遣隋使と遣唐使

■日本書紀に記載されていない最初の遣隋使
最初の遣隋使派遣は600年で、無礼な国書を送ったと隋に評価されたため隋書には記録されていますが、日本書紀ではないこといなっています。(笑)これではまずいと冠位十二階、十七条憲法の制定など政治改革を行い、外交使節が迎えられる小墾田宮を造ります。

607年、小野妹子が有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書をもって隋を訪問します。煬帝はおこりますが、ちょうど隋は高句麗と争っており日本を味方につけておかなければなりません。そこで隋は倭を「化外慕礼」の国として国交を開きました。「化外慕礼」の国とは中国の支配外だが中国の文化や商品を求めてやってくる国という意味です。

■揉み消した小野妹子
答礼として煬帝の勅使として裴世清が派遣され、小野妹子も一緒に戻りますが、煬帝から預かった返書を百済で盗まれてなくなってしまいました。まずいことが書いてあったので揉み消したのでしょう。

■Wスタンダードだった遣唐使
隋は長く続かず唐となったため、今度は遣唐使が派遣されます。隋と同様に遣唐使は中国に対する朝貢外交でしたが国内向けには対等外交ということにしていました。ですので唐から使節を派遣したいという話は必死で断っていました。つまりダブルスタンダード外交を展開していました。

陣屋

陣屋

伊賀上野でお仕事だったのでランチに陣屋へ行ってきました。場所は伊賀の商店街を通る街道を東に向かい菅原神社(上野天満宮)を超えて、農人町から車坂に入り坂を下ったところにあります。そのまま、まっすぐ東へ行くと鍵屋の辻の敵討ちで有名な荒木又右衛門の出身地です。

陣屋は典型的な町の食堂ですが、店内にジャズが流れています。亡くなった先代がジャズ好きで、店内の一角にずらっとレコードが並んでいます。ジャズをBGMに定食を食べる不思議なお店です。いつも日替わり定食を食べていますが、750円になっていました。頼む時に「ご飯は半分」でと言っておかないと、てんこ盛りのご飯が出てきます。ご飯、漬物、一品、お味噌汁、メインがセットになった定食で、とってもコスパがよいお店で伊賀上野では有名ですね。

丹波市駅

丹波市駅

奈良の古地図を見ていると丹波市駅を発見。まだ関西鉄道の頃ですね、現在の天理駅になります。大阪から丹波市駅へ行くには奈良駅経由となり時間がかかり、金額も高くなります。不便な点は今も同じですね。そこで途中の法隆寺駅で降りて徒歩で天理に向かう参拝客もいました。これは商売になると1915年(大正4年)に法隆寺駅から丹波市駅を結ぶ天理軽便鉄道が作られます。法隆寺駅から平端駅までがなくなり平端駅から天理駅までが現在の近鉄・天理線となります。

東の端には物部氏の武器庫だった石上神宮が見えています。昭和29年に市町村合併で天理市が誕生し、市名に宗教団体の名称が使われている唯一の市となります。

しじみ川

しじみ川
  • 北新地に「しじみ川旧跡」という碑が建っているので、関西人なら昔、北新地に川が流れていたことを、よくご存じでしょう。大阪の古い地図をみると堂島川から分かれ北新地を流れていた「しじみ(蜆)川」が記載されていました。
  • 「しじみ川」の北には大坂停車場があります。曽根崎も村だったんですね。川が流れていたので現在も桜橋などの地名が残っています。当時は水運が基本でしたので大坂停車場の前まで蜆川から梅田入堀が開削されました。梅田入堀は堂島川までつながっていて「しじみ川」と交差していました。ここが、出入橋です。「しじみ川」は1909年(明治42年)の北の大火後、瓦礫の捨て場となって一部が埋立てられ大正時代には完全に埋立てられました。

広小路キャンパス

京都の少し前の地図を見ていたら立命館大学・広小路キャンパスが載っていました。目の前には京都府立医大があり、御所の北側には同志社大学があります。京都は10人に一人が学生という「学生の街」で市政的に言うと税金が入らない層がたくさんいることになります。

広小路キャンパス

立命館大学・広小路キャンパスは1981年までありました。ある年齢層までには「二十歳の原点」(高野悦子)の原点ですね。赤い線は京都市電で、1977年に京都市電・河原町線がなくなり、翌年に京都市電全線がなくなります。

立命館大学・広小路キャンパスの少し北に昔、勤務していた専門学校があり、この界隈を10年ほどウロウロしていました。河原町今出川に地図専門店があったんですね。少し上がったところに善書堂という古本屋がありましたが、今は閉店しています。そうそう京都府立医大近くに荒神橋があり、伊藤蘭が出ていた「ヒポクラテスたち」(大森一樹監督)の冒頭はこの荒神橋からスタートしていました。

浮御堂

荒池

奈良の古地図を見ていると奈良ホテルの北に荒池があり、道路をはさんだ東側にも荒池が拡がっています。ちなみに奈良ホテルにあったのが鬼薗山城で、遺構は残っていません。東側の瑜伽神社裏側には西方院山城の一部が残っていて虎口や土塁を確認できます。この城は古市氏が築いたところ完成3日後に筒井氏に攻められ落城したと記録に残っています。

古地図を見ると東側の荒池の東側は畑になっていますが、今はここに鷺池があり、真ん中に浮御堂があります。檜皮葺き、六角形のお堂で、いかにも奈良という感じですが、あれって後から作ったんですね。調べると浮御堂ができたのは大正5年(1916)で奈良公園そのものは明治22年(1889)に整備されました。

大和西大寺駅

大和西大寺

近鉄の大和西大寺駅。難波と奈良を結ぶ奈良線と京都と橿原神宮を結ぶ橿原線が平面交差する鉄道ファンにはおなじみの駅です。

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図を見ると駅は影も形もありません。近鉄の前身である大阪電気軌道が上本町と奈良の間に鉄道を通し、西大寺駅を開業するのは1914年(大正3年)です。地図が作られた頃は用地買収や線路の敷設をしていた頃でしょう。次に橿原神宮前までの畝傍線ができ、昭和になってから京都からの線と結ばれ、現在の橿原線となりました。

大和西大寺駅には路線の平面交差だけではなく、車庫まであるので線路を切り替えるポイントが41もある複雑怪奇な駅になっています。橿原線に乗ると西大寺駅のホームに入るまで握り棒などをしっかり持っていないと、数多くのポイントを渡っていく列車に体が翻弄されます。西大寺の北側には伎芸天で有名な秋篠寺があります。西大寺を出ると神功皇后陵の東側の山を通って京都へ向かいます。

暗越奈良街道

暗越奈良街道

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図で尼辻あたりを見ると暗越奈良街道が記載されています。難波から生駒山地の暗峠を越えて平城京に至る街道で、尼辻を過ぎて坂を下れば朱雀門はすぐ先です。

■垂仁天皇陵
尼辻の西側に近鉄橿原線からよく見える垂仁天皇陵がありますが、地図を見ると天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。Googleマップでは上側のまっすぐな道が暗越奈良街道になっていて、どっちが正しいのでしょう。

さらに西に向かうと途中で2つの道は合流しています。垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)に造られていますので古墳を周遊する道が本来の暗越奈良街道である可能性が大です。

■倍塚はフェークニュース
垂仁天皇陵といえば湖の中に田道間守の倍塚があることで有名です。田道間守は垂任天皇の命令で常世の国へ行き、10年かかって「非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」を探し出してきました。ところが既に天皇は亡くなっており、田道間守も自殺し、この倍塚に葬られます。ところが元禄年間の山稜図にこの倍塚は出てこず、幕末の尊王思想が高まった時に古墳を取り巻く堤の一部を、それらしく島に改変した説が有力です。オイオイ!

ちなみに垂仁天皇の娘が倭姫命で伊勢神宮を今の場所に定めた人物です。また甥の日本武尊に草薙剣を与えています。

高畑勲展

三重県総合文化センターで高畑勲展があり、のぞいてきました。

なんで三重でと思ったら、高畑監督は伊勢市出身なんですね。小さい頃は津でも過ごしたそうです。8歳の時に岡山に転居した関係で、2020年には岡山県立美術館でも高畑勲展が開かれています。

展示では懐かしい「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「アルプスの少女ハイジ」などの絵コンテなど、たくさんの資料が展示されています。個人的には「セロ弾きのゴーシュ」と「平成狸合戦ぽんぽこ」が味わいあって好きですね。最後は遺作となった「かぐや姫の物語」でした。9.18まで開催しています。三重県総合文化センターへは津駅西口からバスが出ていますが、基本的に1時間に2本ですね。常設展も中央構造線から伊勢の御師まで多彩な展示になっています。

司馬遼太郎 生誕100年

東大阪市政だよりの表紙が司馬遼太郎でした。

東大阪市政だより 司馬遼太郎

東大阪市の広報紙で、今年は司馬遼太郎生誕100年(大正12年生まれ)なんですね。司馬遼太郎記念館の上村洋行館長のインタビュー記事が載っていました。館長は、みどり夫人の弟で当時は小学六年生で、よく司馬遼太郎が実家に遊びにきていたそうです。

司馬遼太郎が、みどり夫人と結婚したのが1959年で下小阪に引越してきたのが1964年です。当時は布施市でした。3年後の1967年に布施・河内・枚岡の3市が合併して東大阪市となります。当時の家が現在の司馬遼太郎記念館になっています。

司馬遼太郎は東大阪市の名誉市民になっていますが、住んでいた河内小阪といえば東大阪の西のはずれで、ちょっと行ったら大阪市生野区です。東大阪商工会議所も西のはずれの河内永和にあるし、東大阪市役所も荒本という、これまた西のはずれにあって東の枚岡は無視されていますね(笑)。それだけ布施市が中心だったということでしょう。