足立寺跡

足立寺跡

楠葉駅からずっと東側へ行った高台に西山廃寺(足立寺)跡があります。現在、足立寺史跡公園になっていて敷地内には和気神社もあり、和気清麻呂を祀っています。道鏡に両足を切られた和気清麻呂が宇佐宮で祈ると足が元通り生えて歩けるようになり(ほんまかいな~あ!)、御礼に男山に寺院を建て、それが足立寺(そくりゅうじ)で、古来、足の怪我に霊験あらたかなんだそうです。

発掘調査の結果、三重塔跡などが見つかり、和気清麻呂の時代よりも100年も前の白鳳時代に地元の豪族によって建てられたお寺のようで、敷地内には奈良時代の窯跡も残っていて復元されていました。寺跡はかなりの高台で楠葉、橋本の街を見渡せることができます。力のある豪族だったんでしょうね。

大和川の跡

新開地の自然堤防跡

和気清麻呂の時代から懸案だったのが大阪の東側を流れる大和川の付け替え。

古代から大和川は北に流れ、最終的に淀川と合流して大阪湾にそそいでいました。ただ洪水をよく引き起こしていたため奈良から流れてきた大和川をそのまま西に流して大阪湾へ直接つなごうという大事業です。

■大坂の陣
大坂の陣では大和川沿いに進軍してきた徳川軍を河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受けることにしました。これが道明寺の戦いで、後藤又兵衛が討死することになります。

当時は大和川が北に流れていましたので、京都を出発した徳川本隊は大和川の東側にある東高野街道を南下していました。街道沿いに伸びきった隊に横槍をいれようとして始まったのが八尾・若江の戦いで木村重成が討死します。このように大和川は大坂の陣の舞台となりました。

■吉田に残る大和川遺構
近くの近鉄東大阪線・吉田駅周辺には大和川にちなむ地名が今も残っています。「川中」、「島之内」など極めつけは水走(みずはい)でしょう。

大和川が付け替えされる前、吉田駅近くに新開池という池がありました。今は住宅地となってしまいましたが、今も2メートル程の段差がずっと残っています。これが新開地の自然堤防跡です。写真の住宅の向こう側に2メートルほどの段差があり、ずっと続いています。

枚岡秋郷祭り 踏切超え

枚岡秋郷祭り

河内一之宮 枚岡神社の秋郷祭り。

麓にある東高野街道沿いに枚岡神社の一の鳥居があり、朝から各町内を巡った23基の太鼓台が集合。順次、枚岡神社までの坂を登り始めます。坂を延々と登り枚岡神社までもう少しというところにたちはだかるのが近鉄奈良線の踏切。枚岡駅のすぐ横です。この踏切を渡ったところから一番急な坂が30メートルほど続き、ここが難所となります。

この踏切超えの太鼓台を見るのが一番、面白いですね。近鉄の職員がダイヤを見ながら太鼓台を通す時間を見計らいます。ところが通る近鉄電車の運転手は駅周辺の山のような人だかりを見て減速するもので、なかなかダイヤ通りにはいきません。いろいろと連絡をとりあって23基もの太鼓台を通していきます。

動画はこちらです

まもなく枚岡祭り

枚岡祭

風と共に太鼓の響く音が聞こえます。まもなく枚岡祭りですねえ。

枚岡祭りとは河内国一ノ宮である枚岡神社の秋郷祭りで。祇園祭のように日程が固定で、10月14日が宵宮、15日が本宮となります。今年は14日が日曜と重なり何とか祭りが見られそうです。

枚岡神社は日本最古の神社の1つで、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(藤原氏の祖神)と比売神(天児屋根命の奥さん)が奈良に勧請されて春日大社(東大寺の隣にあります)となりました。ですので枚岡神社は元春日とも呼ばれています。枚岡は神武東征の舞台となった土地で社伝では神武天皇の勅命でできた神社だそうです。

枚岡祭りでは地元の9地区から大中小合わせて23台の太鼓台が出ます。9月下旬から夕方に夜にかけて太鼓台の太鼓を打つ練習がはじまり、それが風で届きます。

パンドラの匣(太宰治)

パンドラの匣

太宰治といえば「人間失格」や「斜陽」など暗いイメージがあるんですが、二編ほど青春快活物を書いています。

その一作が「パンドラの匣」。ちょうど太平洋戦争が終わった頃、結核患者向け療養所に入った青年の周りで巻き起こる小さな日常のドタバタを描いた作品です。この療養所が変わっていて健康道場という名前で、院長は場長、看護師さんは助手、入院患者は塾生と呼ばれ、場長の闘病法である屈伸鍛錬などを行うのが日課になっています。助手のマア坊や、竹さんとのやり取りや個性的な療養患者がなかなか面白い作品で2009年には映画化もされているんですね。(出演は染谷将太、ふかわりょう等)

■「パンドラの匣」の舞台は日下
もともと太宰ファンだった青年が療養生活の内容を日誌に残しており、亡くなってから太宰治に送られ「パンドラの匣」となりました。物語の舞台となった健康道場は東大阪市の日下にあり孔舎衙健康道場という名前です。高台にあって今は跡地だけが残っていまが、案内板もあり、石切駅から離れていて、けっこう不便な場所ですが熱心な太宰ファンが通っているようです。

「パンドラの匣」には”枕元の大きい硝子窓の下には、十坪くらいの「乙女ヶ池」とかいう(この名は、あまり感心しないが)いつも涼しく澄んでいる池があって”とありますが、健康道場跡にある高台から見えるこの池のことですかねえ。

上田秋成(日下)

東大阪

大阪・曽根崎生まれの上田秋成。怪異小説「雨月物語」の作者として有名ですが国学にも造詣が深く本居宣長とも論争しました。

妻を亡くし、両目を患っていた上田秋成は東大阪の日下で4ケ月ほど療養します。日下に正法寺という寺があり、ここの紫蓮(唯心尼)が招いたそうです。近郷の文芸愛好者が集まり、文芸サロンの様な雰囲気になっていました。先日、孔舎衙坂駅へ行ったついでに寄ってみましたが今は正法寺はなく2本の楠と看板だけが残っています。

近くには日下村の庄屋を務めた河澄家があり、こちらにも上田秋成はよく出入りしていたようで、随筆「山霧記」にも河澄家を訪れたことが書かれています。河澄家は修理されて平成23年5月より一般公開されています。

100m上がると0.6度気温が下がる

枚岡神社
毎日、暑いですね。
大阪も猛暑が続いています。夏越の祓のお札が届いたので、前回の祓のお札を返すために枚岡神社へ。そのまま枚岡公園を散歩してきました。標高は100メートルほどあるので、0.6度ぐらい涼しくなるはずですが誤差の範囲でした。坂を登るのに汗をかきましたが、大阪平野が一望できます。
Gooの天気予報に過去の大阪の気温があったので本日の最高気温を5年ごとに見てみると
1961年 33.7
1966年 31.9
1971年 32.6
1976年 31.4
1981年 34.0
1986年 31.2
1991年 29.3
1996年 34.0
2001年 27.5
2006年 33.8
2011年 34.8
2016年 31.5
となります。1961年の7月の気温を見てみると一番高いのが35.5度です。やはり、温暖化が進んでいるようです。

夏越の祓

夏越の祓

2018年の上半期が終了。近くの枚岡神社へ行くと茅の輪くぐりがあったので、巡ってきました。
 
夏越の祓の風習ですが、関西には多く関東では少ないそうです。先日、行った盛岡城の桜川神社にも茅の輪くぐりがあったので、地域性があるようです。
 
さあ下半期も頑張ろう!

地震で電車がとまる

近鉄東大阪線の新石切駅へ向かうと、案の定、地震で止まっていました。そのまま自転車で谷町四丁目を目指します。
途中、地下鉄の入口近くのコンビニは大勢のビジネスマンがひたすら復旧を待っていました。
1時間半ほど自転車に乗ってマイドーム大阪へたどりついたらエレベータが全部止まっている!大阪府よろず支援拠点は7階にありますが1~3階はホールなので実質、10階分ほどの階段があります。最後にとんでもない難関が待ち構えていました。

息も絶え絶えで大阪府よろず支援拠点にたどり着くと、同じように自転車でたどりついたコーディネータがおりました。というわけで大阪府よろず支援拠点は平常対応しており、朝から相談をこなしています。

グランフロント大阪


昨日はITC維新会の勉強会があり久しぶりに参加してきました。
会場がグランフラント大阪という梅田の北側に開発された複合商業施設です。時間があったのでヨドバシカメラに寄ってからグランフロントへ。以前はヨドバシカメラから大阪駅やグランフロントへ行くのが大変でしたが、渡り廊下ができていました。便利になりましたね。
■グランフロント大阪
土曜ということもあり観光客などでごった返しているグランフロントですが、オフィス棟に入るところが分からない(笑)。
受付で聞いたら中国系のようでしたが日本語でオフィス棟の入口を教えてくれました。オフィス棟エリアに入ると、さっきまでの喧騒はなんだったのと、いうぐらい静かな場所。まずは9階にあがって、上層階へ行くエレベータに乗り換えます。この上層階へ行くエレベータがまたまたオシャレで、上へ行くボタンがない。
最近のエレベータは画像認識して動作させているのかなと待っていても、エレベータが来ない。手を振っても認識しません。実は上へ行くボタンがあり、あまりにもオシャレなデザインにしているので気がつかない代物でした。別の参加メンバーも同じように探しまくったそうです。
早めに出たはずがエレベータで手間取って、オシャレな会議室にたどりついた頃にはスタート時間が過ぎていました(笑)。
終わってからは庶民的な「かっぽうぎ」で宴会。17~19時に60分飲み放題500円というのをやっていました。ただし一人2品頼まないといけないという縛りがあります。