櫛山古墳

櫛山古墳
櫛山古墳

行燈山古墳(崇神天皇陵)のすぐ隣にあるのが櫛山古墳で、こちらも山辺の道沿いにあります。一見すると前方後円墳なんですが、ちょっと変わった双方中円墳になっていて円丘の両側に方形の突出部を持っています。築造された年代は4世紀後半とみられているので、行燈山古墳の後になりますが行燈山古墳のすぐ近くに造られ、同じ向きで並んでいますから、おそらく関係があった人物でしょう。

天皇陵ではないので登ることができますが広場みたいになっていて、江戸時代には柳本藩の弓場になっていたといわれています。確かに弓の練習をするには程よい広さになっています。

山辺の道

山辺の道
山辺の道

崇神天皇陵は山辺の道(やまのべのみち)のほとりにあります。山辺の道は古墳時代初期、崇神天皇の時にはすでにできていたようで、日本最古の道でありハイキングコースとして人気があります。桜井から天理を通って奈良へ至る35kmの道です。

かって奈良盆地には大和湖があったので古代でも沼地や湿地が多く、これを避けて山沿いに山林、集落、田畑の間を縫うように山辺の道が作られました。ですので奈良盆地を一望できるところが山辺の道沿いにたくさんあります。

山辺の道の起点は桜井にあった海石榴市(つばいち)で聖徳太子が送った遣隋使の返礼として、難波より大和川を遡上してきた隋使・裴世清(はいせいせい)を迎えたところで有名です。ほかにも物部守屋と蘇我馬子との仏教をめぐる争いから物部守屋が伽藍を焼き尼僧らの衣服をはぎ取りって海石榴市で鞭打ちしたという記録にも出てきます。

沿道には茅原大墓古墳、景行天皇陵、崇神天皇陵、櫛山古墳などのほか纏向には卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳のすぐ近くを通り、歩きながらヤマト政権の中心地を堪能できます。また三輪の大神神社、元伊勢と呼ばれる檜原神社、相撲神社、長岳寺、日本酒発祥の地である正暦寺などが並びます。人気なのは桜井から天理に至る南コースで約16kmあります。

行燈山古墳(崇神天皇陵)

行燈山古墳(崇神天皇陵)
行燈山古墳(崇神天皇陵)

天理市柳本町の山の辺の道沿いにに行燈山古墳(あんどんやまこふん)という前方後円墳があります。実際の被葬者は分かっていませんが、宮内庁では「山辺道勾岡上陵」として第10代崇神天皇陵にしています。中には入れませんが水堀沿いなどを歩けます。

崇神天皇の称号は神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」とよく似ていることから、崇神天皇は3世紀後半ごろに実在した最初の大王では言われています。有名なのは北陸、東海、西道、丹波に四道将軍を派遣したことで北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所から会津というようになったと言われています。

西道をすすみ吉備国を平定したのが吉備津彦で、桃太郎伝説のモデルになりました。この吉備津彦命の墓である中山茶臼山古墳(吉備)と行燈山古墳(大和)がちょうど1対2のサイズで同じ設計図から作られたのではないかと言われています。

行燈山古墳は4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造で、規模は全国第16位の大きさ。卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳がある纏向遺跡にも近く、初期ヤマト王権の大王墓のようです。

誰が殺した聖徳太子

中宮寺跡
中宮寺跡

法隆寺の隣にあるのが中宮寺。拝観料は600円ですが、「法隆寺を参拝します!」と受付でいうと500円になり、けっこうアバウトです(笑)。近代的な本堂があり、この中にあるのが弥勒菩薩半跏思惟像で国宝になっています。日本史で勉強した天寿国繍帳のレプリカもあります。 

創建当時の中宮寺は現在の中宮寺から東方約400メートルほど行ったところにあり、江戸時代のはじめに今の場所へ移ってきました。もともとの場所に伽藍はなく国の史跡になっていて行った時もちょうど発掘調査をやっていました。創建当時は四天王寺伽藍形式で金堂と塔が一直線に並んでいて聖徳太子の母である穴穂部間人皇女の宮殿を中宮寺にしたと伝わっています。 

【誰が殺した聖徳太子】 
クックロビンじゃありません(笑)。梅原猛の「隠された十字架」ではありませんが聖徳太子についてはいろいろと不思議な話が残っていて、例えば亡くなったのは推古天皇30年(622年)で、斑鳩宮で倒れ病の床に就きました。それは分かるのですが妃の膳大郎女が、太子が亡くなる前日に亡くなったと記録されています。 

なんとも不可解な話で、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女も2ケ月ほど前に亡くなっています。伝染病なのか暗殺なのか謎につつまれていますが蘇我馬子の子である善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽したのではという説もあります。斑鳩は古代ミステリーの宝庫ですねえ。

大納言塚

大納言塚
大納言塚

先日、ファイティングコンサルタンツのメンバーと行ったのが大和郡山城の近くにあるのが大納言塚。つまり秀吉の弟である秀長のお墓です。秀長が亡くなった時の官位が大納言だったので大納言塚と呼ばれています。 

【豊臣秀長】 
秀吉は織田家の中途採用から出世しましたので先祖伝来の郎党がいるわけでもなく、家臣団を構成するために親戚やヘッドハンティングするしかありませんでした。そんななか秀吉の右腕となったのが小一郎(秀長)で、農民の出身のはずですが才能に恵まれており、よく秀吉をサポートしました。 

秀長は温厚な性格で、秀吉の欠点を補い、僧兵や国人の争いが多かった大和も大過なく治めており実務能力も高かったようです。先日、亡くなった堺屋太一が「豊臣秀長―ある補佐役の生涯」という本も書いています。秀長は大和郡山城内で病死し大納言塚に葬られます。 

【藤堂高虎】 
この秀長の右腕だったのが藤堂高虎。主を7回変えたといいますが、それは若い頃の話で21歳で秀長に仕官してからは秀長が亡くなるまで15年にわたり仕えました。秀長亡き後は継いだ養子の豊臣秀保をサポートし、名代として文禄の役にも出兵しています。ところがこの秀保が17歳で早世してしまい大和豊臣家は断絶。藤堂高虎は出家して高野山に上ってしまいますます。才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得し還俗させました。 

訳語田幸玉宮(敏達天皇)

訳語田幸玉宮(敏達天皇)
訳語田幸玉宮(敏達天皇)

【敏達天皇】 
敏達天皇といえば仏教伝来で有名な欽明天皇の子供で、奥さんは額田部皇女(後の推古天皇)でした。大連は物部守屋、大臣は蘇我馬子が勤め廃仏派、崇仏派で争っており、次の用明天皇時代に蘇我馬子・聖徳太子vs物部守屋の戦いが起きます。崇仏派が勝利して聖徳太子が建てたのが大阪の四天王寺です。

敏達天皇は廃仏派で、廃仏派が優勢となり、物部守屋がインドから百済経由で伝わった仏像を難波の堀江へ打ち捨てます。これを本田善光という人物が拾って本尊としたのが信州にある善光寺となります。

【訳語田幸玉宮】 
さて敏達天皇の宮は訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)と言い、桜井の戒重にあったと言われています。欽明天皇の宮(磯城嶋金刺宮)、用明天皇の宮(磐余池辺雙槻宮)も同じ桜井にありました。訳語田幸玉宮跡は後に西阿の戒重城、織田の戒重陣屋となるところです。 

【大津皇子の邸宅に】 
訳語田幸玉宮の後は大津皇子の邸宅となり、大津皇子は天武天皇が崩御すると密告により謀反を計画したと捕えられ訳語田(おさだ)の自邸にて自害します。鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の策略ではないかと言われている事件で、「天上の虹」の世界ですなあ。

石上神宮

石上神宮

豊田城跡から山の辺の道をたどると石上神宮(いそのかみじんぐう)に着きます、

石上神宮は物部氏の総氏神で古代からある神社です。古代に神宮だったのは伊勢神宮と石上神宮の2つしかありません。物部氏というと物部守屋が仏教を巡り蘇我馬子、聖徳太子と対立し、河内国渋川郡にあった館で破れ、物部氏そのものが滅んだという印象がありますが、石上氏と名前を変えて存続します。物部氏の本拠地は現在の東大阪、八尾と奈良の天理あたりでしたので天理の物部氏が本宗家の地位を継いだようです。

物部氏は大伴氏と並んで、武門の棟梁でした。磐井の乱の鎮圧などで活躍をしています。その関係もあり古代には武器庫もありました。垂仁天皇の時代に剣一千口と神宝が納められという記録があり、日本後記には石上神宮の武器類を山城国葛野郡に移す時、延べ15万7千人が必要だったと記録されています。正倉院にも武器が収められていて恵美押勝の乱の時に、写経生が叩き起こされて宮中の警備のために武器を取り出し、何もしなかったが後でほうびがもらえた記録が残っています。

上之宮遺跡

上之宮遺跡

聖徳太子による最初の国立劇場である土舞台から山を降り、少し歩いた住宅街のど真ん中にあるのが上之宮遺跡。とっても分かりにくいところにあります。 

発掘によって周囲100m四方の敷地内に大型建物、花園、園地遺構があることが判明しました。近くを川が流れており川が削った河岸段丘の上にあります。今は住宅地の中に園地遺構が復元され、小さな公園として整備されています。 

聖徳太子を最近の教科書では厩戸皇子と呼ぶそうですが、別名で上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれています。上之宮という地名から、聖徳太子が斑鳩宮に移るまで過ごした宮殿、上宮(かみつみや)が上之宮遺跡跡ではないかとも言われています。またこのあたりは豪族・阿倍(安倍)氏の本貫でもあるので阿倍氏関係の居館の可能性もあります。阿倍氏は阿倍比羅夫などを輩出し、平安時代には安倍晴明へとつながります。飛鳥時代から続く安倍文殊院もあります。 

近年、もう少し西へ行った東池尻・池之内遺跡で池の堤跡が見つかり、これが磐余池ではないかと言われています。磐余池の近くには用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、上宮はその南隣にあったとされているので、上ノ宮遺跡は阿倍氏関係ですかねえ。 

土舞台

土舞台

安倍山城から尾根づたいに歩くと郭跡のような広場があり、”おおっ!”と思ったら土舞台という碑が建っていました。

なんでも推古天皇の時代に百済人の味摩之が日本に帰化したんですが、伎楽の舞を習得していたので聖徳太子が子供を集め、この伎楽の舞を習わせた場所なんだそうです。技術伝承ですなあ。というわけで土舞台は日本芸能発祥の地で日本最初の国立劇場なんだそうです。ほんまかいな~あ。地名が土舞台ですから、何かはあったんでしょう。

伎楽は三国志で有名な呉から伝わった舞で東大寺の大仏開眼供養などでも披露されましたし、正倉院にも酔胡王、迦楼羅、呉女などの伎楽面がいくつも伝わっています。

土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」に紹介されるほど有名だったそうですが、今はほとんど知られていないので顕彰碑が建てられたんだそうです。まあ行っても単なる広場で、南北朝時代の安倍山城の時は絶対に兵士が駐屯した郭として使われていたでしょうね。

磐余若桜宮跡

磐余若桜宮跡

大和谷城跡は現在、若桜神社となっていますが古代には磐余若桜宮跡があったようで伝承地になっています。磐余(いわれ)というのは現在の桜井市西部地域を指した古代の地名で、神武天皇の和風諡号にも磐余の名前が入っており、かなり古いですね。 

磐余若桜宮を作ったのは第17代履中天皇で、宋書に出てくる倭の五王の倭王讃ではないかと言われており、実在したようです。磐余に造った池で船遊びをしていると、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮としました。 

磐余池といえば大津皇子の辞世の歌が万葉集に残っています。”ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”。大津皇子の墓は二上山にあります。里中満智子の「天上の虹」の世界ですな~あ。