西国街道をゆく(牧落)

牧落

西国街道を西に行くと阪急・箕面線の牧落(まきおち)駅近くに出ます。牧落駅は箕面商工会議所へ行く最寄り駅なんですが、まあまあ距離があり昔、夜のセミナーで行った時に真っ暗な住宅街を通っていかなければならず、ほんまに着くんかいなと思った記憶があります。

近くに西国街道があり、牧落の集落がありました。箕面大阪道と西国街道が交わるところに高札場があり道標がありました。昔は交通の要衝でしたが、今は単なる四つ辻です。お婆さんが「今日も暑いですなあ」と言いながら通り過ぎていきました。古代は牧草地だったようで摂津国・豊島(てしま)牧でした。各地から貢上された牛馬を一時的保管するための牧だったようです。

西国街道をゆく(萱野三平)

萱野三平宅

箕面萱野駅は萱野にあります。そうです!萱野といえば萱野三平です!

まもなく忠臣蔵シーズンですが萱野三平は浅野長矩に中小姓として仕え、浅野長矩が松之大廊下で吉良義央に刃傷におよんだ時に早駕籠で江戸から事件の第一報を赤穂へ伝えました。萱野三平は討入メンバーに加わりましたが父親から別の家へ士官せよろ言われ、父への孝行との間で板ばさみとなり自刃します。28歳でした。仮名手本忠臣蔵のお軽/勘平のモデルになっています。

西国街道を西に向かうと萱野三平の屋敷跡があります。屋敷跡と長屋門があり自刃した部屋も公開されています。

西国街道をゆく(箕面萱野駅)

箕面萱野駅

楠水龍王から西に西国街道を歩くと箕面萱野駅の高架下に着きます。地下鉄御堂筋線が江坂から北大阪急行になり、以前は千里中央駅が終点でしたが2024年3月に箕面萱野駅まで延伸されました。真新しい駅で北改札口からは、みのおキューズモールと直結しています。なかなかでかい施設ですがキューズモール自体は2003年に開業しているそうです。無印良品やMont bellなど、おシャレなお店が並んでいて、縁なき衆生であります。

以前は千里中央駅が始発だったので、のんびり本町駅まで座っていけましたが延伸されたため、もうムリですねえ。

枚岡神社 秋郷祭り2024

太鼓台

枚岡神社、秋郷祭りは毎年、14日・15日の日程固定でしたが大阪で働いている人も多くなり、土日でないと担ぎ手を確保できないことから宮入は土日開催になりました。ただし本祭りは14日に行われます。地元の会社は基本、休みです。学校は一応、やってますけど「先生、太鼓台かつぐんで休みね」と先生も黙認しています。

10月に入ると太鼓台の練習で町中に太鼓の音が流れるのも風物詩ですね。

一の鳥居から坂を登り、近鉄奈良線の踏切前でいったんストップ。近鉄電車の合間を通って枚岡駅の横の踏切越えをしていきます。踏切を超えたところから最後の急坂がまっています。

西国街道をゆく(楠水龍王)

楠水龍王

西国街道で坂を登っていくと春日神社御旅所があります。須賀神社がありましたが、御旅所なので春日神社の祭礼で神輿を迎える場所です。御旅所のすぐ前に楠水龍王があります。

桜井の駅で楠木正行と別れた楠木正成は九州から攻め上ってくる足利尊氏に対抗するために湊川(兵庫)へ向かいます。西国街道で西に向かう途中、小庵で冷たい井戸水を楠木正成が賞味したことから、この井戸は楠公の井戸と呼ばれるようになり、旅人たちが必ず立ち寄り、愛飲したと伝えられています。

西国街道をゆく(郡山宿)

郡山宿

郡山城まで歩いた道を戻って西国街道に合流。少し歩くと郡山宿がありました。京都から西宮までに山崎、芥川、郡山、瀬川・半町、昆陽、西宮の6つの宿場があり、郡山宿はちょうど中間にあります。江戸時代は旅籠が29軒あったそうです。郡山宿には本陣が残っていて門のそばに椿の木があり、花を咲かせたことから、「椿の本陣」とも呼ばれていました。

浅野内匠頭が、元禄10~14年(1697~1701)まで毎年宿泊した記録が残っています。本陣経営は大変で、固定料金ではなく、大名から支払われる謝礼が収入になるため、貧乏な藩は、けちることになります。また椿の本陣を参勤交代で利用した回数は、1年あたり平均22.7日で、月2日にも満たない低い稼働率でした。江戸時代後半には本陣をやめるところも出てきます。。

もっとも参勤交代をアテンドする藩士も大変で、長雨などで足止めになり旅程が狂うと本陣予約などをやり直さなければなりません。連絡はスマホなどないので、もちろん藩士の足です。また江戸に入る前に行列を立派に見せるために口入屋に依頼してアルバイトを集めました。

西国街道をゆく(白井河原合戦跡)

白井河原合戦跡

西国街道と亀岡街道が交わる中河原の近くを茨木川が流れています。この一帯で行われたのが白井河原合戦です。街道でないと軍などの物流が動きませんので、必然的に街道沿いで合戦が行われます。白井河原合戦が行われたのは元亀2年(1571年)で、織田信長が比叡山焼き討ちをした年です。

信長の周りが敵だらけで一番しんどかった時です。摂津では池田氏家臣だった荒木村重が三好三人衆方に寝返り、中川清秀を誘って当主である池田勝正を追放しました。義昭が将軍になる前に甲賀にかくまっていた和田惟政が摂津守護になっていましたが、この和田と荒木・中川連合が対立します。三好三人衆と結ぶ荒木村重・中川清秀らの軍が、義昭方の茨木重朝・和田惟政軍を破った戦いが白井河原合戦です。これで摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失うことになります。

西国街道をゆく(中河原)

中河原

西国街道を西に向かうと中河原といく交差点に出ます。亀岡街道と西国街道が交差する交通の要衝でした。今はなんてことのない交差点ですが、当時は賑わっていたんでしょうね。

中河原には中川清秀由緒地という碑があり、戦国大名である中川清秀が生まれた近辺のようです。摂津には和田氏、茨木氏、伊丹氏、池田氏がいましたが衰退や没落してしまい、荒木村重、高山右近とともに中川清秀が台頭します。中川清秀は茨木城の城主になりますが、有岡城の戦いでは荒木村重側にたち茨木城を攻められ降参します。そのあとは丹羽長秀や池田恒興の配下として転戦します。

本能寺の変後では秀吉側につき山崎の合戦で高山右近とともに先鋒をつとめました。賤ヶ岳の合戦で大岩山砦を守備していたところ佐久間盛政が余呉湖を迂回し中入りして攻撃してきたため応戦しましたが討ち死にしました。砦跡に墓が建っています。

西国街道をゆく(太田茶臼山古墳)

太田茶臼山古墳

今城塚古墳から西国街道を西に進んでいくと宮内庁が継体天皇陵と比定している太田茶臼山古墳に着きます。ここも街道のすぐ横でランドマークになっていたんですね。出土した埴輪から継体天皇の時代より前で、被葬者はわかっていませんが応神天皇の孫である意富富杼王(おおほどのおおきみ 継体天皇の曽祖父)という説があります。ここは天皇陵として宮内庁が管理しているので中に入れません。

古市に誉田御廟山古墳(応神天皇陵)があり、太田茶臼山古墳より大きいのですが、形がまったく一緒で同じ設計図から作られています。意富富杼は越前や近江の息長氏、坂田氏などの祖となります。息長氏は近江国坂田郡が本拠地で、有名なのが神功皇后(おきながたらしひめのみこと)。継体天皇はこの息長氏系で、応神天皇の5世の孫です。今でも5代前といわれると分からない家が多いでしょう。ですので皇統の交代があったという説もありますが、少なくとも継体天皇の時代から現在まで皇統が続いています。

任那割譲問題など外交上の諸問題が起きていた時期で、越前、近江といった物流を抑え、力があった継体天皇をピンチヒッターで担ぎ出したんでしょう。

西国街道をゆく(今城塚古墳)

今城塚古墳

嶋上郡家を過ぎて西国街道を歩いていく今城塚古墳のすぐ横に出ます。古墳に行くには摂津富田駅からかなり歩く必要がありますが、当時はメイン街道の横にあり、よく見えるランドマークだったのでしょう。今城塚古墳は継体天皇陵というのが定説で、宮内庁が別の古墳を継体天皇陵にしているので古墳に登るのも自由です。つまり会いに行ける天皇陵です。

古墳には崩れた土塁や堀のようなところがあり、1568年(永禄11年)に織田信長が三好家を攻める際に城砦として改変したと考えられ、今城という名前になっています。発掘調査によると秀吉が建設中の伏見城が倒壊した伏見大地震による地滑りだったようです。ただ火縄銃の弾丸も見つかっており城砦として使われたのも確かなようです。