姉川の合戦

姉川の合戦

「どうする家康」、金ヶ崎の退き口と思ったとたんに先週は姉川の合戦、次回は信玄との対峙のようです。

家康にとって苦難の年だったのが元亀元年(1570)で家康29歳の時。4月に信長について朝倉攻めに加わったら、まさかの浅井長政の裏切り。金ケ崎城で秀吉、光秀とともに殿(しんがり)を勤め、なんとか京都に帰りつきます。6月には姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍と戦います。写真は信長が姉川の合戦で陣を置いたところで家康は少し西に陣を置きました。信長がここから姉川の戦況を見ていました。

9月には三好三人衆を攻撃するために摂津・福島に陣を敷いていた織田軍を突如、石山本願寺が攻撃。信長と石山本願寺との10年戦争がはじまります。浜松城を造り、入城した2日後に足利義昭から信長に加勢するように依頼が来て、摂津へ出陣することになります。大忙しの1年でした。

小阪城

小阪城

近鉄・八戸ノ里駅近くに城のイラストが描いてあるビルがあり、なかなかいい趣味だなと近くに行った時に写真に撮っておいたのですが、これが天下の名城である小阪城だったんですね。

小阪城というのは小阪駅近くの理容店の上にあったお城です。理髪店店主が手作りで作ったもので地元では有名なお城でした。ところが2018年9月に台風21号によって落城してしまいました。天守閣がぶっとんでしまったのです。落城してからも見に行きました。

ところがNHKのBSプレミアムの番組「まいど!修繕屋です」(ダイアン主演)で復活プロジェクトがスタートしたそうで、再建はもういいという店主の声から城の絵を描くことに。あの城は小阪城だったんですね。けっこうでかいです。

大洞弁財天(彦根)

大洞弁財天(彦根)
大洞弁財天(彦根)

写真じゃ分かりませんが山門の先に彦根城の天守閣がちょうど真ん中に見え、山門の扉が額縁のようになっています。彦根城の鬼門の方角に作られたのが大洞弁財天で大洞山の中腹にあります。日光東照宮を改修する時に総奉行だったのが第4代藩主・井伊直興が、厄除けとして建立しました。

山の中腹にあるので、ひたすら階段を登らないといけませんが上まで登ると琵琶湖などが一望できます。

銅鐸博物館

銅鐸博物館
銅鐸博物館

野洲にある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に立ち寄ると、3月末まで設備工事ということで休館していました、永原城の資料が見たかったのに、残念。ここは出雲の加茂岩倉遺跡でたくさんの銅鐸が出る前に24個もの大量の銅鐸が出たことで有名です。そのうちの一つは日本一の大型銅鐸です。付近には大岩山古墳群があり、博物館内の宮山2号墳では石室に入ることができした。また銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園があり、高床倉庫、竪穴住居などが復元されています。

野洲付近は古代史で有名な土地で、銅鐸博物館から少し行った野洲と栗東の間にあるのが伊勢遺跡です。摩訶不思議な遺跡で中心部に方形に配列された大型建物がならび、その周り(直径220m)に等間隔で円周上に建物が並びます。この建物が大使館のようなもので、各地域の首長は中央に集まって会議したのではないかと色々な説があります。この後に登場するのが人工都市・纏向遺跡になります。

追分

追分
追分

国道308号は大阪の難波から奈良(平城京)を結ぶ国道ですが、酷道という名前がついています。特に暗峠を超えるのは大変で車は4駆でないとまず無理です。暗峠を超え進んでいくと矢田丘陵上に追分があります。暗越奈良街道を、そのまままっすぐ進むと奈良に至ります。遠くに若草山が見えています。奈良時代から江戸時代にかけて、この道がメインルートで、多くの旅人が行き来しましたが、今は時たま車が通るぐらいです。

追分を右に曲がると大和郡山へと向かいます。追分には本陣・村井家住宅が残っていて江戸時代は大和郡山藩主の休憩に使われました。奈良に入ると大和郡山領でしたので暗峠に残る石畳は大和郡山藩が整備し、暗越奈良街道の管理もしていました。

霊山寺

霊山寺
霊山寺

大和角山城の近くにあるのがバラ園で有名な霊山寺で、寄ってみました。山に造られた寺院で山城みたいな伽藍です。さすがにバラは咲いていません。

寺の来歴によると敏達天皇の頃は小野家の土地だったそうです。小野氏といえば和爾氏ですなあ。敏達天皇というと物部守屋や、蘇我馬子が活躍した頃です。小野妹子の息子といわれる右大臣・小野富人は壬申の乱に加担したとかで職を辞して登美山に閑居。ここが今の霊山寺で薬草を育て、薬草湯屋を設け、湯治をしました。

神亀5年(728)に流星が宮中に落下する事件があったそうで、孝謙皇女(聖武天皇と光明皇后の娘)がノイローゼになった時に聖武天皇の夢枕に小野富人が現れて、薬草湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとお告げします。そこで行基が代参し、皇女の病が直ります。ノイローゼなら、そら直るでしょう!天平6年(734)聖武天皇は行基に霊山寺建立を命じます。

彦根の辻番所

彦根城やキャッスルロードへ行く観光客は多いのですが、もうちょい足を延ばすと足軽組屋敷があります。彦根城を整備する時、外堀と芹川との間に足軽を住まわせ700戸という大規模になりました。今も当時の町割りが残っています。

辻番所
辻番所

町の大辻通りと中辻通りが交差する辻には辻番所を設置して、辻の監視を行っていました。当時の屋敷がそのまま残っていて、辻に若干張り出た、監視窓から交代で監視できます。時代がすすむと足軽屋敷がどんどん普通の住居へ変わっていきましたが、市民によるトラスト運動が起きて保存が決定し、彦根辻番所の会が結成されボランティアで維持・管理をしています。土日などは公開されて説明をしています。

多賀大社

城巡りのついでに多賀大社へ。拝殿前にはずらっと参拝客が並んでいたので、ショートカットして脇から参拝してきました。

多賀大社
多賀大社

多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、日本創成の神様です。天照大神の親にあたりますから「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢お多賀の子でござる」と歌われました。近江国の一宮は建部大社で、二宮・日吉神社と続き、多賀大社は三宮になります。 

このあたりは犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)で有名な犬上氏の土地です。犬上御田鍬は推古天皇の時代、最後の遣隋使で最初の遣唐使になった人物として日本史で習いましたね。もともと多賀大社はこの犬上氏の氏神を祭っていたという説もあります。

富雄丸山古墳

富雄丸山古墳へ。

富雄丸山古墳
富雄丸山古墳

前例がない鼉龍(だりゅう)文盾形銅鏡と蛇行剣が出土した発掘現場が本日まで一般公開されています。富雄丸山古墳は全国で最大規模の円墳でホタテ貝のような造り出し部分から見つかりました。ちょうど近くへ行く用事があったので、のぞいてきました。まあ皆さん考えることは同じで、長い行列が待っていました(笑)。

1時間ほど列に並んで古墳の下へ、ここから20人程度を1組にして昨日の雨でぬかるんだ丘を登っていきます。けっこうな急坂で2人ほど見事にすべっていました。山城登りと同じですなあ。

被葬者は分かっていませんが富雄のトミは登美、鳥見という神武天皇以来の地名の地ですから、有力者でしょうね。

興隆寺町 八坂神社

椿尾上城へ行く途中に八坂神社があったので寄ってきました。八坂神社は尾根上にあり神社の両横が崖になっていて、まるで切岸のよう。山城として活用できそうな場所です。

八坂神社
八坂神社

八坂神社は興隆寺町にあります。ただ興隆寺町という名前ながら肝心の興隆寺が見当たりません。Googleマップにも出てこないので、こういう時は法人番号検索です。興隆寺町で検索すると4件ヒットして、八坂神社もありましたが、探している興隆寺がありませんでした。

近くにある興隆寺城について調べると中心部は藪だらけで踏破できないとあり、断念したんですが城へ登る途中に廃寺跡があるそうです。これが興隆寺だったんでしょう。