな~あ。静岡からセミナーの話でも来ないかなあ(笑)。

掛川古城

掛川古城
もともとの掛川城は今の場所ではなく、5分ほど歩いたところにありました。それが掛川古城です。
今川氏が朝比奈氏に命じて子角山(ねずみやま)の尾根に造りました。この後、龍頭山に新たに城を造り、移動することになります。これが新幹線の車窓から見える現在の掛川城です。
掛川古城には建物などは残っていませんが大きな郭が2つ残っています。主郭跡には徳川家光の位牌を祀る天王山龍華院・大猷院殿霊廟があり周りには土塁が残っています。もう一つの郭跡は公園になっていて遊具などが置かれていました。隣が小学校ですが、かなりの高度差があります。
見事なのは郭と郭の間にある大きな堀切で、遊歩道になっていました。城があった頃は木橋を渡していたのでしょう。掛川城は観光客で一杯でしたが、さすがに掛川古城には誰もおりません。

家康が学び江戸城にいかした掛川城の戦い

掛川城
新幹線が掛川駅を通過する時、車窓から掛川城の天守閣が見られます。再建された天守閣ですが、復元天守には珍しくコンクリート造りではなく木造になっています。今、名古屋城ですすんでいる復元天守と同じですね。
掛川城は室町時代、駿河の守護大名だった今川氏が遠江進出を狙い、重臣だった朝比奈氏に命じて築城させました。秀吉の時代には徳川家康のおさえとして、山内一豊が城主をまかされます。ところが関ケ原合戦時には家康の味方をして掛川城を提供し、褒美として土佐一国の領主となります。
■今川氏真を守り抜いた掛川城
今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、今川家を率いたのが今川氏真です。去年の大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」では尾上松也が演じていました。今川氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康から挟み撃ちに遭い、駿府館を捨てて朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びます。
結局、掛川城は徳川軍に包囲されてしまいます。家来に裏切られて滅んだ武田勝頼や朝倉義景と違い、今川氏真は家来に恵まれていました。朝比奈泰朝は最後まで主君を守ります。和議で北条への今川氏真の亡命を認めさせると開城します。
■掛川城の戦いで学んだ家康
昨年、発見されたのが徳川家康が築城した時の江戸城の縄張りを書いた江戸始図。堅牢な要塞のような本丸が描かれていました。掛川城の戦いは絶望的な籠城戦でしたが半年間持ちこたえている間に状況が変化し、家康は北条と武田と敵対することになり、今川氏直と和睦します。
鉄砲の時代となると籠城戦では守り切れないというのが当時の常識でしたが、掛川城の戦いで後詰め(応援)がなくても状況変化で生き残れることを家康は学びました。これが江戸城の縄張り(設計)にいかされることになります。

信長のマイナスイメージ戦略に利用された高天神城

高天神城
All AboutのRed Ball終了後、掛川へ移動して一泊。
朝、浜岡原発の方へ向かうバス(一人だけでした)に乗って、歴史にしょっちゅう登場する高天神城へ行ってきました。お城ジオラマ復元堂でも有名な山城です。
高天神城はよく整備されて遊歩道や看板もたくさんあり、とっても楽に登れる山城です。一城別郭の城として有名で2つの尾根筋に郭群が二つあり、それぞれが独立した構造になっていますが、この二つの城が連結して高天神城になっています。
古くから城が造られていましたが、歴史で有名なのは徳川家康の支配下になってから、なんせ武田信玄が攻めても落とされなかった名城です。ところが武田勝頼に城を奪われてしまいます。勝頼は信玄以上に優秀でした。
■信長による武田勝頼マイナスイメージ戦略
この後、織田信長の命を受けた徳川家康が高天神城の周りに砦群を作り、持久戦に。高天神城を守っていた岡部元信は降伏を申し出ましたが信長は許しません。この当時、敵の動きで動くに動けなかった武田勝頼は援軍を送れませんでした。結局、岡部元信は残った兵をまとめて最後の攻撃に出撃し玉砕してしまいます。
ここぞとばかり、信長は”武田側で戦っても勝頼は助けてくれない”とイメージ操作をはじめます。SNSによる拡散はできませんので、もっぱら手紙と口コミです。織田、徳川、北条が攻め込んだ時に武田側で裏切りが続出したのは、このイメージ戦略の結果でした。
と言っている信長自身も自軍だった上月城の尼子氏を助けられず見捨てていますので、勝頼と一緒なんですが(笑)信長は別所長治、荒木村重、松永久秀などにずっと裏切られていますのでマイナスイメージは今さら関係なかったようです。

障子堀が見事な山中城

山中城
日本100名城のひとつ山中城です。
北条氏の要(カナメ)になる城で、山中城を突破されると箱根を超え、本拠地である小田原城まで一気に攻められてしまいます。
山中城は、かなり大きな山城ですが、きれいに整備されていて、特に西郭の障子堀は見事です。箱根街道が城の真ん中を通っていて、敵が岱崎出丸へ攻め込むと反対側の西郭から攻撃され、反対に西郭に攻め込むと岱崎出丸から攻撃される鉄壁の守りになっています。ところが秀吉軍は通常では考えられない兵力を投入して一気に落城させてしまいます。もっとも大名クラスの一柳直末が討死するなど、攻撃側もかなりの打撃を受けました。なりふりかまわない攻撃だったようです。
”槍の勘兵衛”と呼ばれた渡辺勘兵衛という人物がおり、秀吉の小田原征伐の時は豊臣秀次の家老中村一氏の家臣でした。山中城攻めでは、渡辺勘兵衛が先頭切って岱崎出丸に一番乗りを果たします。本人が山中城攻めの顛末を書いた渡辺水庵覚書が残っていて、覚書によれば岱崎出丸を守備していた北条方はそう多くなく、長い出丸の途中に突入することで、分断に成功し岱崎出丸を落としてしまいます。山中城は秀吉側の総攻撃によって本丸まで一気に攻め込まれて落城し、秀吉は石垣一夜城を築いて小田原城に対峙することになります。
三島駅からバスが出ており、バス停を降りると城の入口です。スーツ姿で登れる山城です。

小田原征伐で最後まで持ちこたえた韮山城

韮山城
今回のメインイベントである韮山城です。
駿河から伊豆へ攻め入った北条早雲が拠点とした城で、早雲は韮山城を中心に伊豆の各拠点の支配を進め、亡くなるまで居城にしていました。早雲以降の北条氏は小田原城に本拠を移します。
秀吉の北条攻めで関東の各支城が次々に落城しますが、最後まで残ったのが”のぼうの城”で有名な忍城と韮山城です。韮山城の城主は北条氏規で、最後まで持ちこたえ小田原城が開城したことから降伏しました。北条宗家は滅びますが、北条氏規の子孫は狭山藩(現在の大阪府狭山市)として明治まで続きます。南海電車のさやま遊園は狭山藩下屋敷跡地に建っていました。
名高い韮山城なんで、よく整備されています。郭内は藪だらけが定番なんですが、きれいに取り払われ木もなく眺めがよいこと。土橋や櫓跡もしっかり残っていました。平山城なのでスーツ姿でも大丈夫です。