今年は大坂の陣から400年。今日の日経新聞の文化欄にも大坂の陣の話題が載っていました。
家から少し歩いた豊浦という所に児童公園があるのですが、東高野街道から少し登った、高台になっていて眺めがよい所です。今は無理ですが、400年前なら大坂城がよく見えていたでしょう。この公園にあったのが中村屋敷。中村家は佐々木源氏の一派で、もともとは近江にある鯰江(なまずえ)城にいました。鯰江城は「河岸段丘」を利用して築城された城でした。室町時代に豊浦村に移ったようです。
中村屋敷は冬の陣では家康が、夏の陣が秀忠が最初の本陣にしました。ここから大坂の陣がスタートしたんですね。
そういえば今日は八月一日、八朔の日です。
新しい穀物を収めて祝う行事が各地で行われ、祇園では挨拶まわりが行われます。徳川家康が江戸に正式入府したのが八朔の日です。江戸時代は神君・家康公が江戸入府した日として幕府の重要な式典の日になりました。
カテゴリー: 大阪の話題
全国の渡辺さんの故郷
天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。
渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。
大阪締め(天神祭)
大阪よろず支援拠点で窓口相談。
大阪よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますので、ちょっと歩くと中之島。中之島から少し行けば大阪天満宮です。窓口相談が終わってから天神祭を見に出かけてきました。天神祭の日に大阪にいることは珍しく久しぶりです。天満宮へ行くとちょうど宮入の最中で、大阪締め(おおさかじめ)が行われていました。
大阪締めとは大阪を中心に行われている手締めで、物事が無事に終わったことを祝い関係者が掛け声とともに打つ手拍子。
【大阪締め】
「打ちましょ」でチョンチョンと2回手を打ちます
「もひとつせ~」でチョンチョン、
最後に「祝うて三度」でチョチョンがチョンと打って締めます
大阪では天神祭以外でも証券取引所などでもこの大阪締めが行われます。大阪中小企業診断士会の交流会でも締めは必ず大阪締めです。なかなか風情があっていいですよ。
大阪活版所
マイドーム大阪のすぐ近くにあるのが大阪活版所跡の碑。
活版印刷というのは活字を組み合わせて版を作り、印刷するやり方です。銀河鉄道の夜の冒頭で主人公ジョバンニが小さな箱に活字を拾って版を作るアルバイトをしているシーンがでてきますが、あれが活版です。
コンピュータで印刷するDTP時代となり活版印刷は、すっかり見なくなりました。活版の歴史は古く、764年に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇によって印刷された百万塔陀羅尼があります。時たま古書業界に出回っており、700万円ほどで買うことができます。ほぼ正倉院の時代のものですので安いものでしょう。(笑)
その後は木を削った木版印刷が主となりました。ところが天正遣欧少年使節の時にヨーロッパから活字と印刷機を持ってきて作られたキリシタン版などが登場します。イエズス会が発行した書物ですが、これは部数も少なく、天理図書館や上智大学などにあります。徳川家康も活版印刷をしており、これが駿河版。美術本として有名な本阿弥光悦の嵯峨本などはありましたが江戸時代は木版印刷が主流となります。
やがて明治となり活版印刷が復活します。まず長崎に新町活版所が作られますが、その後にできたのが大阪活版所。明治3年に五代友厚の懇望をうけ本木昌造が作りました。マイドーム大阪のすぐ近くにある地から大阪の近代印刷がスタートします。
天野屋利兵衛は男でござる
マイドーム大阪の裏口が東横堀川となりますが、この一角に「義侠 天野屋利兵衛之碑」があります。
天野屋利兵衛って、あの忠臣蔵の天野屋利兵衛!!
忠臣蔵十段目に登場する堺の商人が天野屋利兵衛(忠臣蔵では天河屋義平)。吉良邸への討ち入り用と判っていながら、赤穂浪士に武器を援助する商人として登場。役人(実は天野屋利兵衛の真意を疑う赤穂浪士が変装した姿)の取り調べを受けますが、決して口を割りません。武具が入っている長持の上に座り、有名なせりふをはきます。それが、「天野屋利兵衛は男でござる」。
天野屋利兵衛は実在した人物で、熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷に出入りしていたと伝わっています。屋敷が東横堀川に架かる大手橋(本町橋から北に2つ目の橋で、マイドーム大阪のすぐ近く)のたもとにあったと伝承されています。それで碑が建っているんですね。
天野屋利兵衛は忠臣蔵で有名ですが、赤穂浪士とは関係がなかったというのが定説です。ところが赤穂浪士の一人である大高源吾が墓のある薬王寺に共に葬られていますので、なにかあったのかなあ。竹本座のパトロンでもあったので、自分が登場するように画策したとの説もあります。
そういえば幕末、高杉晋作を助けた政商として白石正一郎の名前がよく上がりますが実際はそれほどでもなく、入江和作が幕末の志士たちを援助し、高杉晋作の住居の世話や「おうの」
の面倒もみていましたが、あまり世間に広まっていません。
本町の曲がり
大阪府よろず支援拠点のすぐ西側を東横堀川が流れています。
もともとは豊臣秀吉が大坂城の西惣構堀として掘った堀川。ちょうど上町台地が終わるところで、防御上のメリットもありました。この東横堀側が大坂城の西の境界にあたり、大坂冬の陣では徳川側の蜂須賀と豊臣側の塙団右衛門が激突した激戦地となります。東横堀川が本町橋を過ぎたところで曲がっていて、上を通っている阪神高速も曲がっています。
てっきり横矢をかけるために堀を曲げたのかなと思ったのですが、どうも当時あった浄国寺という寺を避けるために曲げたようです。ここが「本町の曲がり」とよばれるようになり、江戸時代は誰もが知っている自殺の名所で、恐ろしい化け物が行き交う場所だったそうです。曲げたことで水流が岸にあたり、渦となるので水難事故も多かったことが原因だったかもしれません。
上方落語「まんじゅうこわい」では、暇な連中が集まって嫌いなもの、怖いものを言っていき、なかの一人が「俺はまんじゅうが怖い」と言い出すことから話が展開していくんですが、冒頭で皆が怖いことを言っていくシーンで、この「本町の曲がり」が出てきます。
「南農人町(のうにんまち)から本町の曲がりへかけて、そりゃ夜は人も通らん寂しいとこやった」と幽霊の話になっていきます。ビジネス街だし、この辺りはあまり店もないので、今も夜になると寂しい通りなんですが、江戸時代は心霊スポットだったんですねえ。
梅田 蔦谷書店
先日、JR大阪駅に新しくできた蔦谷書店・梅田をのぞいてきました。
場所はJR大阪三越伊勢丹百貨店が撤退した後にできたルクアイーレの9階。円形の本棚やソファー、スターバックスなどがあり珈琲を飲みながら本を読むこともできます。なかなか雰囲気がよいお店で、本は面陳列が多く、オヤと思う本と出会えます。
「ワークスタイル」、「ライフスタイル」といったテーマに沿った本を並べており、目的買い向けの本屋ではなく、こんな本もあるんだと新しい本との出会いがある本屋です。京都にある三月書房を大規模にして今風にしたような本屋。
ですので本を探すのはけっこう大変で、まさか大阪本コーナー前に城の本があるとは思いませんでした。普通の本屋は棚下にストックがあってなくなると補充されるのですが、そんなストックは少なく、売れたら補充ができない本屋なんですかねえ。珈琲など喫茶コーナーには行列ができていましたが、本のレジは混雑していなく、本屋としての売れ行きは若干、気にな
ります。
蔦谷書店といえば、大昔、京阪電車に乗っていると寝屋川市駅前に蔦谷書店という看板がかかっている書店を見つけ、蔦谷!えっ、蔦屋重三郎のあの蔦谷!
すごい名前をつけた本屋だと思い行ったことがありますが、行ったらふつうの新刊書店でした(笑)その後、あれよあれよという間に、全国にTSUTAYAが出来てしまいました。
蔦屋といえば、江戸時代に山東京らの洒落本、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの浮世絵を出版していた蔦屋重三郎の屋号。斬新な企画でヒットを飛ばしましたが、寛政の改革による取締りから没落、やがて亡くなり1代だけの書店でしたが、蔦谷という名前は出版業界に大きな足跡を残しました。
新しいコンセプトの蔦谷書店は少し江戸時代の蔦谷に近づいたようです。
土壇場を切り抜ける
土壇場を切り抜けよう、というような使われ方をする土壇場。どうにもならない場面、最後の決断を迫られる重大な局面などで使われる言葉です。土壇とは土も盛って作った壇。刑場で斬首する時に使われたのがこの土壇。まさに土壇場で、これが語源になっています・
大阪府よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますが、マイドーム大阪があった場所は江戸時代、西町奉行所でした。マイドーム大阪の前が松屋町筋ですが道路を渡ったところにあるのが大江小学校。ここに牢があり刑場もありました。斬首刑はこの刑場の土壇場で行われていたようです。今はビジネス街&マンション街になっています。
そういえば中国からの買い物客であふれている千日前にも刑場がありました。市中引き回しの刑となると大江小学校にあった牢から出されて、本町橋を渡って西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい千日前の刑場まで連行されたそうです。
河内湖
よく家から枚岡神社-枚岡公園-石切商店街-石切神社-額田戎神社と巡っています。中臣の神さんと物部の神さんを巡る、1時間の散歩コースとなります。
この散歩コースは生駒山の麓を巡るので大阪平野を一望できます。大阪平野を見ると考えてのは、神武天皇の東征時代は河内湖で、水の底だったこと。一部、上町台地だけは水から出ており、台地の上に難波京や四天王寺ができました。住吉大社も境内の前まで海でした。
河内湖の水を抜くために造られた排水路が「難波の堀江」。仁徳天皇が工事を行い、難波の堀江が現在の大川と言われています。これで大阪平野は湿地帯になりましたが、さらに水の流入をとめるため大和川の付替に和気清麻呂が挑みますが、失敗。近鉄・南大阪線に河堀口駅(こぼれぐちえき)がありますが、ここが掘り始めた場所と言われています。
また大坂の陣で家康が本陣を置いた茶臼山古墳(天王寺公園の中にあります)の河底池は和気清麻呂の工事跡と言われています。
河内寺廃寺跡
今日、届いた東大阪市政だよりに河内寺廃寺跡の史跡公園整備をスタートするという記事が掲載されていました。
近鉄で難波から奈良へ向かう時、瓢箪山駅を超えると生駒山に沿って左にカーブし、山裾を登りはじめます。この左にカーブをする時、西側(生駒山の反対側)、住宅地の間に空地が見えます。ここが河内寺廃寺跡。もっとも看板も案内も何もないので地元の人でも、ほとんど知りません。
飛鳥時代後期に造られた古代寺院で、四天王寺形式(塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形)でした。造ったのは百済の渡来人の末裔だった河内直(かわちのあたい)一族。河内郡の長官でした。すぐ近くを東高野街道が通る交通の要衝でしたし、少し高台でしたので古代は眺めがよかったでしょうね。
河内寺廃寺は国の史跡指定を受けたこともあり、史跡公園として整備されることが決まりました。一般公開は2017年になる予定です。