頼朝墓

いざ鎌倉シリーズです。

頼朝墓

鶴岡八幡宮から畠山重忠邸宅跡を抜けて行くと白旗神社と石塔があります。相模川で催された橋供養からの帰路に源頼朝は体調を崩します。「鎌倉殿の十三人」では落馬するシーンが描かれていましたが、死因は定かではありません。「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けていて、謎になっています。建久10年(1199年)に頼朝は亡くなります。

亡骸は持仏堂に葬られましたが、江戸時代に薩摩藩主が現在の石塔(頼朝の墓)を建てました。明治になって廃仏毀釈により持仏堂を継承した法華堂が壊されて今は頼朝を祀る白旗神社が建てられています。

鶴岡八幡宮には山のような観光客がいましたが、頼朝墓まで訪ねる人は少数で、ほとんど観光客はいません。

サザン

エボシ岩

茅ヶ崎館で23時頃まで宴会して寝たはずが、朝日で部屋が明るくなると起きる歳になってしまったため5時には目が覚めます(笑)。他のメンバーがグースカ寝ているなか、旅館のすぐ近くにある茅ヶ崎の海岸へ出て散歩。朝早くから釣りやサーフインをする人やランニングする人などたくさんいて、関東人は朝から元気ですねえ。地引網もやっていました。

海岸沿いの道を歩くと烏帽子岩を見ることができます。茅ヶ崎はサザンの聖地になっていて、なんの変哲もない道にサザン通りという名前がついています。そういえば「チヤコの海岸物語」の歌詞にエボシ岩が出てきました。そうそう道の途中に「C」のモニュメントがあって、写真を撮っている人がいたのですがサザンのジャケット写真に使われていたんですね。私は烏帽子岩のモニュメントを撮っていました。

畠山重忠邸宅跡

畠山重忠邸宅跡

鶴岡八幡宮のすぐ近くにあるのが坂東武士の鑑と言われた畠山重忠邸宅跡。碑は建っていますが、碑しかないので誰もいませんねえ。「鎌倉殿の十三人」では中川大志さんが畠山重忠を演じていました。武蔵国男衾郡畠山郷が本貫です。頼朝を助け幕府創業を助けた立役者ですが、やがて北条時政と対立。鎌倉にすぐ来いとの呼び出しに、わずかな手勢で鎌倉に向かう途中、謀反の疑いがあるということで北条義時が差し向けた大軍と激突して討死します。

謀反の疑いは北条時政の讒訴ではないかと、いうことで北条義時は時政を糾弾したと吾妻鏡には記載されていますが、歴史書は勝者のものですから本当のところは分かりません。畠山重忠は吾妻鏡では謹直で真面目な人物として描かれており、梶原景時と正反対。梶原景時は頼朝の汚れ役をやっていたので、メチャクチャ能力は高いのですが、嫌われる役職にいた石田三成によく似ています。となると畠山重忠は加藤清正というところかなあ。

鶴岡八幡宮の大銀杏

いざ鎌倉へ

鶴岡八幡宮

パソコン通信(古いなあ)時代の仲間が集まるイベントが茅ヶ崎で開催されますの、少し早い目に出て鎌倉へ。40年ぐらい前に大仏を見に来た覚えがあるのですが、全然、土地勘がなく横浜から電車に乗ると鎌倉駅は横須賀へ行く途中なんですねえ。京都ほどではありませんが鎌倉も観光客であふれていました。

まずは定番の鶴岡八幡宮へ。この参道で公暁が実朝を暗殺しますが、公卿が隠れた大銀杏が2010年に倒れてしまいました。樹齢は1000年を超えていますので建保7年(1219)の事件でも現役でした。倒れた後から若芽が芽吹き、だいぶ成長していました。案内も何もないので、観光客は素通りですね。

異界彷徨

異界彷徨

大阪歴史博物館で開催されている特別企画展「異界彷徨 ―怪異・祈り・生と死―」へ。常設展のチケット(大人600円)で見ることができます。河童や天狗など盛りだくさん内容でしたが、目的は百鬼夜行図です。

京の大路を夜な夜な練り歩く化け物を書いた絵巻です。日本では付喪神(つくもがみ)と呼び、長い年月を経た道具に精霊が宿ると考えますので、絵巻には琴など様々な道具の化け物が描かれています。

面白かったのが蕪村妖怪絵巻で、与謝蕪村が妖怪絵巻を書いていたんですね。手拭をかぶって踊るマタネコや「のっぺらぼう」など、なかなかユーモラスですね。6月26日(月)まで開催されています。

ATC

ATC

久しぶりに咲洲にあるATC(アジアトレードセンター)でお仕事。商い繁盛館があった頃はネットショップセミナーの相談担当などで、来る機会がありましたが、最近はさっぱりです。ここのエレベータがシースルー型になっていて高所恐怖症にとっては地獄ですね。操作盤ちかくにはりついておりました。帰りはひたすらエスカレータを乗り継いで帰りました。

酷道308号(暗越奈良街道)

暗峠

「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」で酷道博士をやっていたので番組でも紹介されていた国道308号線を登ってきました。ウチの家の近くに東高野街道と暗越奈良街道が交差しているところがあり、ここから登りはじめます。暗越奈良街道が国道308号になっています。近鉄奈良線を超えたところから1車線になり、ずっと登りが続きます。暗越奈良街道は最短距離で大阪と奈良を結びましたので、ほぼ直線になっていて、ひたすら登るしかありません。時たまバイクや車が通り過ぎますが最大排気で登っていますので通るとガソリン臭いこと

酷道らしく途中には斜度37度という坂も待っています。時間がかかってもよいという方は生駒山へのハイキングコースがいくつかあるので、そちらの方がよいでしょう。登るだけでもしんどいのですが、横をトレイルランしていくランナーやサイクリングで登っていくつわものもいます。麓から1時間ほど登ると石畳の暗峠に到達し、奈良の街が拡がっています。

琵琶湖疎水

琵琶湖疎水

琵琶湖から流れる水は瀬田川しかなく、瀬田川が宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に注ぎます。滋賀県人がよく使う脅し文句が「琵琶湖の水止めたろか!」という言葉。実際に3Dモデルを使ってシミュレーションをした人がいて、瀬田川の堰をとめると滋賀県の沿岸部と水田地帯がことごとく水没してしまいました。滋賀県にとっては経済的に大打撃になり、琵琶湖の水を止めるのは諸刃の剣です。よく似た話は奈良にもあり、大和川が大阪に流れだす亀の瀬で地滑りで起きて、自然ダムができると古代にあった奈良湖が誕生することになります。

シュミレーションでは琵琶湖の水位が30mあがると鉄道トンネルから琵琶湖の水が流れ出しました。瀬田川の堰をとめるのと同時に琵琶湖疎水もとめなくてはなりません。琵琶湖疎水は明治時代に作られ、蹴上発電所の電気で京都市電が走り、日本初の営業用電車となりました。山科駅の北側に琵琶湖疎水が流れていて散策路になっています。

髭茶屋追分

髭茶屋追分

「これやこの 行くも帰るも 別れては...」で有名な逢坂の関を超えて、山科に入ると髭茶屋追分があります。道が二手に分かれていて右に降りて行くと山科駅前を通って蹴上から三条大橋に至る京都への道です。左に坂を降りていくと京街道が始まり、大宅一里塚を通って、いわゆる東海道57次になります。

大津宿から、山科を越えて54次目の伏見となり、淀、枚方、守口の4宿で57次です。東海道が京街道へ延伸して57次として制定されたのは元和5年(1619年)ですので、豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から、わずか4年後になります。参勤交代の大名行列は、この髭茶屋追分から左に入るルートを通るように決められました。

日本ローマ字会 解散

京都にあった日本ローマ字会が3月に解散したんですね。昔ちょっとからんでいまして、理事をやっていた時もあります。日本ローマ字会はメチャクチャ古い会で100年以上の歴史があります。もともとは明治時代に地球物理学者である田中舘愛橘が始めた会で寺田寅彦なども会員でした。

紆余曲折があって京都に本部が移り、梅棹忠夫先生がローマ字論者でもあり知的生産の技術研究会の特別顧問でもあった関係で、私も日本ローマ字会に出入りしていました。ヘボン式でも訓令式でもない99式ローマ字を制定していた頃ですね。その後、また紆余曲折があって東京に本部が移る頃に離れました。

インバウンドや外国からの移民を真剣に考えるのなら漢字をどう扱うかがテーマですね。ある程度はローマ字で代用していかないといけない時代ですが、同音異義語をいかに減らしていくかが課題になります。