坐摩神社・元宮

坐摩神社・元宮

OSAKAしごとフィールドで出張相談があったのでエル大阪へ。「働く女性・働きたい女性のための相談会」で、創業相談などにのっておりました。エル大阪は豊臣時代、加藤清正の屋敷があったと推定されています。大手道だった高麗橋通りのすぐそばですので一等地ですね。

エル大阪のすぐ前にあるのが坐摩(ザマではなくイカスリよよみます)神社・元宮。ずっと工事中でしたが、きれいになっていました。神功皇后が三韓征伐より戻った時に坐摩神を祀ったのが始まりで、神功皇后の鎮座石が境内に残っています。坐摩神社のすぐ近くが大川で渡辺津があり、渡辺姓はここから始まりました。秀吉が大坂城築城するにあたって坐摩神社は船場に移されました。そこで元宮と呼ばれるようになります。

朝ドラ「おむすび」セット公開

朝ドラ「おむすび」

朝ドラをちゃんと見始めたのは93作目の「あさが来た」からで、これで見る習慣がついたので、あとは半分、惰性で見ていますね。現在は111作目の「おむすび」で、2週間にわたってヒロインが出てこないことでも話題になった朝ドラです。朝ドラのヒロインはなぜか気象予報士など資格取得に励むことが多く、今回は管理栄養士の仕事の内容がよくわかる内容になっています。

撮影が行われたNHK大阪放送局・1階で「おむすび」セット公開をしていたのでのぞいてきました。(~3/9(日)までやってます)糸島にある米田家や神戸のヘアサロンヨネダなどが展示されています。

崇峻天皇陵

崇峻天皇陵

倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。

明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。

尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。

倉梯柴垣宮

倉梯柴垣宮

下居出城跡から多武峰街道を下っていくと倉橋という集落があります。倉橋は高台なので桜井や耳成山が見え、遠くには二上山がのぞめます。ここに第32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(クラハシシバガキノミヤ)の伝承地があります。倉橋は倉梯と書かれていました。崇峻天皇は暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です、犯人は東漢駒、蘇我馬子が命じたといわれています。蘇我馬子に擁立されて即位したのに、えらい梯子外しです。

倉橋はけっこうな高台で飛鳥からも離れていますので、蘇我氏や大夫(マヘツキミ)と距離をとらざるをえない事情があったのでしょう。倉橋から飛鳥に出るには談山神社まで登って西に下るか、多武峰街道を下って上の宮から山田道に入るしかないです。崇峻天皇の後は推古天皇が即位します。

山之井

山之井

先日、泉南に用事があったので、ついでに山之井に行ってきました。

神武東征で、その頃は海だった大阪を超えて日下(東大阪)に上陸。ここから生駒山を越えて大和に入ろうと日下直越道(くさかただごえみち)を登っていくと、待ちかまえていたナガスネヒコ軍の攻撃にあいます。神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を受けます。一度、日下直越道をたどりましたが、なかなか大変なところに五瀬命負傷碑がありました。

神武軍は船で撤退し大阪湾を南下し泉南の山の井水門に着き傷口を洗いました。当時は今の南海本線などは海で、高地になっているところあたりが陸地でした。五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と無念のあまり雄々しく叫びます。古事記ではここで亡くなりますが日本書紀では紀国竈山で亡くなり竈山神社に祀られます。泉南では男神社(おたけびの宮)に祀られています。

物部村(守山)

物部村

守山を歩いていると「牛馬三昧之碑」という碑を発見。というより側面にある物部村という文字が目に入りました。

調べるとかって栗太郡物部村があり、奈良時代には既にあった地名で一時期は法隆寺の荘園があったようです。守山駅近く勝部神社はニギハヤヒや経津主神を祭り、物部氏の神さんだったんですね。

蘇我馬子と物部守屋との戦いを日本史で習うため物部氏が滅んだと誤解している人も多いのですが、守屋一統が滅んだだけで物部氏は全国に点在し物部系の神社があります。例えば名古屋の千種にある高牟神社は尾張物部氏の拠点があったところです。また近鉄中川駅のデルタ線の近くにも物部神社もあります。東大阪や八尾の多くの神社の祭神は物部の神さんです。デンボの神さんで有名な石切神社もそうですし、宮司は物部氏の一派である木積(こづみ)氏です。

下之郷遺跡

下之郷遺跡

下長遺跡の東にあるのが下之郷遺跡です。

弥生時代の環濠集落である下之郷遺跡ですが、堀の規模がすごく、まず中心部を囲む三重になった堀跡が見つかりました。さらに集落の外周を囲む形で三重の堀がめぐっていました。堀の幅が8メートル、深さ2メートルもあります。他にも堀跡があり、いくつの堀がめぐっていたのか今もって分かっていません。堀は水堀が主体でした。堀は土塁とセットですので防衛の意味もありましたが現在の貯木池のように木材の保管にも使われたようです。

米は熱帯ジャポニカ米を食べていたようで中国や朝鮮半島から伝わったのではなく東南アジアから直接入るルートがあったようです。

■倭国大いに乱れ
想定されている集落の大きさは東西330メートル、南約260メートルもあります。集落の入口には土橋があり銅剣や折れた弓などが見つかっていますので戦闘が行われたようです。弥生時代の平城ですねえ。時代は吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡などと同じ時代で邪馬台国よりも300~400年前古く、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国・・」と書かれた時代の国の一つです。

下長遺跡

狐塚古墳

「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読むと伊勢遺跡周辺の遺跡が面白そうなので、まずは下長遺跡へ。といっても遺跡の多くは工業団地になっていて小さな3基の古墳が点在しているだけです。下長遺跡は伊勢遺跡から北西に1.5kmほど離れたところにあり、弥生時代から平安時代まで使われていたようです。

古墳時代前期には首長の居館が作られ祭場もあり、儀仗が見つかっていますから王がいたようです。遺跡の中央を琵琶湖まで続く川が流れていました。船も見つかっていて、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったようです。琵琶湖は古代の高速道路ですので瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海とのハブでもありました。

下長遺跡は伊勢遺跡のための物資の集散、交易の拠点として使われていたようです。その後、大和王権がスタートし伊勢遺跡が終焉するとともに、下長遺跡はますます栄えますので、物流拠点のハブとして大いに機能したようです。

清風堂書店

猫

LEC梅田へ行く時、東梅田駅で降りて、まず目指すのは清風堂書店です。新刊書店ですが、棚が面白く大阪本を集めたコーナーや独特の選書をして、けっこう変わった本にお目にかかれます。

最近は「世界マヌケ反乱の手引書 増補版」と「大阪の街道を歩く」を買いました。創業1967年と60年ちかい老舗本屋で京都の寺町通にあった三月書房のような雰囲気ですね。この清風堂書店ですが2月28日で閉店するそうです。

理由は梅田セントラルビルの建て替えによる立ち退きで出版部門などは残るそうですが、あの本屋がなくなるのは残念。東梅田にあった旭屋書店ビルもなくなったし、対面にできたブックファーストもなく、あるのは地下街にある旭屋書店だけですが、あそこの品揃えはふつうの本屋だしね、ウーン。

卑弥呼を擁立した伊勢遺跡

伊勢遺跡

「倭国乱れ、相攻伐して年をへたり。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼といふ」有名な魏志倭人伝ですが、各国から王が集まり一女子を立てる話合いをした場所が伊勢遺跡ではないかと言われています。伊勢遺跡は突然、現れ、用が終わると消えます。その後に邪馬台国畿内説の有力候補である纏向遺跡ができます。

伊勢遺跡は滋賀県の栗東駅と守山駅の間の伊勢町にあります。昔、行った時は野原に立札ぐらいしかなかったのですが、ちょうど「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読んでいて遺跡公園として整備されているとあり、久しぶりに行ってきました。

見違えるように整備されていましたが、他に観光客がいません(笑)。遺構展示施設でマンツーマンで解説してもらい一人だけでビデオ上映してもらいました。

■弥生時代の国際会議場
伊勢遺跡は真ん中に方形の塀で囲まれた大型建物が並び、傍らに楼観があります。不思議なのは円周状に大型建物が並び、等間隔で真ん中の建物を取り囲んでいます。さながら真ん中が国際会議場で各国の大使館が取り巻いているようなイメージです。当時は通信が大変でしたので全権を委任された大使か王そのものが参画していたのでしょう。