暗越奈良街道

暗越奈良街道

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図で尼辻あたりを見ると暗越奈良街道が記載されています。難波から生駒山地の暗峠を越えて平城京に至る街道で、尼辻を過ぎて坂を下れば朱雀門はすぐ先です。

■垂仁天皇陵
尼辻の西側に近鉄橿原線からよく見える垂仁天皇陵がありますが、地図を見ると天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。Googleマップでは上側のまっすぐな道が暗越奈良街道になっていて、どっちが正しいのでしょう。

さらに西に向かうと途中で2つの道は合流しています。垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)に造られていますので古墳を周遊する道が本来の暗越奈良街道である可能性が大です。

■倍塚はフェークニュース
垂仁天皇陵といえば湖の中に田道間守の倍塚があることで有名です。田道間守は垂任天皇の命令で常世の国へ行き、10年かかって「非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」を探し出してきました。ところが既に天皇は亡くなっており、田道間守も自殺し、この倍塚に葬られます。ところが元禄年間の山稜図にこの倍塚は出てこず、幕末の尊王思想が高まった時に古墳を取り巻く堤の一部を、それらしく島に改変した説が有力です。オイオイ!

ちなみに垂仁天皇の娘が倭姫命で伊勢神宮を今の場所に定めた人物です。また甥の日本武尊に草薙剣を与えています。

高畑勲展

三重県総合文化センターで高畑勲展があり、のぞいてきました。

なんで三重でと思ったら、高畑監督は伊勢市出身なんですね。小さい頃は津でも過ごしたそうです。8歳の時に岡山に転居した関係で、2020年には岡山県立美術館でも高畑勲展が開かれています。

展示では懐かしい「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「アルプスの少女ハイジ」などの絵コンテなど、たくさんの資料が展示されています。個人的には「セロ弾きのゴーシュ」と「平成狸合戦ぽんぽこ」が味わいあって好きですね。最後は遺作となった「かぐや姫の物語」でした。9.18まで開催しています。三重県総合文化センターへは津駅西口からバスが出ていますが、基本的に1時間に2本ですね。常設展も中央構造線から伊勢の御師まで多彩な展示になっています。

司馬遼太郎 生誕100年

東大阪市政だよりの表紙が司馬遼太郎でした。

東大阪市政だより 司馬遼太郎

東大阪市の広報紙で、今年は司馬遼太郎生誕100年(大正12年生まれ)なんですね。司馬遼太郎記念館の上村洋行館長のインタビュー記事が載っていました。館長は、みどり夫人の弟で当時は小学六年生で、よく司馬遼太郎が実家に遊びにきていたそうです。

司馬遼太郎が、みどり夫人と結婚したのが1959年で下小阪に引越してきたのが1964年です。当時は布施市でした。3年後の1967年に布施・河内・枚岡の3市が合併して東大阪市となります。当時の家が現在の司馬遼太郎記念館になっています。

司馬遼太郎は東大阪市の名誉市民になっていますが、住んでいた河内小阪といえば東大阪の西のはずれで、ちょっと行ったら大阪市生野区です。東大阪商工会議所も西のはずれの河内永和にあるし、東大阪市役所も荒本という、これまた西のはずれにあって東の枚岡は無視されていますね(笑)。それだけ布施市が中心だったということでしょう。

反正天皇陵

反正天皇陵

方違神社のすぐ隣にあるのが反正天皇陵(田出井山古墳)です。反正天皇は「倭の五王」のうち珍に比定され、実在した天皇と考えられています。きれいな歯並びだったそうで瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)という名前が日本書紀に記録されています。

日本書紀では仁徳天皇陵、反正天皇陵、履中天皇陵の順に墓を造ったとあり、近年の研究では上石津ミサンザイ古墳、仁徳天皇陵、田出井山古墳の順に造られたようので、それでいけば現在の仁徳天皇陵(大仙古墳)が反正天皇陵という確率が高くなります。となると方違神社の隣にあるのは履中天皇陵かも。

方違神社

堺で仕事だったので方違(ほうちがい)神社へ寄ってきました。

方違神社

昔、方違え(かたたがえ)という風習がありました。仕事先から東の方向にある自宅へ帰ろうとしたら、東の方角に方違えの対象となる神様がいると、真っ直に家へ帰ると差しさわりがあります。そこで、いったん他の方角にある知人宅などで一夜を明かして翌朝家に帰ると、東への移動を避けられます。家に帰らず、飲みに行く時の言い訳じゃないのかとも思いますが(笑)昔はけっこう信じていたようです。来年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部の物語のようですが、源氏物語の「帚木」に光源氏が方違えするシーンが出てきます。

堺にある方違神社は「どの方角にも属さない」神社で方角の厄を取り除くそうです。ですので、家の普請、転宅、旅行等には最適です。このあたりは摂津、河内、和泉の境界で、どこの国にも属さない方位の無い清地であると言われたことが発端のようです。ですので堺や三国ヶ丘の地名が今も残っています。

太子堂

太子堂

八尾での仕事の帰りに太子堂へ寄ってきました。ここは物部守屋が滅んだ地で、住宅街にポツンと大聖勝軍寺があります。

587年に丁未の乱が起きます。日本史では崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の戦いと習いましたが、実際は物部氏の勢力地には阿刀(あと)氏や鞍作氏など崇仏派もいて、しかも渋川廃寺まで作っていたので本当は王位継承をめぐる争いだったようです。ただし渋川廃寺は丁未の乱の後に建立されたという説もあります。

初戦は餌香川(えがのがわ、今の石川)と旧大和川の合流地点でした。近鉄・安堂駅の近くですね。蘇我軍が物部軍の先遣隊を破り、聖徳太子は高井田横穴墓群がある高井田から指揮していたといわれています。戦場は河内国渋川で大聖勝軍寺には守屋塚などがあり、寺の南にある光蓮寺が守屋軍の砦といわれています。ただ守屋が討たれたのは衣摺(きずり)で、もう少し北にあり光泉寺には守屋の稲城跡の碑が建っています。大聖勝軍寺とは4.5kmも離れていますので広範囲な戦場だったようです。

仏教を信仰した聖徳太子にとって物部守屋を滅ぼしたのは、かなり打撃だったようで、各地に鎮魂のためのお寺を作っています。四天王寺は元は玉造にあったそうで、一帯が物部守屋の土地で邸宅跡に作られたそうです。玉造のすぐ横の「森ノ宮」は「守屋の宮」が変わったのではという説もあります。信濃も物部氏が支配する土地で、善光寺には守屋柱があり、ここも鎮魂の寺になっています。

薩摩藩伏見屋敷

薩摩藩伏見屋敷

今は石碑しかありませんが丹波橋駅からずっと西に行ったところに薩摩藩伏見屋敷があります。寺田屋で襲われた坂本龍馬が深手をおって材木屋に隠れ、お龍が助けを呼びに行った先です。龍馬はこの薩摩藩邸に運び込まれます。傷がある程度、癒えると薩摩藩の計らいでリハビリのため、お龍と霧島(九州)へ向かいます。これが日本最初の新婚旅行になります。高千穂峰では天の逆鉾を抜こうという、迷惑行為をやっています。当時はSNSがなくて良かったですね。

NHK大河ドラマ「篤姫」ではが京の近衛家に仕えていた老女・幾島(松坂慶子)によって篤姫(宮崎あおい)が、お姫様養成のための特訓が行われた場所です。鳥羽伏見の戦いでは御香宮神社に本陣を置いたため、伏見屋敷は会津藩によって焼かれてしまいました。そうそう、龍馬は経済感覚が強く、討幕に動き出したら長崎運上所の金をおさえるよう土佐藩の佐々木高行事前に言っております。鳥羽伏見の戦いがはじまった時に亡き龍馬に従っておさえました。金がなけえば戦はできません。

八幡神社(新羅三郎)

いざ鎌倉へシリーズもいよいよ最後です。

八幡神社(新羅三郎)

祇園山見晴台から下ると八幡神社の境内に着きました。案内を見ると新羅三郎が勧請した神社と記載されていました。おお!新羅三郎!

河内源氏の祖である源頼義には息子が3人いました。長男は八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光です。長男は石清水八幡宮で元服したので八幡太郎、次男は加茂社で元服したので加茂次郎に、三男は新羅明神(三井寺)で元服したので新羅三郎になりました。

源頼義は奥さん(桓武平氏)の実家から鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、郎党を譲りうけ、鎌倉を拠点に東国経営に乗り出します。鶴岡八幡宮も最初は頼義が由比郷に石清水八幡宮から勧請したところからスタートしています。なので河内源氏の七代目の頼朝は大蔵に幕府を開きます。

陸奥で起きた「前九年の役」では朝廷から源頼義、源義家親子が派遣され、この時に奥さんの実家から譲られた坂東武者を引き連れています。後三年の役では、長男の義家を助けるため、新羅三郎が官職をなげうって駆けつけたと伝えられ、その途上、鎌倉で疫病が流行っており、京都の祇園社を勧請し八雲神社を創建したそうです。そんなことをしている暇があったのですかねえ。

■甲斐武田家
この新羅三郎の子孫が、ひたちなか市にある武田に居を構えますが争いに敗れ甲斐に流されます。これが甲斐武田家になります。新羅三郎の家として御旗という日の丸の旗と楯無という鎧が代々伝わります。武田家では重大な決定をする時に家宝の「御旗」と「楯無」に誓約します。武田信玄が出陣時に「御旗楯無 御照覧あれ」と発するシーンがよく出てきます。

東勝寺ハイキング

いざ鎌倉へ。

鎌倉

東勝寺へは小町大路を歩いて横道に入るしかありません。鶴岡八幡宮の参道道が混むためか、車の交通量が多く、しかも名前通りの大路ではありません。道の脇を歩くのも、なかなか大変で、どおりで観光客がいないはずです。東勝寺跡から、また小町大路に戻って歩くのも大変だなと思ったら、腹切やぐらから祇園山ハイキングコースというのがありました。

鎌倉の山なんで低いだろうと登り始めましたが、なかなかきつい。ずっと山道を歩いていくと時々、広くなって兵が駐屯できるような平地があります。鎌倉は山で囲まれ、入るには切通ししかなかったので山の上に兵を配置すれば、鉄壁の守りでした。山道をずっと進むと祇園山見晴台に到達。見晴台からは鎌倉市街を一望でき、由比ガ浜や稲村ケ崎もよく見えます。眺望がいいのですが、誰もいません(笑)。

北条氏の終焉場所「東勝寺」

いざ鎌倉へ。

腹切やぐら

少年ジャンプに連載されている「逃げ上手の若君」ですがテレビアニメ化されるんですね。けっこうマイナーな「中先代の乱」をテーマにしていて、主人公は北条時行です。中先代というのは北条氏が先代で、足利氏が後代、北条時行がその間、武士の都である鎌倉を支配したので中先代と呼ばれています。

物語は鎌倉幕府滅亡から始まります。新田義貞が鎌倉に攻め入り、もちこたえていましたが稲村ヶ崎を突破され鎌倉市内に乱入。執権・北条高時は菩提寺である東勝寺で一族郎党とともに自刃します。東勝寺跡は草むらになっていて、近くに腹切りやぐらがあります。さすがに、こんな所まで来る観光客は誰もいませんね。アニメファンもこないのかなあ。

■大河ドラマ「井伊直虎」の隠し里
漫画ではちょうど後醍醐天皇からの返書を待っているところで、この後は敵の敵は味方ということで北条時行と南朝が組むことになります。南朝が陸奥や遠江へ拠点をつくろうと伊勢の大湊から出港しましたが暴風雨にあい、北条時行は義良親王(後の後村上天皇)と共に遠江に流れ着き、井伊に辿り着きます。

大河ドラマ「井伊直虎」に検地のシーンが出てきて、井伊家が隠していた里が見つかり、問い詰める検地人に「南朝の御子様が隠れてお住まいになった場所です。なので、井伊の領地であって、井伊の領地ではない」と返答しますが、このことだったんですね。