三方ヶ原

遠州バス

せっかく浜松まで行ったので有名な三方ヶ原の合戦の舞台へ。調べると浜松駅から気賀駅前まで遠州バスが出ていて姫街道を通り、三方ヶ原を突っ切っていきます。

■三方ヶ原の戦い
家康が信玄に大敗した戦です。浜松城を無視して三方ヶ原に向かう信玄に、このままでは武門の名折れになると家康が攻撃したという通説がありますが、最近の説では信玄は三方ヶ原から堀江城の攻撃にすすんだことが原因のようです。堀江城は浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えられると物流がとめられ浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただ敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられました。

■住宅地の三方ヶ原
三方ヶ原というと草原が拡がる台地イメージだったのですが、遠州バスが走るのは住宅地のなかです。家康軍が最後に一矢報いた犀ヶ崖や銭取(無銭飲食した家康から老婆が金をとったところ)というバス停を通っていきますが、往時の雰囲気はどこにもないですね。ただ姫街道の街道脇には松並木が続いていました。

関西文理学園 職員組合同窓会

関西文理学園 職員組合同窓会

25年ほど前に勤務していた専門学校ビジネスカレッジ京都(最初の名前は関西文理情報会計専門学校)を退職し、ついでに独立。専門学校の母体が予備校で有名だった関西文理学院(カンブリ)です。もともとは新村猛らが創設した京都人文学園でしたが18歳人口減少により2010年3月末で予備校は閉校となりました。

■同窓会
学園としては長浜バイオ大学として残っていますが、関西文理学院、バイオカレッジ京都の閉校から15年経ったこともあり、「生きている間に会おう!」と同窓会の呼びかけがあり、参加してきました。場所は京都駅前の京都新阪急ホテルで25年ぶりに会う方ばかり。人のことは言えませんが皆さん、高齢者なので、乾杯の挨拶も「立てる元気があるうちは立って乾杯しましょう!」という具合です。一人一言のコーナーがありましたが予備校での担任経験が長い職員が多く、話が長い(笑)

京都は左派が強かったのでメーデーには二条城に集合して赤旗を振ってパレードを行い、終わってから木屋町の焼肉屋で打ち上げをしたのが懐かしいですね。

駅鈴

駅鈴

古代・律令時代にも公務員の出張がありました。道路が整備され、駅馬・伝馬の制度ができます。駅では公文書などをリレー形式で運ぶため適切な間隔で人・馬などを常備しました。この駅を現代版にしたのが「道の駅」です。

公務員の出張時には駅鈴が交付され、この駅鈴があると駅で駅子(人足)や駅馬を徴発できました。身分証明書みたいなものだったんですね。この駅鈴ですが隠岐にしか残っていなくって、玉若酢命神社の隣にある億岐家宝物館に保存されています。

本居宣長がこの駅鈴のコピーをもらって愛玩していたことから、松阪駅前にはでっかい駅鈴がおかれています。

隠岐誉

隠岐酒蔵

隠岐の地酒といえば隠岐誉です。売店などによく売られています。純米酒をよく飲んでいましたが、変わったところでは海藻焼酎があり、ほのかに磯の香がして、なかなかいけます。ただ隠岐に酒蔵メーカーは隠岐酒蔵しかないそうで、1972(昭和47)年に西郷酒造組合に属する全社(5社)で隠岐酒蔵を設立し、共に生き残れる道を選択したそうです。それで日本酒、焼酎、リキュールと多彩なお酒があるんですね。

この時に酒名を公募したそうで「隠岐誉」はこの時に決まったそうです。そうそう時期的に「ひよおろし」も出ていて、なかなかいけました。

隠岐 船引運河

船引運河

隠岐シリーズが続きます(笑)

島前の西ノ島のちょうど中間ぐらいにあるのが船引運河。日本海の外海と島前の内海を結ぶ全長300mちょっとの運河です。狭いので昔は人力で船を引っ張って地峡部を越えるたため、船越という地名が残っています。対馬の船越などと同じですね。

漁場へ行くために港から出港した船は大きく迂回しないと外海にたどり着けず時間がかかっていたため、大正時代に運河の開削が発案され、大正4年に運河ができました。運河を出ると日本海の荒波がまっています。

隠岐の放牧

隠岐の放牧

カルデラ地形の隠岐には水田に適した土地が少ないため、米以外の作物を育てる必要があります。そこで牛馬を放牧して土地を肥えさせる牧畑農法が発展しました。

西ノ島では放牧地帯に赤尾展望所などがあります。道路のど真ん中に牛が寝そべったりしているので避けて通るか、動くのを待つしかありません。元々は観光用でなく、牛を飼うための道路だったので優先権は牛にあります(笑)。馬は牛に比べると比較的にすぐ移動してくれます。あとは牛や馬のフンだらけになっているので、うまく避けなければなりません。

島前 外輪山

島前 外輪山

島前は中ノ島、知夫里島、西ノ島の3島からなっていて島の間は内航船とフェリーが結んでいます。島の間は波が穏やかですが、島の外は日本海ですので、波がけっこうあります。それぞれの島は急峻で平野が少なく、カルデラの外輪山になっています。

海底火山(島前火山)の噴火活動により、それまで浅い海中にあった火山が海面上まで成長しましたが、約560万年前~540万年前、陥没によって島前カルデラが形成されてようです。同じように世界的にみてもエーゲ海のサントリーニ島しかないそうです。

隠岐の岩ガキ

隠岐でよく食べたのが岩ガキ。

隠岐の岩ガキ

西ノ島が、岩ガキ養殖の発祥地なんですねえ。夏に人工授精させてホタテ貝の貝殻に付着させ、海中のロープに吊して大きくして出荷します。中上さんという人が平成4年(1992年)に成功して養殖を広めました。「隠岐のいわがき」としてブランド化しています。

岩ガキといえば志摩・畔蛸(あだこ)も有名なんですが、こちらは自然の海の状態を見極めて採苗する天然採苗して養殖しているんですね。夏の岩ガキいいですね。

隠岐の水木しげる

別府港

境港では水木しげるロードが有名で妖怪ブロンズ像が並んでいます。隠岐にもこのブロンズ像がいくつかあり、同じ島根県なんでブームに乗っかっているんだなと思っていたら、あれ境港って鳥取じゃなかったっけ!

水木しげるは大阪住吉生まれで境港育ちです。ここで、まかない婦として家に出入りしていた「のんのんばあ」が語り聞かせた妖怪に強い影響を受けます。水木しげるの本名は武良茂ですが、この武良は島後にある武良郷でルーツは隠岐にあったんですね。というわけで隠岐にもブロンズ像が各所にありました。ただ別府港の一反もめんと目玉おやじはフェリーの出港を見る人しか気がつかないところにありました。

隠岐国分寺

隠岐国分寺

741(天平13)年、聖武天皇が詔を出し、全国に国分寺が造られます。この国分寺の総本山が東大寺になります。

コロナ禍のように天平時代にも疫病が発生し、天然痘で藤原四兄弟がなくなります。正倉院文書に残された正税帳で推定したところ総人口の25~34%、100~150万人ほどが亡くなる、すさまじい疫病でした。ウイルスなどの知識がなかったため聖武天皇が考えたのが仏教の力で日本全国を覆うバリアを作ろうという発想です。隠岐(島後)にも国分寺が造られ金堂跡が発掘されています。

■後醍醐天皇の行在所?
御醍醐天皇が隠岐に流されましたが、黒木御所ではなくこの国分寺に流されたという説があります。ただ島前の知夫里島が本土との玄関口でしたので西ノ島の黒木御所説も捨てがたいですね。