枚岡神社 秋郷祭2025

枚岡神社 秋郷祭

枚岡神社 秋郷祭り

この土日は枚岡の町中が祭り一色になり、町内のあちこちで太鼓台の太鼓の音が響きます。

今年度はマンションの自治会をやっているので、宝箱太鼓台がマンションに立ち寄って休憩するアテンドをやっていました。

いつも枚岡駅の踏切越えが面白くって見学に行っています。東高野街道の一の鳥居から枚岡病院前の急坂を登って近鉄の線路前へ。ここで休憩し、電車の合間をねらって進み、踏切のところから枚岡神社まで最後の急坂がまっています。

枚岡祭り

枚岡祭り

本日と明日は枚岡神社の秋郷祭各町内を太鼓台が巡り、15時頃に神社への宮入がはじまります。瓢箪山の商店街へ買い物に行ったのですが、行くまでに3つの太鼓台通過で待たされました。

商店街のアーケードへ着くと、喜里川の太鼓台が休憩中でした。この後、太鼓台が商店街のアーケードに入る前に脇を通って、買い物に行ってきました。

挙母神社

挙母神社

豊田市はもともと挙母(ころも)市でしたが、トヨタの企業城下町でもあり市名が変更になりました。ただ町を歩くと挙母の名前が残っていたりします。その一つが挙母神社です。

創建は諸説ありますが、1189年(文治5年)義経の家臣である鈴木重善が建立した説があります。熊野から平泉の義経のもとに向かう途中、挙母で衣川の戦いで義経が討ち死にしたことを知り、この地に隠れ住んだそうです。やがて吉野から「子守明神(吉野水分神社)」を勧請し挙母神社の創建になりました。

「熊野の鈴木」でピーンときたあなた!ピンポン、そうです。熊野が発祥の地であるあの鈴木氏です。本家の鈴木重家は衣川の戦いで義経とともに討死にしています。この重家の叔父が重善で重家が幼い時は預けられて面倒をみていました。自身も平泉に向かっていましたが病気がちで義経の訃報から、そのまま三河に土着し三河鈴木氏の祖となりました。

豊田市駅からちょっと歩いた街中にあり、近くには桜城址公園があります。

龍潭寺

龍潭寺

大河ドラマ「おんな城主 直虎」でよく出てきた龍潭寺です。住職の南渓和尚(小林薫)が直虎(柴咲コウ)を小さな時から支えていました。井伊家の菩提寺だったので元祖から井伊直政までの墓が境内にあります。後に彦根に移りましたので井伊家の墓は彦根市の清凉寺、近江市の永源寺、また東京都世田谷区の豪徳寺(招き猫で有名)の三箇所にあります。

■南北朝の舞台 井伊谷宮
龍潭寺の横にあるのが井伊谷宮で宗良親王(むねながしんのう)を祀っています。宗良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、皇子といいながら戦の最前線にいました。南朝が落ち目になった時、伊勢から陸奥へ船で目指しますが、暴風雨で遠江に漂着し、井伊を頼ります。やがて井伊が北朝に攻められると信濃に移ります。

「おんな城主 直虎」では今川氏から派遣された検地奉行(木村祐一)が隠田(年貢の徴収を免れるために密かに耕作している水田)を見つけた時に「ここはかつて、南朝の御子様が隠れてお住まいになられていた里でございます。故に、井伊の領地にありながら、井伊の領地にあらずという扱いでございます」と返答するシーンがでてきました。「おお!宗良親王のことじゃないか!」とドラマを見ながら感激したものです。

井伊家の井戸

井伊家の井戸

浜松駅から三方ヶ原を横断し、気賀へ行った目的はもちろん井伊谷です!

気賀駅でレンターサイクルを借て20分ほど走れば井伊谷へ到着。大河ドラマ「井伊直虎」の舞台で、彦根藩・井伊家の故郷ですね。彦根藩といえば「井」と書かれた真っ赤な旗印が有名ですが、旗印のもとになったのが
井伊谷にある井戸の井桁です。井伊家初代が生まれたといわれる井戸で、井伊谷に移った時に本貫として井伊と名乗るようになりました。

井伊家は徳川四天王である井伊直政の時に彦根に移りますが、井伊家の聖地として彦根藩主が繰り返し井伊谷の井戸を整備し、今に残っています。大河ドラマでは山の中にある雰囲気ですが、田んぼの中にポツンとあります。

気賀関所

気賀関所

東海道は海岸沿いを進みますが、浜名湖が1498年の明応地震で外海とつながってしまいましたので「今切の渡し」を船で渡らないといけません。「今切の渡し」近くには新居関所がつくられました。

「今切の渡し」を避ける浜名湖を大回りする本坂通(ほんさかどおり)があります。女性や大名の利用が多かったことから姫街道とも呼ばれています。こちらには気賀関所ができ冠木門などが復元されています。ただし本来の場所ではなく実際にあったのは気賀宿の東側でした。1729年に清国の商人が京都で天皇に象を見せ、江戸の吉宗に見せる途中に気賀宿に宿泊しましたが大騒ぎだったのでしょうね。

シン・ハママツ計画

シン・ハママツ計画

浜松城の隣にある浜松市役所へ行くとロビーにエヴァンゲリオンの立像が立ってました。めちゃくちゃでかい!

シン・エヴァンゲリオン劇場版に登場する「第3村」のモデルが天竜二俣駅(信玄が攻めた二俣城跡があるところだあ!)なんだそうで、シン・ハママツ計画という遠州鉄道や天竜浜名湖鉄道を巻き込んだイベントを来年2月末までやるそうです。そういえば、浜松城にもパネルが展示されていました。

三方ヶ原

遠州バス

せっかく浜松まで行ったので有名な三方ヶ原の合戦の舞台へ。調べると浜松駅から気賀駅前まで遠州バスが出ていて姫街道を通り、三方ヶ原を突っ切っていきます。

■三方ヶ原の戦い
家康が信玄に大敗した戦です。浜松城を無視して三方ヶ原に向かう信玄に、このままでは武門の名折れになると家康が攻撃したという通説がありますが、最近の説では信玄は三方ヶ原から堀江城の攻撃にすすんだことが原因のようです。堀江城は浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えられると物流がとめられ浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただ敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられました。

■住宅地の三方ヶ原
三方ヶ原というと草原が拡がる台地イメージだったのですが、遠州バスが走るのは住宅地のなかです。家康軍が最後に一矢報いた犀ヶ崖や銭取(無銭飲食した家康から老婆が金をとったところ)というバス停を通っていきますが、往時の雰囲気はどこにもないですね。ただ姫街道の街道脇には松並木が続いていました。

関西文理学園 職員組合同窓会

関西文理学園 職員組合同窓会

25年ほど前に勤務していた専門学校ビジネスカレッジ京都(最初の名前は関西文理情報会計専門学校)を退職し、ついでに独立。専門学校の母体が予備校で有名だった関西文理学院(カンブリ)です。もともとは新村猛らが創設した京都人文学園でしたが18歳人口減少により2010年3月末で予備校は閉校となりました。

■同窓会
学園としては長浜バイオ大学として残っていますが、関西文理学院、バイオカレッジ京都の閉校から15年経ったこともあり、「生きている間に会おう!」と同窓会の呼びかけがあり、参加してきました。場所は京都駅前の京都新阪急ホテルで25年ぶりに会う方ばかり。人のことは言えませんが皆さん、高齢者なので、乾杯の挨拶も「立てる元気があるうちは立って乾杯しましょう!」という具合です。一人一言のコーナーがありましたが予備校での担任経験が長い職員が多く、話が長い(笑)

京都は左派が強かったのでメーデーには二条城に集合して赤旗を振ってパレードを行い、終わってから木屋町の焼肉屋で打ち上げをしたのが懐かしいですね。

駅鈴

駅鈴

古代・律令時代にも公務員の出張がありました。道路が整備され、駅馬・伝馬の制度ができます。駅では公文書などをリレー形式で運ぶため適切な間隔で人・馬などを常備しました。この駅を現代版にしたのが「道の駅」です。

公務員の出張時には駅鈴が交付され、この駅鈴があると駅で駅子(人足)や駅馬を徴発できました。身分証明書みたいなものだったんですね。この駅鈴ですが隠岐にしか残っていなくって、玉若酢命神社の隣にある億岐家宝物館に保存されています。

本居宣長がこの駅鈴のコピーをもらって愛玩していたことから、松阪駅前にはでっかい駅鈴がおかれています。