浜屋敷(吹田)

浜屋敷
大阪府よろず支援拠点の出張相談で吹田にある銀行へ。
相談が終わってから浜屋敷へ寄ってきました。浜屋敷というのは古民家を改修して江戸末期の庄屋屋敷を復元したもので、和室などが貸室にもなっています。なかなか広く庭もあります。
浜屋敷の中に吹田の歴史について展示があったのですが、淀川と神崎川を結ぶ運河が古代に作られていました。続日本紀の785年に運河を作ったという記事があり、淀川がある摂津市の一津屋から神崎川に向かって運河を通すことで京都から西国への物流を確保したようです。現在、運河は埋もれてしまったようで、残念ですね。

茨木城

茨木城
日曜日の船場総研は会場が茨木市でしたので、行くしかないでしょう!
というわけで茨木城です。城前の案内には楠木正成が築城したとありますが、どうでしょうか。応仁の乱の頃にはあったようです。現在の茨木城は小学校や宅地になっていて小学校入口に茨木城の櫓門が復元されています。
■中川清秀
茨木城の城主で有名なのが中川清秀。高山右近、荒木村重とともに摂津衆でした。荒木村重の謀反には中川清秀は加担せず信長側につきます。本能寺の変の後は秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を破ります。その後は秀吉に従いますが賤ヶ岳の戦いで大岩山砦を守っていましたが、佐久間盛政に攻められ戦死してしまいます。
■片桐且元
もう一人有名な城主が片桐且元。大河ドラマ「真田丸」では徳川家康と大坂方の間に入って仲裁に奔走していました。小林隆が演じていました。最後は徳川方の内通者と疑いをもたれ大坂城を出て、茨木城に入ります。町内には片桐町が残っています。

心合寺山古墳

心合寺山古墳
山城ばかりではなく、たまには古墳も巡っています。
東大阪、八尾のちょうど境にあるのが心合寺山(しおんじやま)古墳。東高野街道から少し登ったところにあり、近くには大阪経済法科大学のキャンパスがあります。心合寺山古墳は全長約160メートルの前方後円墳で、いわゆる倭の五王の時代(5世紀)に作られたものです。葬られているのは河内地域の豪族ですから物部系なんでしょうね。飛鳥時代に古墳の隣に心合寺(しんごうじ)という寺ができ、これが訛って「しおんじ」という名前になったと言われています。
心合寺山古墳に登ると大阪平野が一望できます。大坂城も見えるので大坂の陣では東高野街道を通って大坂攻めに向かう徳川の陣がおかれました。古墳は発掘調査の結果、後円部から3つの棺が前方部から1つの棺が見つかっています。
造り出しと呼ばれる舞台があり、この造り出しから発見されたのが家形の埴輪。これが単なる家ではなく、水が家の中を流れるような構造になっており、水の祭が行われた建物が古代にあったようです。日本で初めて発見されたと書いてありました。伊賀に城之越遺跡という古代に水の祭が行われた場所があり、飛鳥には亀形石造物がありますので、古代から水にまつわるいろいろな祭が行われたようです。

石切参道商店街

石切参道商店街
とりあえず今日の分の仕事は終わったことにして(笑)
近くの石切神社へ散歩へ。石切さんは物部の神様で、河内は物部氏の土地でした。昨日、尾張の古代史を読んでいたら昔、尾張に物部郷があったんですね。こちらは尾張物部氏です。
和名抄には十の郷名が記されていますが秀吉の生まれ故郷である中村郷、熱田郷、桶狭間の合戦の舞台となった鳴海郷(成海郷)の3つは、そのまま地名が残っています。

石切参道商店街へ行ってきましたが普通の土日と同じ賑わいでした。鯉のぼりがかかっているぐらいですね。残念ながらイシキリンはおりませんでした。

由義宮

日経新聞・関西版の夕刊に載っていたのが由義宮の話題。
東弓削遺跡で、奈良時代後半に作られたとみられる大量の瓦が見つかり、これが由義宮跡ではないかという記事でした。場所はJR大和路線 志紀駅の近くで、遺跡は外環状線沿いにあります。ずっと昔、八尾空港に降りようとしたセスナが墜落したのも、このあたりです。
八尾の高安に1年ほど住んでいましたが、まず行ったのが八尾にある物部系神社巡り(笑)。東大阪の石切神社を筆頭に河内にはそこかしこに物部系神社があります。もちろん志紀駅近くの弓削神社にも行ってきました。
弓削と聞いて条件反射で出てくるのが弓削道鏡です。称徳天皇のそばで権力を握った僧として日本史では有名な人物で、和気清麻呂による宇佐神宮神託事件に発展します。弓削氏は志紀駅周辺を根拠地とした物部氏の一族で、物部守屋は弓削大連と名乗っていました。ここにあったのが由義宮で、称徳天皇の離宮があり寵愛していた道鏡のために建てました。日経新聞によれば道鏡はまじめなお坊さんだったようで、結局は藤原氏との権力争いに巻き込まれ、称徳天皇亡き後、左遷されてしまいます。
こんなことで「かぐや姫」の物語が生まれるんですなあ。

一番長命な大阪城天守閣

大阪城
大阪府よろず支援拠点の帰りは森ノ宮駅まで歩いています。なんてたってライトアップされた大阪城が見えるのが一番!写真は徳川時代から残った一番櫓です。
豊臣時代の大坂城は土の下に埋没していますが天守閣は1583年頃から造られはじめ、大坂夏の陣で燃えてしまいましたので、建っていたのは32年ほどです。
秀忠によって造られた徳川時代の大坂城は現代の大阪城ですが、1629年に完成し、天守閣は落雷によって1665年に焼失してしまいます。ですので天守閣が建っていたのは36年ほど。
現在の天守閣は昭和6年(1931年)に建てられて、現在まで続いていますので86年になります。つまり豊臣大坂城、徳川大坂城よりも一番長命な天守閣となります。

商売繁盛で笹もってこい!

額田戎
今日から3日間、十日戎です。
独立して15年、なんとか生活できておりますので、感謝をこめて近くの額田戎神社へ。華やかに飾り付けられ、ふだんは誰もいない神社前にベビーカステラと甘栗の屋台まで出ていました。
額田戎神社は去年の暮に社殿を建替えておりましたので、新しい社殿での初十日戎になります。十日戎のお参りは、まず正面でお参りしてから裏にまわって額田戎の場合は木の板をたたいて再度、お願いをします。今宮戎はドラになっています。新しい社殿になっても裏側の木の板はちゃんとついていました。
境内には”商売繁盛で笹もってこい”と音楽が鳴り響いています。さあ、今年もがんばろうっと!

オシャレな茶屋町

mbs
昨日は大阪府よろず支援拠点の出張相談で茶屋町にある銀行さんへ行っておりました。
茶屋町は阪急梅田駅の東北方面にあり、オシャレな一角です。もともとは、大阪から池田へ向かう池田街道筋にいくつかのお茶屋があったところから知名となりました。明治時代には9階建ての凌雲閣が建てられ、今のハルカスのように賑わいます。ミナミには眺望閣があり、”南の5階”に対して”北の9階”と呼ばれていました。
茶屋町って、昔は特になにもなかったのですが、今は梅田ロフト、茶屋町アプローズなどができ、オシャレな街に変貌しています。毎日放送(MBS)が茶屋町アプローズの横にあり、関西では月~金に午後2時から6時まで「ちちんぷいぷい」というゆるい番組をやっており、時たま見ております。
茶屋町はオシャレな街なので、何の用事もないのですが、一角にMARUZEN&ジュンク堂書店があり、7階建の大型書店で珍しい本まで置いてあるので、ここだけは行っています。帰りは阪急古書の街にも寄れますので本好きには最適ですね。紀伊國屋書店はいつも混雑しているので、最近は行っていないなあ。

家康の墓がある南宗寺(堺)

南宗寺
大河ドラマ「真田丸」、塙団右衛門、木村重成、後藤又兵衛が討死してしまいました。いよいよ最終回は家康本陣への突入です。
堺に南宗寺(なんしゅうじ)という古刹があります。信長よりも前に天下統一をはたした三好長慶が父の菩提をともらうために建立しました。三好長慶の父は三好元長で、細川晴元の重臣でした。ところが元長の力を恐れた細川晴元らが扇動した一向一揆によって殺されてしまいます。三好一族ゆかりの南宗寺は大坂夏の陣で焼失しましたが、現在地に移転して再建されます。
■家康の墓がある南宗寺
南宗寺には有名な家康の墓があります。なんでも大坂夏の陣でカゴで逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれ、堺まで落ち延びたが、カゴを開けると家康は死んでおり、遺骸を南宗寺に隠したという伝説です。後藤又兵衛は道明寺の合戦で死んでいますので、与太話にちかいのですが、ひょっとするとカゴに乗った家康の影武者が真田軍に殺された可能性があります。
本能寺の変の後、家康が伊賀を命からがら逃避行(神君伊賀越え)しますが、いろいろなルートの話が現地に残っており、敵を攪乱するために家康に見せかけるため地蔵をカゴに乗せて運んだ話が残っています。真田から逃げる時もこの手を使ったかもしれません。

黒門市場で忘年会

黒門市場
恒例のファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。今年も日本橋・黒門市場の寿司・寿恵廣です。研究会といいながら最近は研究も何もせず九度山へ行ったり、いきなり酒を飲んだりという会になっています。
黒門市場といえば大阪の台所で昔はおせちの材料やカニ、フグなどを売っていましたが、今はインバウンドですね。カニやフグも店頭で焼いて、すぐ食べられる形になっています。大トロのパックを5,000円ぐらいで売っていて、皆さん買って食べていて、なんともうらやましい。聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語で時たま日本語の会話があります。
さて13時に寿恵廣に集合。5年ほど見なかった古いメンバーも集合して、8名で宴会。ブリしゃぶかあ始まって、結局は17時まで延々と食べて飲んでおりました。おいしかった!