飛鳥時代の亀形石造物が見つかった四天王寺

四天王寺
四天王寺

天王寺で夜のお仕事でしたので、四天王寺へ寄ってきました。 

聖徳太子が物部氏との戦に勝ったお礼に建立したお寺です。四天王寺の亀井堂で経木流しという供養をするのですが亀形石の背中がプールのようになっていて、ここに経木を浮かべて供養をします。 

昨年、この亀形石が飛鳥にある斉明天皇時代の亀形石造物と同じ時期にできたことが判明しました。飛鳥では酒船石遺跡で発掘されましたが、四天王寺では飛鳥時代から現役で使っていたことになります。夕方で亀井堂は閉まっていましたが、亀形石造物は外から見られました。

夏越の大祓

夏越の大祓
夏越の大祓

6月30日、上半期終了です。

本日、行われるのが夏越の大祓。「水無月の夏越の祓する人は、千歳の命延ぶというなり」ということなんで、氏神さんの枚岡神社に人形(ひとかた)を奉納してきました。これで上半期の穢れを払って、下半期を乗り切りましょう。

夏越の大祓にあわせ、白の外郎に小豆をのせ、三角形に切った「水無月」というお菓子を食べる風習があります。三角形の外郎は氷をあらわしていて、もともとは宮中で行われていた「氷の節句」からきています。氷室から運んだ氷を食べて夏を乗り切るということで、庶民が氷の代わりに編み出したのが水無月です。

というわけで夏越の大祓にあわせ、オンザロックのグラスにビールを注いで飲んでおります。

G20 大阪は厳戒態勢に

いよいよG20が始まるということで全国からお巡りさんが大阪に集まって厳戒態勢になっています。でも大阪の町を神奈川県警と書いたパトカーが走っていると、とっても違和感がありますね。伊勢志摩サミットの時は津駅に熊本県警と書いたお巡りさんが警戒にあたっていて乗客に道を聞かれて困っていました(笑)。 

地下鉄のゴミ箱が撤去され、ロッカーも使えなくなったためインバウンドで民泊に泊まっている外国人などに影響が出ています。交通規制となり物流に影響を与えますので大阪経由の宅配便などは遅れるとアナウンスされています。 

そこらへんで検問がはじまり、お巡りさんを、めたらやったら見かけるようになったので犯罪が減るのはいいのですが、G20の会場となる南港で商売しているお店にとってはマイナスだけ、会期中の4日間は閉店するように言われ補償は一切なしだそうです。先週あたりから南港に近づかない人も増え商売あがったりで、全国から応援にきた、お巡りさんへは弁当支給でしょうから、飲食店は軒並みダメ、仕事終わりにお巡りさんが寄ってくれるアイスクリーム屋だけは少し繁盛しているそうです。

ホワイティ梅田に新しい立ち飲み屋

本日は中小企業診断士の1次試験が近いこともありLEC梅田で追い込み講座。受験生の皆さん、がんばってください。
講座が終わったので東梅田駅へ向かうために地下街・ホワイティ梅田を通っていきます。ホワイティ梅田には立ち飲み屋が3軒ありますが、夕方はどこも一杯。
それが赤垣屋をはじめ3軒とも空きがあります。珍しい!というわけで、とりあえずヨネヤへ(笑)。
帰り大御所酒坊の横に新しい立ち飲み屋ができていることを発見。これでお客さんが分散したので、すいたんですかねえ。
アイスクリーム屋やパブロなどが並ぶお洒落なホワイティ梅田をじわじわと立ち飲み屋が浸蝕しております。

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産推薦へ

津堂城山古墳
津堂城山古墳

百舌鳥・古市古墳群が近々、世界遺産になりそうですね。百舌鳥(モズ)なんて、よめない人も多そうですが、これで全国的になりそうです。

戦国時代、古墳は城として使わていました。高槻にある今城塚古墳は本当の継体天皇陵と言われていますが織田信長が三好一族と争った時に城と使われたことから今城塚古墳となりましたが、実際は地震の影響によって城跡のように見えたことが判明しました。

今回の世界遺産候補にも2つの城跡が入っていて、津堂城山古墳(小山城)と仲哀天皇陵(大坂夏の陣の真田丸)です。特に仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)は最近の調査によって道明寺・誉田の戦いで徳川家康軍を待ち受けるために真田信繁が築いたもう一つの真田丸だったという説が濃厚です。

今回の世界遺産リストには入っていませんが百舌鳥・古市古墳群には他にも大塚山古墳(丹下城)、安閑天皇陵(高屋城)、黒姫山古墳(丹南城)の3つの城跡があります。

水間観音

水間観音
水間観音

根福寺城からずっと下ってくると三重塔で有名な水間観音があります。

水間観音は聖武天皇の勅願により行基が開創したと言われています。戦国時代、ここらへんは根来の支配下だったため秀吉の紀州征伐(雑賀、根来攻め)で堀秀政の軍勢に攻められて焼失しました。堀秀政といえば信長の側近で、信長亡き後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いでは家康の本拠である岡崎をつこうとした時に家康に見破られ秀吉軍はさんざんに打ち負かされます。そんななか委細をはなったのが堀秀政軍で家康軍を敗退させ一矢報いました。小田原城攻めで病没してしまいました。

伽藍は江戸時代に再建されています。昔から厄除けで有名でしたが境内の愛染明王が恋人の聖地と認定されたことから厄除けと恋愛成就のパワースポットになっているそうです。知らんけど。

高津宮

高津宮

上町台地にあったと伝わるのが仁徳天皇の高津宮で、現在は神社になっています。上町大地の西端にあり西側は崖になっています。高津の富という上方落語の舞台でもあります。

仁徳天皇は宋書・倭国伝に出てくる倭の五王の倭王讃または倭王珍ではないかと言われています。お墓は堺にある世界最大の大仙陵古墳で、昔は仁徳天皇陵と習いましたが、実際は誰が葬られているのか、よく分かっていません。

高津宮といえば有名なのが「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり」という新古今集に出てくる和歌で、仁徳天皇の偉業をうたったものです。疲弊した民のために3年間、徴税をやめ宮殿が荒れ果ててしまいましたが3年経って民の家々から煮炊きの煙があがるようになったという故事に由来するものですが、プライマリーバランスを無視して、ほんまにできるんですかいな~あ。

仁徳天皇といえば難波の堀江の開削(現在の大川と言われています)と茨田堤の築造を行ったインフラ整備で有名で国力を豊かにするための施策を実行したのが本当でしょう。

額田戎神社

額田戎神社

えべっさん、今年もあんじょう頼んまっせえ!他のヤツの願いはどうでもええから、ワテの願いは絶対でっせえ!合同会社もやっているし、ほんまに頼んまっせえ!!

ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。人が多い今宮や西宮へ行かなくても、ゆっくりお参りできるのが最高です。西宮のえべっさんを勧請しているので、ご利益は同じです!!と信じています(笑)。なんせ浄土真宗なみの絶対他力ですから、ほんまにあんじょう頼んまっせえ!

いつもは閑散としている額田戎神社も十日戎の間は”商売繁盛で笹もってこい!”が大音量で流れています。まずはえべっさんにお願いして、次は社殿裏にまわって木の板をたたき、もう一度お願いをします。なんせ耳が遠い神様なんで念には念をいれます。

境内でお神酒と甘酒をいただいてから縁起物を買い求めます。額田戎神社では縁起物を買うと福引ができ、今年も5等(末等)のゴミ袋でした。さあ、また1年がんばろう!

T-Site(枚方 蔦屋書店)

枚方・蔦屋書店

先日、京阪枚方市駅へ行ったついでに、やっとこさT-Siteへ行ってきました。くらわんか舟の伝統がある枚方には似つかわしくないオシャレなお店ですね(笑)。

行くのが遅いって(笑)。

T-Siteはカルチュア・コンビニエンス・クラブが運営する複合商業施設で、代官山・湘南に続く3店舗目になり、中心になるのが蔦谷書店です。 LUCUA osakaにある梅田・蔦屋書店は実に本が探しにくいですが、枚方・蔦屋書店はジャンル分けされていて探しやすいですね。

ご存知の方も多いと思いますがTSUTAYA創業の地が枚方で蔦屋書店という名前でスタートしました。てっきり喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した蔦屋から名前をとったと思っていたら、お爺さんが置屋を営んでいて、その屋号が蔦屋だったそうです。

カルチュア・コンビニエンス・クラブが創業の地である枚方に立派な施設を作ったのとは対照的に、イオン(岡田屋)創業の地である四日市の諏訪商店街には何の店も残っていません。岡田屋の家訓が「大黒柱に柱をつけろ」ですので、創業の地にはなんのこだわりもないようです。

継体天皇の楠葉宮

楠葉宮

皇統が一度、途絶え王朝が交代したのではと諸説あるのが継体天皇。なんせ応神天皇の5世孫ですから異例な出自になっています。

継体天皇は越前国にいましたが有力豪族達からの誘いで楠葉宮において即位します。この時に活躍したのが河内馬飼首荒籠でした。楠葉周辺は牧(今の牧場)がたくさんあり(京阪沿線には牧野駅があります)、牧を管理していたのが馬飼部で、首長が荒籠でした。当時の馬は物流の要ですので、今でいうと大きなトラックターミナルの理事長みたいな存在でしょう。各地から届く情報を継体天皇に伝えていたようです。

■山城のような楠葉宮
継体天皇を迎えた大伴金村は任那4県の割譲による賄賂事件で失脚、新羅と通じた筑紫君・磐井による反乱事件も起き、朝鮮半島情勢を巻き込み激動の時代でした。当時、中国大陸ー北陸ー琵琶湖ー淀川が情報や物流ルートでしたので楠葉を拠点にしたのでしょう。

楠葉宮に比定されているのが足立寺跡に近い丘の上にある貴船神社で、住宅地の一角に、うっそうとした原生林に囲まれている中にあります。宮は飛鳥板葺宮など平地に作られるのが基本ですが、山城にしようと思えば、できそうな丘の上にありました。

即位19年後まで都を大和に移せませんでしたので緊迫した情勢だったのかもしれません。継体天皇が葬られたのは高槻にある今城塚古墳というのが定説になっています。