子安観世音

子安観世音

吉田山の北側は今出川通りで、ここにあるのが子安観世音というでっかい石仏です。鎌倉時代に作られたと言われていますので800年ほどあるんですね。子安観世音は今出川通と斜めに交わる道はなんの変哲もない道の角にありますが、この道が志賀越道です。

秀吉が作ったお土居には七口があり、その一つ荒神口から、北白川・山中を経て志賀峠を越え、近江に至る街道です。山中越とも呼ばれた古道です。今の白川通りなどがない時代でした。

子安観世音は太閤の石仏とも言われており、伝説によれば自由気ままに動き出す石仏の噂を聞いた秀吉が聚楽第に運んだところ、夜になると子安観世音が「北白川に戻りたい」と言いだすので秀吉が元に戻したそうです。江戸時代の名所図にも登場し、昔から親しまれています。

吉田神社 大元宮

吉田神社 大元宮

京都の東山の手前にあるのが吉田山。西側を花折断層が走っていて、この断層運動に伴って隆起してできた山と言われています。昔。「ブラタモリ」では「末端膨隆丘」とい、断層運動の末端部分で起きる地形発達現象を紹介していました。ここにあるのが吉田神社です。

■吉田山に信長の城を造る計画があった
信長がたびたび上洛するたびに妙覚寺などを常宿にしていましたが、明智光秀が吉田山に城を造ったらと信長に進言します。信長に言われて柴田勝家や木下藤吉郎らが見分にきます。吉田神社としたらビックリ、木下藤吉郎らを接待し信長には城に不向きだと報告してもらいます。

■全国の神社に参拝した効果がある大元宮
吉田神社には大元宮というのがあって、ここが全国の神様を祀っています。室町時代に吉田神道をはじめた吉田兼倶がやり手で次々とライバルを蹴落として神道の家元的な立場をしめます。日野富子らに寄付をさせて完成したのが大元宮という八角殿です。信長も見学したはずで安土城の天守の八角堂のモデルになったとも言われています。

ロンドクレアント

湖の響 kayo書道展

以前に勤務していた関西文理学園の同窓会で書をやっている人から個展の案内をもらったのですが、会場がなんと北白川にあるロンドクレアント!梅棹忠夫先生の旧宅ですね。知的生産の技術研究会にとっては聖地のような場所です。

ということで朝から北白川へ出かけて「湖の響 Kayo書道展」(明日7日までやってます)を見てきました。自分が書いた文字も読めない人間にとっては、きれいな字というのはあこがれですね。

■梅棹サロン

ロンドクレアントはエスペラント語で、ロンドは「集まり」、クレアントは「創造者」の意味です。ここは毎週金曜日になると作家の小松左京さんら親しい仲間や若手研究者、学生らを自宅に集めて議論。時には白熱し飲み明かすこともあり、梅棹サロンと呼ばれていました。

もともとは本多勝一さんたちが京大に探検部をつくった頃、探検部の学生が梅棹先生の自宅にしょっちゅうおじゃましていたことがきっかけです。そこで金曜日の夜に自宅を開放し、誰でも訪ねてきてもいいようにと「梅棹サロン」をはじめました。時代を牽引する行動派知的クリエイターたちの梁山泊となっていきます。

関西文理学園 職員組合同窓会

関西文理学園 職員組合同窓会

25年ほど前に勤務していた専門学校ビジネスカレッジ京都(最初の名前は関西文理情報会計専門学校)を退職し、ついでに独立。専門学校の母体が予備校で有名だった関西文理学院(カンブリ)です。もともとは新村猛らが創設した京都人文学園でしたが18歳人口減少により2010年3月末で予備校は閉校となりました。

■同窓会
学園としては長浜バイオ大学として残っていますが、関西文理学院、バイオカレッジ京都の閉校から15年経ったこともあり、「生きている間に会おう!」と同窓会の呼びかけがあり、参加してきました。場所は京都駅前の京都新阪急ホテルで25年ぶりに会う方ばかり。人のことは言えませんが皆さん、高齢者なので、乾杯の挨拶も「立てる元気があるうちは立って乾杯しましょう!」という具合です。一人一言のコーナーがありましたが予備校での担任経験が長い職員が多く、話が長い(笑)

京都は左派が強かったのでメーデーには二条城に集合して赤旗を振ってパレードを行い、終わってから木屋町の焼肉屋で打ち上げをしたのが懐かしいですね。

武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

山住神社(岩倉の語源?)

山住神社

叡電・岩倉駅近くにあったのが山住神社。拝殿はありますが本殿はなく磐座を拝む形になっています。磐座を拝む神社は日本各地にあり、有名なのが日本最古の神社と呼ばれる熊野の花の窟神社。新宮には火祭りで有名な神倉神社があります。奈良の大神神社も三輪山にある磐座がご神体です。

なんでも桓武天皇が平安遷都のとき京都の東西南北にある4つの岩倉に一切経を埋めて、結界をはったという説があるそうです。その一つが山住神社でなんだそうで。石蔵に経典をおさめたとあるので、これが岩倉の語源になったのかなあ。岩倉上蔵城跡にも蔵の字がはいっていて、上蔵という名前が気になりますね。

岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅

京都市街の喧騒から離れた地域にあるのが岩倉です。今は叡山電鉄が走り住宅街になりましたが、昔は隠棲する場所でした。明治維新を取り扱ったドラマで必ず出てくるのが岩倉具視が隠棲していた建物です。

坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らと語り合った鄰雲軒が残っていて中に入れます。岩倉具視は公武合体をすすめ、和宮降嫁を推進したことから尊皇攘夷派から敵視され、岩倉に隠棲します。

岩倉具視は岩倉家の養子ですが、もともと岩倉家の先祖が岩倉出身で、岩倉具視の頃は岩倉とのつながりが薄かったのですが、縁があって廃屋を借りて隠棲することになります。薩摩、水戸、土佐藩士らが鄰雲軒を訪れ、慶応3年の王政復古はこの旧宅からはじまりました。

鄰雲軒などの歴史をガイドさんが説明してくれるのですが、行った時は一人だけで、なかなか贅沢な時間でした。観光客があまり来ない穴場ですね。

篠村八幡宮

篠村八幡宮

鎌倉幕府を滅ぼしたのは誰でしょう?

後醍醐天皇が倒幕を言いだしたのは確かですが、呼応したのは楠木正成など一部の武士です。倒幕できたのは足利尊氏が挙兵したからで、北条氏をよく思っていなかった武士が雪崩をうったように勝ち組にのります。

挙兵した場所が篠村八幡宮で亀岡から京都へ行く山陰街道の途中にあります。神社の横に楊(ヤナギ)の木があり、ここに足利家の二引両の旗をあげて参加する武士の目印にしました。今の木は7代目だそうです。ここから鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題を攻めます。六波羅探題は陥落し北条仲時らは京都から近江に逃れますが番場宿で追いつかれ一族432人が自刃します。鎌倉は新田義貞が攻めました。

有名な篠村八幡宮ですが、訪れる人は少なそうですね、行った時は誰もいませんでした。山陰街道沿いにあるので本能寺へ向かう明智光秀も戦勝祈願をしていますが、尊氏のように新しい幕府を作ることが脳裏によぎったでことしょう。

観音芝廃寺

観音芝廃寺

馬堀駅から少し行くと高台になっていて見晴というところがあります。地名の通り見晴がいいですね。今は住宅街になっていますが奈良時代の山陰道のすぐそばでした。一角にあるのが観音芝廃寺跡です。発掘調査され金堂や講堂跡がみつかり礎石などが復元されています。できたのが7世紀後半なので壬申の乱の頃ですね。300年ほど続きましたが平安時代には廃寺になったようです。秦氏が関わっていたのではと言われています。

■保津川開削
秦氏というと秦河勝が有名で聖徳太子の国造りを助け、広隆寺を創建します。秦氏は土地開発が得意なデベロッパーで、桓武天皇の平安京増設などに貢献します。嵐山にある大堰川の堰(葛野大堰)の原型は秦氏が作ったものです。嵐山までの保津川を開削し船運を整備したのも秦氏と言われています。丹波側の拠点として観音芝寺を作ったのでしょう。

明智越え

明智越え

保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。

亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。

住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。