サンパルがいよいよ建て替え

神戸・三宮にあるサンパルが、いよいよ建替工事に入るということで、神戸に行ったついでに見てきました。ほとんどのテナントが撤去していました。

サンパル
サンパル

2013年~2016年の3年間、サンパル6Fにあった「ひょうご産業活性化センター」で経営相談をやっていましたので毎週、行っておりました。阪神電車で行くと東口からミントや地下スーパーを通って雨の日に濡れずに行くことができました。もっとも朝はスーパーが閉まっているので濡れないといけないのですが(笑)

ランチはサンパル1Fにあった金魚で日替わりランチを食べていました。古書店もあったし、隣のダイエーにはジュンク堂(ダイエーはなくなりました今もジュンク堂はあります)もあり、めちゃくちゃ環境がよかったですね。1Fには大きくて安い事務用品専門店もありました。そうかサンパルがなくなるのかと、しみじみ。

磐余甕栗宮

雄略天皇の息子が第22代・清寧天皇です。雄略天皇が倭王「武」ではないかと言われていますので倭の五王の次の時代の天皇となります。在位期間がわずか4年間で妃も子供もいなかったので実在しなかったのではという説もあります。清寧天皇の後は雄略天皇に殺された市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)の子で播磨に逃げていた兄弟(仁賢天皇、顕宗天皇)が即位します。

御厨子神社
御厨子神社

実在したかどうか分からない清寧天皇の宮が磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)。磐余池を高台から見ることができる場所に御厨子神社(みずしじんじゃ)があり、ここが磐余甕栗宮と言われています。境内には真っ二つに割れた岩があり、柳生にある一刀岩のようです。あちらは鬼滅の刃人気になっていますが、こちらは誰もいません(笑)。

磐余玉穂宮

Googleマップで見ると若櫻神社(履中天皇磐余稚桜宮跡)のすぐ近くに継体天皇磐余玉穂宮跡とあります。磐余池のすぐ横で、現地へ行ってみましたが畑が広がり何もありません(笑)。

Googleマップ
Googleマップ

継体天皇は応神天皇の5世の子孫とあり、5世ともなると血統の薄さは1/32ですね。大和朝廷で何らかの事態があったようで越前や近江を拠点としていた男大迹王を招いて継体天皇となります。当時は水運が物流の要でしたので宮は淀川沿いに造られました。

樟葉宮(即位した場所)-京阪・樟葉駅から東に歩いた高台にあります。
筒城宮ー同志社大学・田辺キャンパスにあります
弟国宮ー阪急・長岡天神駅から行けるのですが、まだ行ったことありません

磐余玉穂宮ー晩年になって、ようやく大和に入り磐余池近くに宮を作りました。

天の香久山

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
持統天皇の歌です。

天の香久山

日経新聞「私の履歴書」が里中満智子で、1983年に「天上の虹」を編集者に短めの連載にしてねと言われながら連載開始。結局、32年もの連載となりました。主人公はもちろん持統天皇です。香久山・頂上からは畝傍山や二上山がよく見えます。また国常立(くにとこたち)神社があり、天地創成神話の国土神の最初の神さまです。

香久山は特別な山だったようで長髄彦に敗れた神武天皇は遠く、熊野から大和入りします。この時、密かに天香山の土をとって来させ、平皿八十枚と瓶を作って天神地祇を祀ります。これで勝ちます(笑)。ほんまかいな~あ。特別な力があったのが香久山のようです。

軽の池

近鉄・橿原神宮駅の近くにあるのが石川池(剣池、軽の池)。「軽の池の浦 うらみ行きみる鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに」(軽の池の浦を泳ぎ回る鴨ですらも玉藻の上に独りで寝ることはないだろうに…)という紀皇女(きのひめみこ)の歌が万葉集に掲載されています。池のほとりに孝元天皇陵がありますが、ホンマかどうかは分かりません。

軽の池
軽の池

南北に走る上ツ道が山田道になって東西を走るようになり軽で下ツ道と交差します。交通の要衝ですので飛鳥時代には「軽市」と呼ばれる市場があり、繁華街で出会いの場でもありました。柿本人麻呂も妻を軽市でゲットしたようで、妻が亡くなると軽市の雑踏の中に亡き妻の面影を求める歌を残しています。

軽には懿徳天皇・孝元天皇・応神天皇が宮を置いたと日本書紀に書かれていますが、懿徳天皇・孝元天皇は欠史八代(実在が怪しまれる)なので、ホンマかどうかは分かりません。

山田寺

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏でありながら、乙巳の変では中大兄皇子、藤原鎌足側につき新政権では右大臣に任じられます。そこで建立を開始したのが山田寺です。上ツ道から山田道に入る所に安倍寺の建立がはじまり、山田道沿いの飛鳥入口にあたる部分に山田寺が建立されます。

山田寺
山田寺

ところが謀反の噂が流れ、石川麻呂に孝徳天皇の軍勢が差し向けられても抵抗せず、山田寺で自害します。石川麻呂は冤罪だったと言われますが諸説あります。なんか山背大兄王の事件とよく似ていますね。

■山田寺仏頭
山田寺の建立は中止されていましたが、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后の菟野皇女(持統天皇)の尽力もあって完成します。興福寺の僧兵が力を持つようになると山田寺に押し入り、本尊を強奪してしまいます。その後、火事などがあり仏頭だけ残り、現在、興福寺国宝館に公開されています。行くたびに「山田寺から奪い取りやがって」と見ています。

■東回廊
山田寺はやがて荒廃していきますが、現在も水気が多いこともあり倒れた東回廊が、そのまま地中に残っていました。復原された形で飛鳥資料館に展示されています。

畝傍山

【奈良まほろば検定 模擬試験問題】
問 大和三山で山頂や山腹に神社がないのは
ア.畝傍山 イ.天香具山 ウ.耳成山

とっても簡単な問題ですね。正解は「畝傍山」です。天香久山の頂上には国常立神社、耳成山は頂上手前に耳成山口神社があります。ちなみに耳成山口神社の裏手に山城跡が残っています。

畝傍山の麓に畝傍山口神社があります。越智氏(南朝方で戦国時代は筒井氏や十市氏と戦いました)が貝吹山城を造る時に神社を見下ろすのは恐れ多いということで麓にあった畝傍山口神社を山頂へ移します。貝吹山の方が畝傍山より10mほど高いのでホンマの話がどうか分かりませんが、畝傍山口神社の説明に書いてありました。

二上山
二上山

昭和になり畝傍御陵や橿原神宮などが整備される時に見下ろすのはまずいという話になり、また麓に遷座されることになります。ですので畝傍山山頂には神社がありません。畝傍山は大和三山の一番西側なので二上山などが見られます。

龍田道

古代官道シリーズの最後です。

南北方向に並ぶ古代官道が上ツ道、中ツ道、下ツ道です。東西を結ぶのが横大路ですが、北にもあります。天理市の櫟本から法隆寺近辺を結んでいたのが「北の横大路」で斑鳩を超えると龍田道になります。難波津・四天王寺と斑鳩・法隆寺を結ぶ街道として整備されました。

龍田道
龍田道

「北の横大路」は龍田神社を超えると大和川沿いの龍田道をすすみます。峠という土地がありますが、名前と違って標高100mもないので楽の登れます。飛鳥時代は竹内街道よりも急ではない龍田道がよく使われ、聖徳太子や遣隋使の裴世清、聖武天皇などもよく利用していました。

八木札ノ辻

古代官道ファンの皆さん!そんな人はいないって(笑)。

八木札ノ辻
八木札ノ辻

いよいよ下ツ道です。藤原京の西端と平城京の朱雀大路をまっすぐ結ぶ官道でした。一部が残っていて今の国道24号の約250m西方を並行して走っています。この下ツ道は江戸時代になると中街道と呼ばれるようになります。横大路は伊勢街道(初瀬街道)と呼ばれ、飛鳥時代からずっと使われています。

この下ツ道と横大路が交差するところが近鉄八木駅のすぐ近くにあります。交差点は「八木札ノ辻」という名前で伊勢参拝や大峯山への巡礼客などでにぎわっていました。交差点角にあったのが旅籠で、現在は整備され八木札ノ辻交流館という名前で客間や坪庭などの見学ができます。

中ツ道と横大路の交差点

藤原京から平城京を結んでいたのが上ツ道・中ツ道・下ツ道の3つの官道です。

■中ツ道
中ツ道は字の通り上ツ道と下ツ道の間にあり、南は藤原京の東端から北も平城京の東端を結んでいました。さらに南へ行くと香具山を迂回し、飛鳥の橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれていました。さらに南に向かうと吉野へ通じています。壬申の乱の舞台ですねえ。

中ツ道と横大路の交差点
中ツ道と横大路の交差点

■横大路
横大路は東西の官道で三輪山の南から葛城市の二上山付近まで、ほぼまっすぐに整備されました。三輪から東側は伊勢街道となり、近世は伊勢参りに使われ伊勢街道と呼ばれていました。二上山から西側は竹内街道につながり、堺に至ります。ここから難波大道が出て難波京にいたります。

中ツ道(橘街道)と横大路(伊勢街道)が交差するところです。今はなんてことのない交差点ですが飛鳥時代はインターチェンジみたいな場所でした。