新入社員で入社したのがSRAというソフトウエアハウス。堂島グランドビルにありました。
堂島グランドビルは梅田地下街でつながっていて阪急梅田駅から濡れずに通勤できるのがよかったですね。1階にはオーム社という本屋があり、「bit」や「UNIXマガジン」など理工系書籍が充実しており重宝しました。同じく1階にあったのが第一勧銀で今も「みずほ銀行」があります。
先日、行ってみたら地下街から堂島グランドビルの地下へ行く道がなくなっていました。当時は隣に毎日大阪会館があり、地下には大毎地下劇場という映画館があって、この横を通って地下街に出られましたがホテルなどに変わってしまい閉ざされたようです。
カテゴリー: 大阪の話題
重願寺(大坂三十三所巡り)
新設されるJR総持寺駅について先日、記載しましたが、駅名の元となる総持寺は西国三十三所第二十二番札所です。西国三十三所巡りは岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、和歌山に点在する三十三か所の観音信仰の霊場を回るもので、かなり大変!ちなみに観世音菩薩が衆生を救うとき三十三の姿に変化するところから三十三所巡りとなっています。
■大坂三十三ヶ所巡りというショートカットがあった!
時たま散歩で蓮の写真を撮っている重願寺入口に「西国三十三所観世音十七番札所」という碑が建っていました。東大阪にもあるんだと調べたら西国三十三所巡りではなく大坂三十三ヶ所巡りでした(笑)。
なんでも江戸時代に29ヶ所の寺院と4ヶ所の神社をめぐると、西国三十三ヶ所を遍路したのと同じご利益があるとして大流行したそうです。西国三十三所巡りは大変なので、つまりショートカットですなあ(笑)。
井原威西鶴の曾根崎心中にも大坂三十三ヶ所巡りが出てくるそうで、「十七番に重願寺、これからいくつ生玉の本誓寺ぞと伏し拝む。」と記載されています。大坂三十三ヶ所巡りは戦争などで廃れていましたが、復興運動が起きているようです。大坂七墓巡りなど、いろいろな巡礼が復興していますね。
おやぢの会
梅田ダンジョン
昔、プログラマをやっていた頃、上新庄に住んでいました。阪急梅田駅から地下街を20分ほど歩き、堂島にあった会社まで通っていました。駅から一度も地下街から出ないので雨に濡れずにすみます。
梅田地下街は地下1階、2階と二層構造になっているところもあり、なぜか川が流れ、おまけにビルをどんどん地下街に飲み込んでいますので、初めての人にとっては、まさに迷路。実際、私より先に会社を出た同僚が梅田地下街で迷っているところを見つけたことがあります。最近は梅田ダンジョンや梅田地下帝国とも呼ばれています。梅田地下街を自在に歩けるようになったら、一人前の大阪人。迷ったら、とにかく地上へ出るのが鉄則です。
地下街の東端は泉の広場、北端は阪急三番街、西端は毎日新聞社、南端はサントリービルになっています。阪急梅田駅、阪神梅田駅、JR大阪駅・北新地駅、地下鉄梅田駅・東梅田駅・西梅田駅が全部、地下街でつながっているという他の地域ではなかなか見ない規模の地下街ですね。写真は南端近くにあった古河大阪ビル。会社の分室があり最後の数十メートルだけ雨に濡れました。
どんどん増殖して迷路化しているので、1980年頃に堀晃が「梅田地下オデッセイ」というSF小説を書いていました。人々がコンピュータの誤動作かなにかで梅田地下街に突然閉じこめられる、ちょっと怖いお話。当時、”あの地下街ならありうるな”と妙に納得した覚えがあります。
堺東駅
南海電車の急行などに乗ると難波の次に止まるのが星野リゾート・ホテルで話題の新今宮駅。次が天下茶屋駅で天下茶屋を出たところで南海本線(和歌山へ)と南海高野線(高野山へ)に分かれます。南海高野線を天下茶屋駅から10分ほど走って着くのが堺東駅です。
堺は大坂の陣では最初は豊臣方、冬の陣前には徳川方に味方しました。夏の陣となり徳川方である和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃した大野治胤(大野治長の弟)は徳川方に味方した堺を焼き、焦土にしてしまいます。真田信繁率いる真田軍が家康本陣に突っ込む時、徳川方を動揺させるため「浅野殿が裏切られた」と叫んだ浅野殿とは浅野長晟のことです。
大坂の陣が終わり、復興事業がはじまります。元和の町割が行われ大小路は東西方向(横筋)の基幹道路として整備され、堺の市街地の東端にある土居川には大小路橋がかけられます。現在、川は埋め立てられましたが大小路という地名は残っています。ここが竹内街道や西高野街道と接続する堺の東玄関となります。堺東駅はもともと大小路駅という名前でしたが、すぐ堺東駅となりました。大小路駅の方が由緒があってよかったのに!
方違神社
堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。
神社のある場所は三国ヶ丘といって摂津、河内、和泉の境でした。ですので堺市の市章は、三国から市の字を三つ組み合わせた形になっています。方違神社がある三国ヶ丘は摂津国から見ると南にあり、和泉国から見ると北にあります。これで南北が相殺できます。東西も相殺できるので、ここは方角がない土地となります。
陰陽道では方違え(かたちがえ)があり、方位が悪いと前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発することで凶方を避けました。方違神社なら一か所で三国を旅したことになり、おのずと方違えしたことになります。ということで古くから信仰を集めていました。
方違神社は、けっこう古い時代で応神天皇の時代に祀られたとあります。応神天皇は実在した最初の天皇ではないかと言われ、母は神功皇后です。方違神社の横には応神天皇の孫にあたる反正天皇陵があります。越前から出て新王朝を建てたのではないかといわれる継体天皇は応神天皇5世の子孫となります。
走人足止め(杭全神社)
大阪の難読地名の一つが「杭全」。さて、なんてよみますか?
正解は「くまた」。平野郷には坂上田村麻呂の孫が建てた杭全神社があり、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。神社の前には狛犬がありますが、狛犬の手にはグルグルと糸のようなものが巻かれています。
これは「走人足止め」という願掛けだそうです。走人とは家出人のことで、紐を二本用意し、一本を狛犬の足に結んで、願を掛けます。もう一本を持ち帰り、走人(家出人)が残した履物に結んでおきます。これによって走人の居場所がわかったり、家に帰ってきたりするという言い伝えがあります。これが転じてお店では客足が遠のかないように、恋人が離れないようになどの願掛けにも使われています。
赤留比売命神社(平野)
昨日は平野で仕事でしたので、帰りに赤留比売命神社に寄ってきました。
日本書紀、古事記にはアメノヒボコという不思議な神様が出てきます。天日槍、天之日矛と書かれます。
日本書紀によるとアメノヒボコは新羅の王子で日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟に任せて日本へやってきました。天皇からどこに住んでもよいと言われ諸国を遍歴し、但馬国出石に拠点を置きます。出石は古代、日本海ルートの要衝の地でした。
■アカルヒメ
古事記の話はちょっと変わっていて、アメノヒボコが手に入れた赤玉を床に置いておくと赤玉が美しい少女の姿となり、結婚しました。ところが夫婦喧嘩で、この女性が祖国に帰ると家出してしまいます。これが阿加流比売神(アカルヒメ)で、アメノヒボコは追っかけて難波に向かいます。ところが浪速の神さんが阻んでしまったので但馬国出石に留まり現地で新しい妻を迎えたとあります。
古代、たくさんの渡来人が渡ってきた話がアメノヒボコになったのでしょう。アカルヒメは大阪の比売許曽神社に祀られていますが、なぜか平野にも赤留比売命神社があります。神社の裏側は公園になっていて高台になっており、これが環濠の名残になっています。
河内寺廃寺跡
家の近くに河内寺廃寺跡があります。生駒山の麓にある近鉄線奈良線で枚岡駅を出て右にカーブして瓢箪山駅に到着しますが、ちょうどカーブの所にあります。
史跡公園として整備され7/1からオープンすると東大阪市市政だよりに載っていましたので、さっそく見に行ってきました。7世紀頃ですので聖徳太子から天智天皇の時代に作られた古代寺院です。建立したのは渡来系氏族「河内直」で、氏寺として建立されました。地元では「こんでら」と呼ばれています。
河内寺は塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、すぐ近くまで河内湖が広がっており、なかなかのランドマークだったでしょう。金堂跡、講堂跡、回廊跡の説明版がありました。塔があるところは住宅地なので発掘されていません。
石山本願寺
大阪府よろず支援拠点の帰りに通るのが大阪城です。今日も夕方になっても観光バスが15台ほどとまっていました。この大阪城の一番最初にあったのが石山本願寺です。
どこに御坊があったのかは分かっていませんが二の丸付近はほとんど盛土されていないのに対し、徳川時代の本丸は10メートル近く盛土されているのがわかっていますので二の丸付近に石山本願寺の御坊があったと見られています。
織田信長との十年戦争のあとに和睦して本願寺は和歌山へ移りますが、跡地にさっそく大坂城が造られます。これが信長時代の大坂城です。城は安土城などを造営した丹羽長秀に預けられます。また千貫矢倉があり、本能寺の変の時に織田信長の甥で光秀の娘婿だった津田信澄が光秀との関係を疑われて大坂城の千貫矢倉で殺されています。秀吉が造った大坂城はこの信長時代の大坂城を踏襲したのでしょう。信長時代の大坂城についても皆目、わかっていません。