高屋神社

東高野街道をゆく

水盛城跡から東高野街道を北上すると高屋という地域に出ます。街道沿いにあるのが高屋神社で式内社(延喜式神名帳に名前が出ており古くからある神社)です。祭神は安閑天皇で安閑天皇陵がすぐ近くにあります。もう一人の祭神が饒速日命(にぎはやひのみこと)で、物部氏の祖神ですねえ。あとから安閑天皇を祭るようになったのでしょう。

高屋は物部氏の系譜である高屋連の本貫地になっています。河内国は物部氏の本拠でしたので、饒速日命を祭る神社が点在しています。面白いことに東高野街道が石川沿いを流れていて蘇我氏の一族である石川氏の本貫でもあります。乙巳の変の後、蘇我倉山田石川麻呂が台頭しましたが、中大兄皇子に攻められて山田寺で自害しました。

高屋神社は明治になってから白鳥神社に合祀されました。朝の連続テレビ小説「らんまん」でも問題になっていた合祀です。昭和になってから旧社地に復興されました。

空白の4世紀(西山古墳)

船場総研の待ち合わせ時間が午後でしたので少し早い目に天理へ。まずは天理ラーメンです(笑)。彩華ラーメンと天理スタミナラーメンの2つがあるのですが、商店街にあった天スタを食べてきました。本当は豊田城へ登ろうと考えていたのですが、朝まで雨でしたので、さすがに山道は無理だなとあきらめ、西山古墳を目指します。

天理スタミナラーメン

■空白の4世紀
西山古墳は天理高校の敷地内にある日本最大の前方後方墳です。長さは183mと100m超えになっています。変わっているのが形で1段目は確かに前方後方墳ですが、その上に前方後円墳がのるハイブリッド型になっています。なんで、こんな変わった古墳を造ったんですかねえ。石上神宮が物部氏の武器庫で天理といえば物部氏の本拠でしたので、被葬者は物部氏とみられています。

西山古墳

西山古墳が造られたのは「空白の四世紀」と言われる時代です。邪馬台国の時代から100年以上、中国の歴史書に倭が登場せず、「空白の4世紀」と言われています。先日、日本最大の円墳である富雄丸山古墳から、だ龍文盾形銅鏡と2mを超える蛇行剣が発見されましたが、こちらも「空白の4世紀」に造られました。富雄丸山古墳も100mを超えています。

枚岡祭り

枚岡祭

14日、15日は枚岡神社の秋郷祭で今年は土日にうまくあたりました。いつも見ている枚岡駅横の踏切へ近鉄電車の合間をぬって太鼓台を次々に通していきます。枚岡神社は高台にあり、東高野街道と交わる一の鳥居からずっと坂になっていて踏切前に太鼓台をあげるのがまず大変です。踏切を超えると最後の急坂が待っています。その後は枚岡神社の境内に入っていきます。

秋郷祭は14日、15日と日程固定でしたが土日の曜日固定に変わる話が出ているそうです。理由は担ぎ手不足で、地元の企業よりも大阪へ通うビジネスマンが中心になったためだそうです。ウチの子供たちは太鼓をたたくからと小学校を自主休校し、先生も黙認しておましたが時代は変わったようです。

野崎参り

野崎観音

上方落語「野崎参り」の舞台といえば野崎観音。飯森山城の麓にあります。東高野街道から急坂をあがった上にあり、山門から大阪平野を眺めることができます。野崎観音の本尊は十一面観音で、別名が居眠り観音。なんでも寝たがりの人には観音様がまとめて寝てくれるという、ご利益があるそうです。その分は働けということでしょうか、なんとパワハラな(笑)。実際は観音さんの集まりに本尊が居眠りして遅刻したそうで、そらあきまへんがな。

江戸時代、大和川の付け替え前は深野池という大きな池があり、天満橋の八軒家浜から屋形船で参詣することができました。落語の「野崎参り」は屋形船で大坂から参詣する2人と堤防を歩いて参詣する人との喧嘩を描いています。野崎参りには「振売喧嘩」という風習があったそうで、手を出さず、口だけで喧嘩するそうです。

船に乗った者と土手を歩く者で口喧嘩して、喧嘩に勝てば、その年の運がエエそうで、運定めの喧嘩だそうです。船が着いて、土手に上がったら、仲直りしもって、踊りながらどっかで酒を飲むという風習です。そう、うまくいくんですかいなあ。

大和西大寺

大和西大寺

京都や奈良へ行く時、しょっちゅう乗換しているのが大和西大寺駅。昔、近鉄が「スルッとKANSAI」に加盟する前は大和西大寺駅で途中下車できたので近鉄百貨店などに寄っていましたが、途中下車できなくなってからは乗換でしか使っていません。そうそう生駒駅や布施駅でも途中下車できました。

駅の改札を出て、駅のすぐ近くにある西大寺へ。名前の通り東大寺に対して造られたお寺です。造ったのは聖武天皇と光明皇后の一人娘だった称徳天皇です。西大寺が出来たきっかけは聖徳太子の四天王寺と同じです。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きた時に称徳天皇が対仲麻呂戦の勝利を祈願して、四天王寺の発願をしました。物部守屋との戦での四天王寺の守護を受けて物部氏を倒した故事にならいました。乱がおさまり約束通りに四天堂を建立。これが西大寺に発展していきます。

大伽藍でしたが平安時代の火災などで建物が消失。西大寺の面影を残すのは五重塔基壇だけです。

大仙古墳

三国ヶ丘駅

三国ヶ丘駅近くでお仕事。三国ヶ丘というのは、和泉、河内、摂津の国境にある丘のことを言います。まとめて呼ぶと摂河泉(せっかそん)になります。

三国ヶ丘駅はJRと南海の2つがあって便利がよい所です。駅のすぐ近くにあるのが大仙古墳です。昔は仁徳天皇陵と日本史で習いましたが、どうも履中天皇陵ではないかという説があります。古墳ですが、見ても単なる巨大な森ですねえ。まあ広大な古墳で、横をJRが平行に走っていて三国ヶ丘駅から百舌鳥(もず)駅まで一駅分あります。当時は海の近くで巨大古墳が海岸線に沿って3つありましたから、住吉津に向かう外国使節などには、すごいモニュメントに見えました。

暗峠奈良街道の終点

朱雀大路

近鉄・尼ケ辻駅の北側にある暗峠奈良街道を下っていくと阪奈道路と合流し広い道になります。そのまま東に進むとJR奈良駅を過ぎたあたりから観光客があふれる三条通りになって猿沢の池と興福寺の間を通り、春日大社の一之鳥居にぶつかります。ここが暗峠奈良街道の終点で江戸時代は南に下って、初瀬から伊勢を目指しました。

さすがに春日大社まで歩くのはしんどいので、もともとの街道の終点であった平城京の朱雀大路で終了。幅75mの朱雀大路が羅城門から朱雀門まで4kmにわたって続いていました。この朱雀大路は藤原京の下つ道と連結していました。

昔の暗峠奈良街道

近鉄・尼ケ辻駅のすぐ北側を暗越奈良街道が通っています。Googleマップではまっすぐな道が暗越奈良街道と表示されていますが、これは現在の国道308号線を、そのまま街道としたためでしょう。大正元年の奈良広域図では垂仁天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。

昔の暗峠奈良街道

垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)ですので、古墳を周遊する道が古代の暗越奈良街道で明治頃に今の国道308号線のまっすぐな道が造られたのでしょう。写真の道標から左の道を行くと昔の暗越奈良街道で、まっすぐな道が現在の国道308号線(暗越奈良街道)です。

暗越奈良街道(垂仁天皇陵)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

■垂仁天皇陵
追分を超え酷道308号を行くと近鉄・尼ケ辻駅近くにある垂仁天皇陵に出ます。第11代が垂仁天皇で娘が倭姫命です。倭姫命は各地を行脚し、最終的に伊勢神宮へたどりつきます。漫画「アマテラス」(美内すずえ)の主人公です、そういや「ガラスの仮面」はどうなったんですかねえ。垂仁天皇は相撲発祥でも有名で野見宿禰と当麻蹴速の天覧相撲を催しました

■田道間守(たじまのもり)
垂仁天皇は和菓子発祥にもかかわっています。田道間守を常世の国に派遣し、橘を探させます。橘は菓子でしたので田道間守が菓子の祖としてまつられることになります。

■フェークニュース
垂仁天皇陵の濠に小さな島があり、田道間守の墓と言われています。ところが、江戸時代の絵図などに島は描かれておらず、明治になって灌漑用に濠を拡げる時にもともとは外堤だった一部を残したようです。外堤を実際に歩いていますと途中で途切れていて、外堤の延長上に小島があります。それで、田道間守の墓と誰かが言い出し、壮大なフェークニュースとなりました。

暗越奈良街道(追分)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

追分

矢田丘陵にある榁木峠を越えて、坂を下っていくと森の向こうから、たくさんの犬が吠える声が!!まさか熊でもいるんかいなと思ったら郡山警察犬訓練所がありました。ここはドッグスクールなどもやっているんですね。さらに坂を下っていくと追分神社という小さな神社があり、道が交差しているところに出ます。今はふつうの交差点ですが、ここが追分でした。角には村井家住宅という古い建物があり、ここが大和郡山藩主の休憩用の建物でした。追分ですので暗越奈良街道から大和郡山への街道が分かれています。

暗峠に大和郡山藩の本陣が置かれたこともあり、暗峠に今も残る石畳は大和郡山藩が敷きました。大和郡山藩といえば柳沢氏ですね。元禄時代、将軍綱吉を補佐したのが柳沢吉保です。赤穂事件の時の当事者でもあり、よく時代劇に登場します。ちなみに駒込にある六義園はこの柳沢吉保が作りました。柳沢吉保の長男が甲府から大和郡山に転封となり、柳沢家が藩主となります。大和郡山の柳沢家は明治にまで続きます。