おやぢの会 忘年会

つるとんたん

20年ほど続いている【おやぢの会】の忘年会。

オブザーバー参加のはずだったのが、知らない間に正会員になっています。忘年会の場所は「つるとんたん北新地店」で、うどんすきがおいしかったですねえ。忘年会が終わって店を出ると、入口に長蛇の行列ができていました。そんな有名店でしたっけ?御堂筋イルミネーションを見ながら帰りました。

忘年会の前は東梅田駅近くの清風堂書店へ。小さな新刊書店なんですが、品揃えが独特で面白い本に出あえます。京都にあった三月書房を彷彿とさせる書店ですね。続いて大阪駅第3ビルへ。昔は5軒ほど古書店が集まっていたんですが昨日は永井古書店だけしか開いていませんでした。

適塾

適塾

淀屋橋近くにある適塾へ。

司馬遼太郎の「花神」(大村益次郎の物語)を読んで訪れて以来なのでウン十年ぶり。地元の人間って、いつも行けると思うと行かないもので、通天閣もハルカスの展望台も行ったことないですね。単に高所恐怖症というだけなんですが(笑)

適塾は緒方洪庵が開いた蘭学塾で全国から福澤諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、箕作秋坪、佐野常民などが集まり、明治の礎を作る多くの若者を送り出しました。2階にはヅーフ部屋があります。この部屋にヅーフ編オランダ日本語辞典が置かれ塾生が争って使っていました。

塾生は塾頭の総括のもと成績で等級にわけられ,昇級競争は激しく切磋琢磨しながら勉強しました。争って勉強した部屋などを見学できます。階段が城なみに急になっていますね。

生駒ケーブル

生駒ケーブル

日下の直越道に行く前に、まずは生駒山をえっちらおっちら登ります。まずは縦走路に入れる生駒山麓公園を目指します。公園にはアスレチックなどいろいろありますが、生駒ケーブルの古い車両がありました。

生駒ケーブルは大正7年に開業し宝山寺への参詣に活躍します。生駒ケーブルは生駒山上遊園地まで続いています。生駒山上遊園地から大阪平野と奈良が見渡せますので戦中は飛行塔が防空監視所として使われました。そのため生駒ケーブルは金属類回収で廃線になる鉄道が多い中、存続しました。

現在も動いているケーブルとして生駒ケーブルが最も古くなりました。なかなか味わいがある車両でした。

五瀬命負傷碑

五瀬命負傷碑

日下の直越道の尾根道沿いに五瀬命負傷碑があります。最初、気づかずに通り過ぎてしまいました。五瀬命は神武天皇のお兄さんで交戦中に長髄彦の放った矢に当たってしまいました。五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と助言します。って、大坂から大和へ攻め込む前に分かってたでしょうに、よう分かりません。

神武天皇は草香津(くさつ)まで退き、盾をたてて雄叫びしました。草香津は盾津と呼ばれるようになります。草香津から船出して紀州へ向かいます。ところが五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男之水門で亡くなりました。和歌山市の竈山神社に墓があります。神武天皇は紀州をまわって熊野から八咫烏を道案内に大和へ攻め込みます。

日下の直越(ただごえ)道

神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑

「直越の この道にてし 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも」と万葉集にも出てくる古道です。神武天皇が生駒山から大和へ入る時に使った道と言われ、どの道だったかは諸説あります。

一番可能性が高い神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑がある尾根道を目指すことにします。生駒山の峰の一つ饒速日山伝承地(ニギハヤヒが天降ったとされる峰)を過ぎ生駒縦走路を「こぶし谷」へ向かいますが、途中に山道を発見。ウーン、日下の直越ポイ道だと分け入ります。

■日下の直越道(尾根道)

山道を進みますが、下草が多く道が見えないところが所々にありますが、途中に日下直越道(尾根道)の道標(板切れ)があり合っているこを確認。夏はまず無理な道です。

日下の直越道には谷筋道もありますが、尾根から攻撃されるので、やはり尾根道でしょう。日下の直越道をひたすら降りていくと神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑を発見。日下から少し登ったところにありました。

日下の直越道はハイキングコースとは全然、違う道なので誰も歩いていませんでした。

信太の森

信太の森

高石まで出かけたので、帰りは南海・高石駅ではなくJR北信太駅を目指します。駅の近くにあるのが信太の森です。といっても住宅街になってしまい葛葉稲荷神社の周辺だけにしか緑は残っていません。信太の森は安倍晴明「葛の葉伝説」の舞台です。京都の晴明神社には、毎日たくさんの参拝客が訪れますが、葛葉稲荷神社には誰もいません(笑)。

■信太の森
安部保名(清明の父)が信太の森で狐を助けたところ、恩返しとして狐が女性となって現れ、やがて結婚し童子丸という子供をもうけます。この童子丸がのちの安部清明です。生まれたのは阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅近くの熊野街道沿いに安倍晴明神社があり、ここが生誕地といわれています。葛葉稲荷神社よりは参拝客が多いです。

ところが童子丸が7歳のとき、妻の正体が狐であることがばれてしまいます。狐は全ては稲荷大明神の仰せと告白し「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を残して消えます。

■葛葉城
大阪ではきつねうどんを「しのだ」とも言いますが、この信太の森からきています。また、ほとんど知られていませんが葛葉稲荷神社の境内一帯に葛葉城が築かれ土塁の一部が境内に残っています。

綾井筋

綾井筋

高石の地図を見ていると綾井筋という斜めに町を横切っている不思議な道があります。名古屋には栄のテレビ塔から斜めの道があり、こちらは飯田街道なので綾井筋も街道の跡かなと思って現地に行ってみました。なんの変哲もない道で案内も何もなく、市役所前通りなどを斜めにつっきっています。

古地図を調べると現在、鴨公園になっているところに鴨池という大きな池がありました。この池のへりを通る道があり、そのまま斜めに続いて今の取石中央線につながっています。第二阪和ができた時に、この斜めの道の一部がなくなって、高石駅周辺にだけ斜めの道が残ったようです。斜めの道の後に市役所前通りなどが作られます。

1935年(昭和10年)頃の地図に、この斜めの道はなく、戦後に作られたようですね。街道沿いにあった取石池もなくなっており、同じ頃に工事が行われたようです。

綾井の清水

綾井の清水

高石商工会議所の近くに綾井の清水がありました。綾織のように美しい水が沸くことから綾井になったそうで、綾井の地名の元になります。綾井の清水は農業用水などに利用されていましたが、今も街中に水路が通っており暗渠になっていないのがいいですね。

綾井はけっこう古い地名のようで中世には綾井荘がありました。綾井荘は広い範囲に分布していたようです。明治時代は取石村大字綾井として隣の取石(とろし)に取り込まれていました。取石も古い地名で奈良時代まで左溯れます。かって取石池があり万葉集に「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」とうたわれています。聖武天皇が紀伊行幸の際には取石に頓宮がありました。渡来系氏族である取石造の居住地ともいわれています。

西国街道をゆく(山崎の合戦跡)

山崎の合戦跡

山崎宿から東を目指します。まずは山崎の合戦跡。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生し、6月13日に行われたのが山崎の合戦です。摂津から西国街道を進んできた秀吉軍と明智軍がぶつかります。天王山の戦いとも言いますが、実際に戦いの舞台になったのは山崎宿から少し東にいった小泉川になります。今は大山崎JCTがあります。

明智軍は川沿いに柵をもうけ長篠の戦いの再現を目指したという説もあります。戦いは雨が降る中、夕方にはじまったようで、最初は双方とも互角の戦いだったようです。秀吉側の池田恒興らが小泉川を渡り、明智軍の側面から攻撃したため浮足立った明智軍の雑兵が逃げ出し総崩れになります。

中家住宅

中家住宅

大阪府よろず支援拠点のお仕事で一昨日は泉佐野納税協会で「DX化支援のための補助金」のセミナー、昨日は熊取交流センター「すまいるズ煉瓦館」で「IT/IoT・DX推進入門セミナー」というタイトルのセミナーをしてきました。すまいるズ煉瓦館は昭和初期の綿布工場を保存再生した建物で煉瓦塀などがよ風情あります。隣に中家住宅がありセミナー前にのぞいてきました。後白河法皇が熊野行幸の時に行宮とした旧家です。江戸時代の建物が残っていますが、中家はもともと源平の頃からの武士で往時は堀などもあったそうです。

日根野、熊取ともに関空のすぐ手前にあります。南海は難波から空港直通の急行が出ていますが、JRは天王寺から8両編成の急行が出ていて日根野で切り離し、前4両が空港行きで後ろ4両が和歌山行きになります。電車に乗るとインバウンド客であふれていますが、後ろ4両がねらい目です。途中アナウンスで「このまま乗っていると和歌山へ行ってしまう」と、停車駅でスーツケースを引きづり前の車両への移動が始まり車内がすきます(笑)。切り離しに時間がかかるので日根野駅で十分なんですが、そうは思わないでしょうね。