恋路橋

恋路橋

大河原城がある大河原は宿場町で江戸時代は柳生藩が管轄していました。当時は水運が中心なので木津川の港として発展。本陣や問屋があり、馬借(運送)の詰め所もあり柳生藩から15頭の馬の使用が認められていました。

ここに沈み橋があります。川が増水すると水没してしまう橋のことで、なぜか恋路橋というユニークな名前がついています。橋を渡った先に恋愛・縁結びで知られる恋志谷神社があるところから名づけられています。なかなか雰囲気がある橋なので朝ドラ「カーネーション」などのロケで使われています。

西国街道をゆく(東寺)

東寺

寺が西国街道のゴールです。新幹線で五重塔が見えると京都に来たなという感じになりますが、あの五重塔があるのが東寺です。五重塔の高さですが80mほどで北山通りの標高と同じになります。京都で「上がる下がる」といいますが、高低差から理にかなっています。東寺は平安時代に官寺として西寺とセットで建てられ、羅城門を入ると朱雀大路の両側に五重塔がゲートのようにそびえていました。

やがて空海が真言密教の根本道場として東寺を活用します。この時の印象が強く、東寺といえば空海となっていて、毎月21日(弘法大師の月命日)には弘法市が境内で行われています。同時期に最澄が顕教を広めますが、修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが、これに対して密教は仏の力を借りて、呪文(真言)のような言葉で短期間で悟りに達するため、修行がいやな貴族に歓迎されます。

■どら焼きは東寺が発祥

東寺といえば「どら焼き」は東寺の僧侶が寺でも作れて腹持ちがよいお菓子を命じられ誕生しました。銅鑼で皮を焼いたことから「どら焼」と命名されます。関西では三笠山に似ているところから三笠と呼ばれています。

    西国街道をゆく(羅城門)

    羅城門

    西寺のすぐ近くにあるのが羅城門跡。黒澤明監督の映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」をモチーフにしていますが、芥川龍之介には他に「羅生門」があり、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆が登場する荒れ果てた状態でした。

    羅城門跡は小さな公園に石碑が建っているだけです。JR京都駅前に羅城門の模型があり、こちらで往時をしのべます。羅城門からは幅85mの朱雀大路を通して朱雀門まで見通せたようです。朱雀大路は軍の凱旋や外国からの賓客を迎えるイベントが行われる儀礼空間でしたので公卿を除いては朱雀大路に面して門を作ることができず、ずっと築地塀が続きました。

    ■羅城があった?
    九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在していたようです。ただし羅城が都の全周を取り巻いているわけではなく平安京に入る人へのアピールだったようです。実際に羅城が築かれるのは秀吉のお土居ですね。

    羅城門は980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなく、「光る君へ」に登場する藤原実資の「小右記」によると道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰った記録があり、源氏物語の頃は礎石しかなかったようです。道長のように礎石を持ち去ったものがいるので、現在まで羅城門の遺構が見つかっていません。

    西国街道をゆく(西寺跡)

    西寺跡

    西国街道ファンの皆様、おまたせしました。

    誰も待ってないって!まあ、そんなこと言わずに、お付き合いください。

    長岡京跡から阪急・東向日駅、JR向日町駅を超えて北東を目指します。桂川は久世橋を渡って超え川沿いの西国街道をゆくと吉祥院を過ぎて九条御前に出ます。平安京の九条通りです。九条御前の近くにあるのが西寺跡。京都駅から東寺の五重塔がみえますが対になって建てられたのが西寺です。桓武天皇は平城京の抵抗勢力である寺社がよほどいやだったのか平安京では官営の東寺、西寺以外の造営を禁じました。

    ■空海VS守敏僧都
    東寺は空海が西寺は守敏僧都(しゅびんそうず)が担当することになります。824年(弘仁15年)干ばつがあり、神泉苑で雨乞いが行われることになりました。守敏僧都は空海と法力で競いましたが敗れてしまいます。空海が雨ごいをしている時に守敏が世界中の龍を瓶の中に封じ、呪力で出さなかかったのを空海が破ったので雨が降ったといわれていますが、守敏僧都にそんな力があるなら、そもそも雨を降らせられるでしょう(笑)。空海の方が気象予報士としての才能が上だったようです。

    西寺は親方日の丸で国家財政に頼っていましたが東寺は空海のカリスマ性もあって貴族の信頼を集めます。両寺とも同じように落雷による火災がありましたが厳しい国家財政で西寺は再建がすすまず、東寺は勧進(クラウドファンファンディング)で再建され現在に続きます。

    西国街道をゆく(長岡京)

    長岡京

    住宅地に長岡京に大極殿跡などが点在しています。平城京から長岡京へ遷都したのは歴史で習った桓武天皇です。

    ■桓武天皇
    桓武天皇は本来は天皇になる予定ではなかったのですが藤原氏の内紛から藤川百川によって帝位につくことにりました。母(高野新笠)の出自が低いことがコンプレックスだったようで、枚方の近くの交野(かたの)をしばしば訪れています。交野は母にゆかりがある百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地でした。ここで中国の皇帝が行っていた行事を行います。神武天皇が鳥見山で行って以来の儀式でコンプレックスをなんとかしたかったのでしょう。

    ■長岡京
    延暦3年(784)年に長岡京に遷都します。前年に和気清麻呂を摂津大夫に任命し難波京の解体を始め、淀川を使って運びます。長岡京は後期難波京とをそのまま移したため同じ8堂になりました。平城京の仏教界は遷都に大反対。いろいろ確執があったところに発生したのが造営の指揮をとっていた藤原種継暗殺事件。関係者として早良親王が浮かび、皆さんよくご存じの「陰陽師」につながっていきます。

    ■伊勢神宮
    桓武天皇は皇太子時代に伊勢神宮に参拝しています。紀作良(きのつくら)に命じ、延暦4年に斎宮を造営します。また桓武天皇の時代から「紙幣禁断の制」となり、個人的に参拝祈願すると遠流(島流し)に相当する重罪でした。

    ■武士の時代へ
    桓武天皇は常備軍を持とうと健児の制(こんでいのせい)を始めましたがコストがかかりすぎて、結局は武士に丸投げ。昔は大王自体が戦いましたが、桓武天皇の時代から部下を征夷大将軍に任じ、刀を持たずに汚れ仕事を武士に任せるようになります。最初は命令すればよかったのが武士が力を持ち始め平治の乱あたりから貴族が恐れる存在となります。

    西国街道をゆく(一文橋)

    一文橋

    西国街道が小畑川を渡るところにあるのが一文橋。山崎の合戦が行われた小畑川のずっと上流の方です。なんでも日本最古の有料橋なんだそうで通行料が一文だったことから一文橋と呼ばれました。今、見るとおとなしそうな川なんですが、何度も洪水により橋が流されることから架け替え費用の捻出のために通行料をとっていました。今は通行料を払わなくても通れます。

    有料橋で有名なのが大井川にかかっている蓬萊橋で世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されています。テレビや映画のロケ地によくなっています。あとは祖谷のかずら橋ですね。十津川にある谷瀬のつり橋は無料で通れます。

    西国街道をゆく(調子八角)

    調子八角

    西山天王山駅は2013年(平成25年)にできた阪急京都線の駅で長岡天神駅と大山崎駅の間にできました。住宅街や立命館中学校・高等学校があるので乗降客で賑わっています。駅を出ると交差点があって、調子八角という変な名前がついています。この交差点が西国街道と丹波街道の分岐点で丹波街道が調子八角で分岐し、大枝の沓掛まで進んで山陰道に繋がります。

    ■光秀が通る街道だった
    亀岡城を出た明智光秀が本来は沓掛から丹波街道に入り、調子八角から西国街道を通って備中高松城を水攻めしていた秀吉の応援にいくはずが、沓掛からそのまま都へ入って本能寺の変を起こします。

    ■調子八角の由来
    調子は山城国乙訓郡調子荘を本拠地とした調子氏に由来するそうです。もともとは下毛野氏だったそうで栃木あたりの豪族だったようです。八角は八角堂があったかという説などいろいろあります。交差点には元禄時代の道標が残っていて「右 あたご道」、「左 たんば道」と書かれています。西国街道から愛宕詣でするための道案内でした。

    西国街道をゆく(神足)

    神足駅

    JR長岡京駅近く西国街道沿いの公民館前に神足(こうたり)駅の看板があります。1995年(平成7年)に神足駅から長岡京駅に駅名変更となり、それまで使われていた看板です。駅名が長岡京になっていますが大極殿跡などは阪急・西向日駅が近く、JR長岡京で降りると、かなり歩くことになります。神田神保町へ行こうと神田駅で降りるのと同じで学生時代にやりました(笑)。もっとも広い都ですから長岡京に駅が含まれていることは確かです。

    神足は古い地名で桓武天皇が長岡京にいた時に夢を見ました。田村にあった池に天から神が降り立ち、都を襲おうとした悪霊を防いでいました。神を見ようとしても頭を上げられず足しか見えません。そこで神社を建て、これが神足神社となります。田村という地名も神足になりました。

    西国街道をゆく(勝竜寺城)

    勝竜寺城

    山崎の戦いで敗北した光秀は勝竜寺城に入りますが、兵の脱走や離散が続いたため北門から脱出し坂本城を目指す途中、小栗栖の藪(山科)で農民の落ち武者狩りにあい命を落とします。脱走兵は西国街道を通って京都を目指し、長い列になっていたと宣教師が書き残しています。

    勝竜寺城は南北朝時代からありましたが二重の堀など整備したのが細川藤孝です。ここは藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が結婚して新婚時代を過ごした城であります。勝竜寺城は公園になっていますが、少し離れた神足神社境内で惣構の跡が発見され、高さ6メートルを超える大規模な土塁・空堀が復元されています。

    山崎の戦い 天正10年(1582年)6月13日

    山崎宿

    西国街道に山崎宿があり、摂津と山城の境に位置しています。写真付近にあったのが山崎西黒門跡で宿場の西門でした。山崎で有名なのが秀吉と光秀が戦った山崎の戦いです。山崎は隘路になっており新幹線、名神、阪急、JRが狭い場所に集中しています。光秀としては山崎宿で戦うのが有利なのですが、光秀は山崎では戦わないという禁制を山崎に発行していました。油座などで経済が発展していた山崎の経済力を温存したかったようです。ということで山崎を抜けた小畑川が戦場になりました。光秀は小畑川に布陣し、長篠の合戦を再現するつもりだったという説もあります。

    ■中国大返し
    山崎の戦いは秀吉が中国大返しをして勝ったという雰囲気ですが、実際に戦ったのは摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興です。もっとも「信長様は生きている」というフェークニュースを秀吉がばらまき、摂津衆をつなぎとめたのが大きかったです。諸説ありますが、中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇して戦になった模様です。

    最初は互角でしたが秀吉軍が到着したため光秀軍は総崩れになった模様です。また秀吉が毛利と和睦した時に黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせるなど、勝つためになりふり構わなかった秀吉が一枚上手でした。