丹波市駅

丹波市駅

奈良の古地図を見ていると丹波市駅を発見。まだ関西鉄道の頃ですね、現在の天理駅になります。大阪から丹波市駅へ行くには奈良駅経由となり時間がかかり、金額も高くなります。不便な点は今も同じですね。そこで途中の法隆寺駅で降りて徒歩で天理に向かう参拝客もいました。これは商売になると1915年(大正4年)に法隆寺駅から丹波市駅を結ぶ天理軽便鉄道が作られます。法隆寺駅から平端駅までがなくなり平端駅から天理駅までが現在の近鉄・天理線となります。

東の端には物部氏の武器庫だった石上神宮が見えています。昭和29年に市町村合併で天理市が誕生し、市名に宗教団体の名称が使われている唯一の市となります。

しじみ川

しじみ川
  • 北新地に「しじみ川旧跡」という碑が建っているので、関西人なら昔、北新地に川が流れていたことを、よくご存じでしょう。大阪の古い地図をみると堂島川から分かれ北新地を流れていた「しじみ(蜆)川」が記載されていました。
  • 「しじみ川」の北には大坂停車場があります。曽根崎も村だったんですね。川が流れていたので現在も桜橋などの地名が残っています。当時は水運が基本でしたので大坂停車場の前まで蜆川から梅田入堀が開削されました。梅田入堀は堂島川までつながっていて「しじみ川」と交差していました。ここが、出入橋です。「しじみ川」は1909年(明治42年)の北の大火後、瓦礫の捨て場となって一部が埋立てられ大正時代には完全に埋立てられました。

広小路キャンパス

京都の少し前の地図を見ていたら立命館大学・広小路キャンパスが載っていました。目の前には京都府立医大があり、御所の北側には同志社大学があります。京都は10人に一人が学生という「学生の街」で市政的に言うと税金が入らない層がたくさんいることになります。

広小路キャンパス

立命館大学・広小路キャンパスは1981年までありました。ある年齢層までには「二十歳の原点」(高野悦子)の原点ですね。赤い線は京都市電で、1977年に京都市電・河原町線がなくなり、翌年に京都市電全線がなくなります。

立命館大学・広小路キャンパスの少し北に昔、勤務していた専門学校があり、この界隈を10年ほどウロウロしていました。河原町今出川に地図専門店があったんですね。少し上がったところに善書堂という古本屋がありましたが、今は閉店しています。そうそう京都府立医大近くに荒神橋があり、伊藤蘭が出ていた「ヒポクラテスたち」(大森一樹監督)の冒頭はこの荒神橋からスタートしていました。

浮御堂

荒池

奈良の古地図を見ていると奈良ホテルの北に荒池があり、道路をはさんだ東側にも荒池が拡がっています。ちなみに奈良ホテルにあったのが鬼薗山城で、遺構は残っていません。東側の瑜伽神社裏側には西方院山城の一部が残っていて虎口や土塁を確認できます。この城は古市氏が築いたところ完成3日後に筒井氏に攻められ落城したと記録に残っています。

古地図を見ると東側の荒池の東側は畑になっていますが、今はここに鷺池があり、真ん中に浮御堂があります。檜皮葺き、六角形のお堂で、いかにも奈良という感じですが、あれって後から作ったんですね。調べると浮御堂ができたのは大正5年(1916)で奈良公園そのものは明治22年(1889)に整備されました。

大和西大寺駅

大和西大寺

近鉄の大和西大寺駅。難波と奈良を結ぶ奈良線と京都と橿原神宮を結ぶ橿原線が平面交差する鉄道ファンにはおなじみの駅です。

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図を見ると駅は影も形もありません。近鉄の前身である大阪電気軌道が上本町と奈良の間に鉄道を通し、西大寺駅を開業するのは1914年(大正3年)です。地図が作られた頃は用地買収や線路の敷設をしていた頃でしょう。次に橿原神宮前までの畝傍線ができ、昭和になってから京都からの線と結ばれ、現在の橿原線となりました。

大和西大寺駅には路線の平面交差だけではなく、車庫まであるので線路を切り替えるポイントが41もある複雑怪奇な駅になっています。橿原線に乗ると西大寺駅のホームに入るまで握り棒などをしっかり持っていないと、数多くのポイントを渡っていく列車に体が翻弄されます。西大寺の北側には伎芸天で有名な秋篠寺があります。西大寺を出ると神功皇后陵の東側の山を通って京都へ向かいます。

暗越奈良街道

暗越奈良街道

大日本帝国陸地測量部が発行した大正元年の奈良広域図で尼辻あたりを見ると暗越奈良街道が記載されています。難波から生駒山地の暗峠を越えて平城京に至る街道で、尼辻を過ぎて坂を下れば朱雀門はすぐ先です。

■垂仁天皇陵
尼辻の西側に近鉄橿原線からよく見える垂仁天皇陵がありますが、地図を見ると天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。Googleマップでは上側のまっすぐな道が暗越奈良街道になっていて、どっちが正しいのでしょう。

さらに西に向かうと途中で2つの道は合流しています。垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)に造られていますので古墳を周遊する道が本来の暗越奈良街道である可能性が大です。

■倍塚はフェークニュース
垂仁天皇陵といえば湖の中に田道間守の倍塚があることで有名です。田道間守は垂任天皇の命令で常世の国へ行き、10年かかって「非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」を探し出してきました。ところが既に天皇は亡くなっており、田道間守も自殺し、この倍塚に葬られます。ところが元禄年間の山稜図にこの倍塚は出てこず、幕末の尊王思想が高まった時に古墳を取り巻く堤の一部を、それらしく島に改変した説が有力です。オイオイ!

ちなみに垂仁天皇の娘が倭姫命で伊勢神宮を今の場所に定めた人物です。また甥の日本武尊に草薙剣を与えています。

高畑勲展

三重県総合文化センターで高畑勲展があり、のぞいてきました。

なんで三重でと思ったら、高畑監督は伊勢市出身なんですね。小さい頃は津でも過ごしたそうです。8歳の時に岡山に転居した関係で、2020年には岡山県立美術館でも高畑勲展が開かれています。

展示では懐かしい「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「アルプスの少女ハイジ」などの絵コンテなど、たくさんの資料が展示されています。個人的には「セロ弾きのゴーシュ」と「平成狸合戦ぽんぽこ」が味わいあって好きですね。最後は遺作となった「かぐや姫の物語」でした。9.18まで開催しています。三重県総合文化センターへは津駅西口からバスが出ていますが、基本的に1時間に2本ですね。常設展も中央構造線から伊勢の御師まで多彩な展示になっています。

司馬遼太郎 生誕100年

東大阪市政だよりの表紙が司馬遼太郎でした。

東大阪市政だより 司馬遼太郎

東大阪市の広報紙で、今年は司馬遼太郎生誕100年(大正12年生まれ)なんですね。司馬遼太郎記念館の上村洋行館長のインタビュー記事が載っていました。館長は、みどり夫人の弟で当時は小学六年生で、よく司馬遼太郎が実家に遊びにきていたそうです。

司馬遼太郎が、みどり夫人と結婚したのが1959年で下小阪に引越してきたのが1964年です。当時は布施市でした。3年後の1967年に布施・河内・枚岡の3市が合併して東大阪市となります。当時の家が現在の司馬遼太郎記念館になっています。

司馬遼太郎は東大阪市の名誉市民になっていますが、住んでいた河内小阪といえば東大阪の西のはずれで、ちょっと行ったら大阪市生野区です。東大阪商工会議所も西のはずれの河内永和にあるし、東大阪市役所も荒本という、これまた西のはずれにあって東の枚岡は無視されていますね(笑)。それだけ布施市が中心だったということでしょう。

反正天皇陵

反正天皇陵

方違神社のすぐ隣にあるのが反正天皇陵(田出井山古墳)です。反正天皇は「倭の五王」のうち珍に比定され、実在した天皇と考えられています。きれいな歯並びだったそうで瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)という名前が日本書紀に記録されています。

日本書紀では仁徳天皇陵、反正天皇陵、履中天皇陵の順に墓を造ったとあり、近年の研究では上石津ミサンザイ古墳、仁徳天皇陵、田出井山古墳の順に造られたようので、それでいけば現在の仁徳天皇陵(大仙古墳)が反正天皇陵という確率が高くなります。となると方違神社の隣にあるのは履中天皇陵かも。

方違神社

堺で仕事だったので方違(ほうちがい)神社へ寄ってきました。

方違神社

昔、方違え(かたたがえ)という風習がありました。仕事先から東の方向にある自宅へ帰ろうとしたら、東の方角に方違えの対象となる神様がいると、真っ直に家へ帰ると差しさわりがあります。そこで、いったん他の方角にある知人宅などで一夜を明かして翌朝家に帰ると、東への移動を避けられます。家に帰らず、飲みに行く時の言い訳じゃないのかとも思いますが(笑)昔はけっこう信じていたようです。来年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部の物語のようですが、源氏物語の「帚木」に光源氏が方違えするシーンが出てきます。

堺にある方違神社は「どの方角にも属さない」神社で方角の厄を取り除くそうです。ですので、家の普請、転宅、旅行等には最適です。このあたりは摂津、河内、和泉の境界で、どこの国にも属さない方位の無い清地であると言われたことが発端のようです。ですので堺や三国ヶ丘の地名が今も残っています。