駅鈴

駅鈴

古代・律令時代にも公務員の出張がありました。道路が整備され、駅馬・伝馬の制度ができます。駅では公文書などをリレー形式で運ぶため適切な間隔で人・馬などを常備しました。この駅を現代版にしたのが「道の駅」です。

公務員の出張時には駅鈴が交付され、この駅鈴があると駅で駅子(人足)や駅馬を徴発できました。身分証明書みたいなものだったんですね。この駅鈴ですが隠岐にしか残っていなくって、玉若酢命神社の隣にある億岐家宝物館に保存されています。

本居宣長がこの駅鈴のコピーをもらって愛玩していたことから、松阪駅前にはでっかい駅鈴がおかれています。

隠岐誉

隠岐酒蔵

隠岐の地酒といえば隠岐誉です。売店などによく売られています。純米酒をよく飲んでいましたが、変わったところでは海藻焼酎があり、ほのかに磯の香がして、なかなかいけます。ただ隠岐に酒蔵メーカーは隠岐酒蔵しかないそうで、1972(昭和47)年に西郷酒造組合に属する全社(5社)で隠岐酒蔵を設立し、共に生き残れる道を選択したそうです。それで日本酒、焼酎、リキュールと多彩なお酒があるんですね。

この時に酒名を公募したそうで「隠岐誉」はこの時に決まったそうです。そうそう時期的に「ひよおろし」も出ていて、なかなかいけました。

隠岐 船引運河

船引運河

隠岐シリーズが続きます(笑)

島前の西ノ島のちょうど中間ぐらいにあるのが船引運河。日本海の外海と島前の内海を結ぶ全長300mちょっとの運河です。狭いので昔は人力で船を引っ張って地峡部を越えるたため、船越という地名が残っています。対馬の船越などと同じですね。

漁場へ行くために港から出港した船は大きく迂回しないと外海にたどり着けず時間がかかっていたため、大正時代に運河の開削が発案され、大正4年に運河ができました。運河を出ると日本海の荒波がまっています。

隠岐の放牧

隠岐の放牧

カルデラ地形の隠岐には水田に適した土地が少ないため、米以外の作物を育てる必要があります。そこで牛馬を放牧して土地を肥えさせる牧畑農法が発展しました。

西ノ島では放牧地帯に赤尾展望所などがあります。道路のど真ん中に牛が寝そべったりしているので避けて通るか、動くのを待つしかありません。元々は観光用でなく、牛を飼うための道路だったので優先権は牛にあります(笑)。馬は牛に比べると比較的にすぐ移動してくれます。あとは牛や馬のフンだらけになっているので、うまく避けなければなりません。

島前 外輪山

島前 外輪山

島前は中ノ島、知夫里島、西ノ島の3島からなっていて島の間は内航船とフェリーが結んでいます。島の間は波が穏やかですが、島の外は日本海ですので、波がけっこうあります。それぞれの島は急峻で平野が少なく、カルデラの外輪山になっています。

海底火山(島前火山)の噴火活動により、それまで浅い海中にあった火山が海面上まで成長しましたが、約560万年前~540万年前、陥没によって島前カルデラが形成されてようです。同じように世界的にみてもエーゲ海のサントリーニ島しかないそうです。

隠岐の岩ガキ

隠岐でよく食べたのが岩ガキ。

隠岐の岩ガキ

西ノ島が、岩ガキ養殖の発祥地なんですねえ。夏に人工授精させてホタテ貝の貝殻に付着させ、海中のロープに吊して大きくして出荷します。中上さんという人が平成4年(1992年)に成功して養殖を広めました。「隠岐のいわがき」としてブランド化しています。

岩ガキといえば志摩・畔蛸(あだこ)も有名なんですが、こちらは自然の海の状態を見極めて採苗する天然採苗して養殖しているんですね。夏の岩ガキいいですね。

隠岐の水木しげる

別府港

境港では水木しげるロードが有名で妖怪ブロンズ像が並んでいます。隠岐にもこのブロンズ像がいくつかあり、同じ島根県なんでブームに乗っかっているんだなと思っていたら、あれ境港って鳥取じゃなかったっけ!

水木しげるは大阪住吉生まれで境港育ちです。ここで、まかない婦として家に出入りしていた「のんのんばあ」が語り聞かせた妖怪に強い影響を受けます。水木しげるの本名は武良茂ですが、この武良は島後にある武良郷でルーツは隠岐にあったんですね。というわけで隠岐にもブロンズ像が各所にありました。ただ別府港の一反もめんと目玉おやじはフェリーの出港を見る人しか気がつかないところにありました。

隠岐国分寺

隠岐国分寺

741(天平13)年、聖武天皇が詔を出し、全国に国分寺が造られます。この国分寺の総本山が東大寺になります。

コロナ禍のように天平時代にも疫病が発生し、天然痘で藤原四兄弟がなくなります。正倉院文書に残された正税帳で推定したところ総人口の25~34%、100~150万人ほどが亡くなる、すさまじい疫病でした。ウイルスなどの知識がなかったため聖武天皇が考えたのが仏教の力で日本全国を覆うバリアを作ろうという発想です。隠岐(島後)にも国分寺が造られ金堂跡が発掘されています。

■後醍醐天皇の行在所?
御醍醐天皇が隠岐に流されましたが、黒木御所ではなくこの国分寺に流されたという説があります。ただ島前の知夫里島が本土との玄関口でしたので西ノ島の黒木御所説も捨てがたいですね。

黒木御所

黒木御所

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れて隠岐に配流になったのが1221年。それからおよそ100年後の元弘2年(1332年)に鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流されます。後鳥羽上皇は島前の中ノ島ですが、御醍醐天皇は対岸にある西ノ島です。これが黒木御所で黒木とは皮を削っていない木材のことです。130段の階段を上った別所港をみおろす高台にあります。

後鳥羽上皇は19年を過ごして隠岐で亡くなりますが、御醍醐天皇は1年半ほどで脱出をします。大塔宮や楠木正成が倒幕運動をやっていたので希望があったのでしょう。島の豪族たちと交渉して脱出計画を作っていたようです。黒木御所の近くにある別所港には隠岐守護である佐々木清高が島に見張り所を作っていました。今は見付島という名前になっています。

別所港は使えないので山越えをして西ノ島の西側にある港から脱出したようです。佐々木清高もまさか配流した天皇が逃亡するとは考えていなかったようです。

隠岐の島(5) 手形

隠岐に流された後鳥羽上皇に亡くなる前に今まで尽くしてくれた家臣に摂津国(大阪府)水無瀬・井内両荘の領地を与える証文を書きますが、両手で真っ赤な手形を押しています。最後の力を振り絞って手形を押したことが伝わる証文で、国宝になっています。「後鳥羽天皇筆 御手印置文」

隠岐には写しが展示されており、現物はサントリー山崎工場の近くの水無瀬神宮(後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡)にあります。このように昔、証文に「必ず払うから」と手に墨をつけて手形を押したので”手形”と言うようになりました。これが約束手形や為替手形となっていきます。

長年にわたり紙で運用されてきた手形ですが、2027年3月末に全廃となり「でんさい(電子記録債権)」に全面移行となります。