吉野・宮滝遺跡

■吉野宮
大海人皇子が妃の鵜野皇女らと隠棲していたのが吉野宮。どこにあったのか長らく不明でしたが昭和になり地元の郷土史家らが宮滝で古い時代の瓦や土器を採取したことから発見されました。吉野川沿いに広場があり、ここが吉野宮(宮滝遺跡)があったところです。

宮滝遺跡
宮滝遺跡

碑と説明版がありますが、吉野神宮からは離れていて、けっこう辺鄙な所で、飛鳥からは峠を越えて吉野川へ出て川を遡らないと到達できません。ここが壬申の乱の出発地になります。里中満智子の「天上の虹」の舞台ですなあ。

■吉野の盟約
天武天皇として即位した後、皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸して行ったのが吉野の盟約。草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせました。皇位継承で争いが多かったので、それを防ぐ目的がありました。

ところが天武天皇と草壁皇子が相次いで没したことから鵜野皇女が即位して持統天皇になります。その後、通算して33回の吉野宮行幸を行っています。後に続く文武天皇・元正天皇・聖武天皇も吉野宮への行幸をしていますので、聖域になっていたようです。

吉野・本善寺 蓮如上人創建

吉野の飯貝にあるのが本善寺です。石垣の上の高台にあり、飯貝御坊とも呼ばれています。どうみても城郭スタイルですね。裏山頂上にある飯山城を詰城として平地の城の風情です。

本善寺
本善寺

■蓮如上人
本善寺を創建したのが蓮如上人で、蓮如は衰退していた本願寺を再興した人物として有名です。畿内・北陸・東海を中心に布教し、越前に吉崎御坊を作り一向宗の一大拠点となります。山科本願寺や石山御坊(後の石山本願寺)を作り、最後は山科で亡くなっています。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる」という御文でも有名な人物です。蓮如の3代後が顕如で石山本願寺で織田信長と10年以上にわたり戦いました。

本善寺は大和における浄土真宗寺院の中心になっていきます。当時は天文法華の乱など宗教通しでも争っていた時代で、イスラム国やタリバンどころの騒ぎではなかったですね。石山本願寺なんか堅固な城になっていて信長が10年間も攻めあぐねました。

信長と石山本願寺が戦っていた時に筒井順慶が吉野を攻め、本善寺の大半が破壊されます。江戸時代に本殿などが再興されました。

喜光寺 試しの大仏殿

喜光寺
  • 先週、奈良で法事だったので、ついでに喜光寺に寄ってきました。

    喜光寺があるのは菅原の地で、もともとは土師氏が住み、後には菅原道真を輩出する菅原氏が住みました。菅原の名前はこの地名からとっています。

    喜光寺は平城京の一等地にあり、ここに大仏作りに貢献した行基が菅原寺を建立します。行基が亡くなったのも、この寺でした。

    ■行基
    行基は近鉄奈良駅前の噴水でも有名ですが、最初は集団で徒党を組んで変なことをやっている反社会的勢力として弾圧を受けたりしていました。やがて政権側に理解され、聖武天皇が菅原寺に行幸した時に本尊から不思議な光が放たれたことから、「歓喜の光の寺である」として菅原寺から喜光寺に名称変更されます。

    現在の本堂は再建ですが、もともとは大仏殿の雛型として建てられたとの伝承から「試みの大仏殿」と言われています。そうそう、去年、喜光寺近くの菅原遺跡で夢殿のような八角円堂が見つかり行基の供養堂ではと言われています。

十日戎

”商売繁盛で笹もってこい”ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。いつもは閑散としていますが、この3日間だけ賑わいます。

額田戎神社
額田戎神社

”えべっさん”といえば西宮戎が有名ですが、その西宮のヱビス神を勧請した神社です。独立以来、ずっと商売繁盛の祈願をしてきたこともあり、どうにかこうにかやっております。そういえば今年は独立して20年で、サラリーマン生活20年と同じになりました。

コロナ禍でもあり今年もお神酒と甘酒は無しでした。縁起物を買って福引をすると、いつもと同じ末等のゴミ袋をゲットしてきました。

坐魔神社

本町近くで仕事だったので、ついでに坐摩神社へ寄ってきました。「ざま」ではなく「いかすり」とよみます。「いかすり」とよむ理由はよく分かっていません。

坐魔神社
坐魔神社

神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、田蓑島(今の天満橋にある渡辺の地で渡辺さんの古里)に坐摩神を祀り、花を献じたのが坐摩神社の始まりです。坐摩神は渡辺津の守護神となり、渡辺党は瀬戸内海の水軍を担いましたので旅行安全の神となっていきます。

ところが秀吉の大坂城築城のために移転させることになり、本町近くに遷座しました、元の場所には行宮(御旅所)があります。エル・おおさかのすぐ隣です。

甲良神社

尼子郷の入口にあるのが甲良神社。祭神は武内宿禰です。

甲良神社
甲良神社

海の民だった宗形氏の娘の尼子姫が、大海人皇子の側室となり高市皇子(たけちのみこ)を生みます。高市皇子といえば壬申の乱で不破(関ケ原)で近江軍を打ち破ったことで有名です。またキトラ古墳か高松塚古墳の被葬者ではないかと言われています。

壬申の乱の後、天武天皇の時代に尼子姫はこの地に移って九州の高良(こうら)大社から武内宿禰を勧請して祭ったそうです。それで甲良(こうら)神社なんですね。尼子姫の名前から。この地は尼子と名付けられたと言われています。

佐々木道誉の孫である高久が、この尼子郷に居住して、名字を尼子としたことから戦国大名である尼子氏は始まりますが、甲良神社の神紋も佐々木氏と同じ四ツ目(□が4つの紋)になっています。

在土八幡神社

藤堂高虎の出生地にあるのが八幡神社。藤堂家の先祖が石清水八幡宮から分祠して建立しました。この時に紫藤を植えて子孫繁栄を祈願し、これが樹齢250年と言われる紫藤樹になっています。この藤が藤堂村の由来になったんですかねえ。毎年、5月に藤切祭が行われ、切り取った藤房を東京の藤堂宗家に送っているそうです。もっとも紫藤樹も雪の中では枝を見るだけです。

在土八幡神社
在土八幡神社

現在の本殿は2代目津藩主である藤堂高次が再興しました。藤堂家では先祖の地として毎年、五十石を八幡神社に寄進していたそうです。

藤堂高虎 出生地

尼子城の近くに近江国犬上郡藤堂村があります。戦国武将である藤堂高虎が生まれた所で、銅像が建っています。

藤堂高虎
藤堂高虎

藤堂高虎には「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言った逸話がありますが、当時は能力がなければ主君を見限ることが当たり前でした。江戸時代に朱子学が入ってきて「忠臣は二君に仕えず」となっていきます。

藤堂高虎は浅井長政に足軽で仕えるところからスタートし、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えながら巡り合ったのが羽柴秀長。馬が合っていたようで秀長が亡くなるまで仕え、養子の羽柴秀保が後を継ぐと若い秀保の代理として活躍しています。ところがこの秀保も早世してしまいます。出家して高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得して大名に返り咲かします。秀吉が亡くなると元々親交があった家康に接近することになります。

藤堂高虎は190センチメートもの身長で満身創痍の傷だらけと伝わっています。

■藤堂高虎、出世の白餅
阿閉貞征から出奔し浪人生活を送っていた時空腹のあまり、三河の吉田屋という餅屋で無銭飲食します。店主の奥さんが近江出身ということもあり、「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられます。後年、大名となった高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという話は講談でおなじみです。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」です。

仁賢天皇陵

羽曳野市商工会のすぐ北側にあるのが野中ボケ山古墳です。湖に映るこんもりとした森が野中ボケ山古墳で、すぐ左に小さく見える建物が羽曳野市商工会です。

仁賢天皇陵
仁賢天皇陵

野中ボケ山古墳は、仁賢天皇陵に治定されています。仁賢天皇というと雄略天皇(稲荷山古墳でワカタケルと記載された剣が見つかり実在が確認された天皇)に殺された市辺之忍歯王(履中天皇の皇子)の子供です。背景には皇位争いがありました。

子供は難が及ぶのを恐れ、舎人の手によって丹波国を経て播磨国赤石に逃れます。身分を隠して有力者の家の使用人として暮らしていました。雄略天皇の子である清寧天皇に子供がおらず、その死後、殺された市辺之忍歯王の妹である飯豊王が世の中を治めていました。

この頃、国の長官がたまたま赤石の有力者の家の新築祝いに訪れ、子供を見つけます。やがて即位し、仁賢天皇となります。古事記に出てくる有名な話なんですが、DNA鑑定もできないのに、ほんまですかいな。仁賢天皇は億計(おけ)王という名前で、これが転じて「ボケ」になったという理由で野中ボケ山古墳に比定されています。これまた、いいかげんな話ですねえ。

野中寺

羽曳野商工会から少し歩いたところに野中寺があります。「のなかでら」ではなく「やちゅうじ」とよみます。

野中寺
野中寺

聖徳太子が蘇我馬子の協力で建立したと伝わっています。「中の太子」とも呼ばれ、叡福寺(聖徳太子のお墓)の「上の太子」、大聖勝軍寺(物部守屋が滅びた所)の「下の太子」と並んで「河内三太子」のひとつです。飛鳥時代の創建時は塔と金堂が並び、回廊が巡る川原寺(飛鳥)に近い伽藍配置だったようです。実際には野中郷を本貫とした船氏の氏寺として推古天皇6年(650)頃に創建されたようです。

白鳳期の弥勒菩薩半跏像で有名ですが、銘文には「中宮天皇」という言葉があり、聖徳太子は上宮と言われていたので、中宮は何かを指す暗号ではと言われています。ということで倭姫(伊勢神宮を創建)説、間人皇女(孝徳天皇の皇后)説、持統天皇説など諸説あります。