上賀茂神社前ロータリー

上賀茂神社の門前に位置するのが御園橋。昔は狭い橋でしたが拡張されて両側に歩道も整備されています。御園橋を過ぎるとちょっと下って上賀茂神社前のロータリーに出ます。日本では珍しいロータリーですが私が学生の頃にはあったので少なくとも40年前にはありましたね。

上賀茂神社前ロータリー
上賀茂神社前ロータリー

行き交う道が5本あって、おまけに上賀茂神社のバス停から出る道もあるのでロータリーでないと無理なんでしょうね。ここもきれいに整備されて拡張されていました。

京都産業大学に行く時に柊野(ひらぎの)経由の場合はよくこのロータリーを使っていました。そうそうヒラギノフォントの名前はこの柊野が由来しています。時たま上賀茂神社前を通らずに圓通寺から精華大経由でも行ってましたが、こっちは遠かったです。

煉瓦館(熊取)

大阪府よろず支援拠点のお仕事で熊取へ。大阪の南で関空の近くです。

煉瓦館
煉瓦館

熊取といえば雨山城と土丸城という山城で有名なところです。熊取にある煉瓦館(熊取交流センター)ホールで「インボイス制度とキャッシュレス」セミナーをしてきました。久しぶりの対面式セミナーで、主催は熊取商工会です。商工会にも会議室があるんですが煉瓦館の方が広いということでセミナーはもっぱらこっちなんだそうです。

煉瓦館はもともと綿布工場だったところを保存・再生したものです。中にはホールや会議室以外にレストランや染色教室などもありました。土地柄なのか、だんじりの展示もありました。山城以外に、こんなおシャレな所があるんですね。

加茂の流れに

「やさしい雨の 祇園町 加茂の流れに映る あなたの姿...」

昔、かぐや姫の「加茂の流れに」という曲がありました。

加茂川
加茂川

賀茂川といえば上皇となり権力を握った白河院が、権力があっても何ともならないものとしてあげたのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師」。賀茂川はよく氾濫していました。今は堤防がありますが、昔は木屋町通りぐらいから鞠小路ぐらいまでが河原になっていて牛馬の放牧や耕作地として使われていました。秀吉が作った御土居もこの洪水対策の目的がありました。

川を渡る場所として三角デルタが有名ですが府立植物園近くにもできていました。

みたらし団子の故郷

今年も葵祭の行列が中止になってしまいました。つまり鴨川ホルモーも中止なのかなあ(笑)。

下鴨神社
下鴨神社

葵祭の斎王代が禊をするのが下鴨神社の御手洗池(みたらしいけ)です。みたらし団子が生まれたところです。後醍醐天皇が下鴨神社に行幸した時に御手洗池で水をすくおうとすると、1つ大きな泡が出て、続いて4つの泡が出てきたそうで、これを団子に模したのが御手洗団子(みたらしだんご)になります。

まあ諸説ありまして、平安時代から御手洗祭があり、この時に境内で売っていたのが串に刺して焼いた団子が「みたらし団子」と呼ばれるようになります。いずれにしても下鴨神社が関係していそうです。

下鴨神社のパワースポット

下鴨神社はパワースポットとして有名で、摂社の河合神社では手鏡形の絵馬に描かれた顔にお化粧して願い事を記入する女性がたくさんいます。相生社は縁結びで有名で、こちらも女性がたくさん。

奈良殿神地
奈良殿神地

もっとも知られていないパワースポットもあります。境内には縄文時代から続く原生林・糺の森が拡がっていて、古代の祭祀遺跡が発掘されています。境内からちょっと離れたところにあるのが奈良殿神地で、小川に囲まれた小島(船島)は神様が天鳥船で降臨した所と伝わっています。これ以上のパワースポットはないのですが誰もいませんね(笑)。

下鴨神社の正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社。賀茂氏の神様で賀茂氏の祖は神武天皇を先導し、大和の葛城を通って山城に入ったと伝わっています。葛城といえば鴨氏なので関係があるかもしれません。

慶長天主堂跡

安倍晴明神社、近くにあるのが慶長時代の天主堂跡。

慶長天主堂跡
慶長天主堂跡

信長時代は鯉山や橋弁慶山がある鉾町に南蛮寺がありました。信長の家臣に弥助という黒人武士がいて、最後まで信長につき従います。本能寺の変で明智軍と戦った弥助は捕らえられますが、日本人でなかったため、南蛮寺に預けられます。イエズス会は弥助から本能寺の変などについて聞き、本国に報告しています。それ以降の弥助の消息は分かっていません。

信長のあと、秀吉が天下をとりましたが秀吉が伴天連追放令を出したことで南蛮寺は破壊されてしまいました。戦国時代、戦さの捕虜は人身売買されましたが、海外にもたくさん連れていかれたことが理由の一つにあったようです。

関ケ原の合戦後に家康の天下になると天主堂が復興され、これが慶長時代の天主堂になります。ところが家康の外交顧問だった英国人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が東インド会社の代理人でもあったことから布教ではなく貿易だけをしたいオランダとの貿易に傾斜。10年ほどでキリスト教が禁教となり天主堂も破壊されました。

事業再構築計画(安倍晴明)

事業再構築計画(安倍晴明)

テーマ:「泰山府君祭による寿命延長サービスの提供」

泰山府君祭
泰山府君祭

■事業内容:地獄にいる泰山府君(たいざいふくん 閻魔王の侍者で人のすべての寿命を記した帳簿を記録する担当者)に依頼して帳簿を書き換えてもらい、依頼した人物の寿命を延ばすサービスの提供

■新規性:病気にかかった時、従来、寺社仏閣に頼んで加持祈祷する神頼みしかなかった。新規事業では地獄にアクセスして根源である帳簿を改ざんができ今までにないサービスである。

■競合分析:競合となる芦屋道満や陰陽道の賀茂一族では同様のサービスを提供しておらず、市場にはない。

■市場性:貴族が求めるのは長寿、不老不死という根源的な願いであり、高価なサービスであっても市場性が高い。必要経費は祭壇、硯、筆などの備品で粗利も高い。

安倍晴明神社

一条戻り橋の近くにあるのが安倍晴明神社。そう、映画「陰陽師」の主人公として有名な安倍晴明です。屋敷跡に建てられ、一条戻り橋には式神を潜ませていたそうです。境内にあるのが晴明井で安倍晴明が念力により湧出させた井戸で、病気平癒のご利益があります。

晴明井
晴明井

安倍晴明の、はっきりした出生地は分かっていませんが、有力なのが大阪・阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅ちかくにある安倍晴明神社です。ひっそりとした神社でお参りする人はそう多くないですね。

福長神社

福長神社
福長神社

室町通りにある小さな社です。

福長神社ですが、もともとは宮中の神祇官西院に祀られていた神さまです。秀吉が聚楽第を作る時か壊す時に現在地に移ったとありますが、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」には現在の場所に福長神社が確認されるとあります。ということで洛中洛外図屏風をずっと見てみたのですが、どこにあるか分かりません。

洛中洛外図屏風は、もともと剣豪将軍として有名な足利義輝が狩野永徳に発注したものです。足利義輝は三好一党に殺されてしまったので、信長が上杉に”よいしょ”するために送ったものです。つまり室町幕府時代には室町通りに福長神社があったことになります。今は小さな通りですが室町通りといえば幕府に面したメインストリートでした。昔は大きな社でしたが火事で焼失してしまい、今は小さな祠がある神社になっています。

カンブリ

関西文理学院
関西文理学院

大学受験が華やかな頃、京都にあったのがカンブリ(関西文理学院)という地元の予備校です。本部の建物がまだ健在でした。

かって京都人文学園という民間教育運動がありました。スタートしたのは第二次世界大戦直後の1946年です。

■京都人文学園
一般教養を中心に自由な校風だったようです。「行動する思考人」の育成を目指していました。生徒が自治して、男女共学、無試験、無規則で革新的な教育を行っていたそうです。自由学園とも関係があり、旧制高校みたいな雰囲気ですかねえ。ただ学園を続けるのは大変だったようで1950年に閉校になりました。

■関西文理学院
ただ働いていた青年たちが教育理念を受け継いで夜間部を発足させ、これが社団法人京都勤労者学園となります。また赤字を解消するために1951年に予備校を創設。これが関西文理学院へと続きます。

京都人文学園の初代学園長は新村猛で、あの広辞苑を作った人物です。学園本部に当時の資料がいくつかあり、新村猛の自筆を見た時は感激しましたねえ。あの資料は長浜バイオ大学に引き継がれているのでしょう。