穴太野添古墳群

穴太野添古墳群
穴太野添古墳群

壺笠山城へ行くには穴太野添古墳群の横を通っていきます。穴太野添古墳群は琵琶湖を見下ろす高台にあり眺めは抜群。このあたりに180基以上あります。古墳からはドーム状の天井をもつ形態の石室やミニチュア炊飯具(カマド・カマ・コシキ・ナベ)の副葬品などが見つかっており渡来人の墓といわれています。

■日本への亡命者が多かった
渡来人の来訪で多かったのが白村江の戦いの後。百済から多くの渡来人が亡命してきました。日本書紀に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」とあり、蒲生に渡来人の一団がいました。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍、鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭になっています。東京の狛江市なども高麗からの渡来人が集団移転したのがきっかけです。南宋が滅んだ時も亡命者がたくさんいました

■渡辺党
天満近くの大川近辺に住んでいたのが新羅系渡来人のツゲ氏で、このツゲ氏が平安時代後期に「渡辺」と名前を変え、摂津の武士団である「渡辺党」となります。茨木童子で有名な渡辺綱も渡辺党です。豊臣秀吉が大坂築城に当たり替地を命ぜられ大川から移転。この時に氏神だった坐摩(いかすり)神社も移転しました。

茨木童子

かって日本には鬼がいました。と言っても竈門炭治郎じゃないですよ。

茨木童子
茨木童子

鬼といっても「カミ」ともよむので、もともとは山神のようなイメージだったのでしょう。鬼退治といえば大江山が有名です。酒呑童子という鬼が大江山にいて悪さをすることから勅命が下り、源頼光が坂田金時(金太郎のモデル)、渡辺綱らを引き連れて鬼退治する物語です。

酒呑童子には家来がいて、その一人が茨木童子。茨木出身ともいわれ源頼光の鬼退治でも生き延びました。

京都の異界スポットに一条戻橋があり、安倍晴明が橋の下に式神を潜ませていたとして有名な橋です。この橋に大江山の鬼退治の参加メンバーである渡辺綱が通りかかると若い美女が道に困っていました。そこで馬に乗せてやると、女は突然、鬼の姿になって、空中に飛び上がり渡辺綱を愛宕山に連れ去ろうとしましたた。刀で鬼の腕を切って難を逃れます。

米原湊

JR米原駅は琵琶湖からかなり離れた位置にありますが、駅にあるのが米原湊の碑。”なんでこんな内陸部に港が”と思いますが昭和初期まで米原駅西側には入江内湖が拡がっていました。昭和19年から昭和25年にかけて干拓が行われ今のような田園地域になりました。

米原湊
米原湊

古代から戦国時代にかけては朝妻湊が使われていました。入江内湖の北側にあり琵琶湖に面しています。船運が現在の高速道路のようなものでしたから北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。木曽義仲の出陣でも秀吉が京の大仏殿建立のための木材運搬に使われています。

しかし江戸時代に入り彦根藩主となった井伊氏が米原湊を御用港として保護し、湖上交通が制限され朝妻湊は衰退していきます。

巨勢寺跡

近鉄・JR吉野口駅から少し歩いた丘にあるのが巨勢寺跡。

巨勢寺跡
巨勢寺跡

飛鳥、御所、五條、吉野へそれぞれアクセスできる便利よい場所にあります。巨勢寺の創建は聖徳太子と言われ、飛鳥時代の瓦が出土しています。

巨勢氏の氏寺だったようで巨勢氏は武内宿禰の次男が祖で蘇我氏と関係があったのでしょう。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時には巨勢氏は蘇我連合軍に加わっていました。巨勢氏は朝鮮半島との外交・軍事に従事していました。

巨勢寺跡近くに檜隅と呼ばれる地域があり、ここは東漢氏の本拠でオンドル跡が見つかっており、渡来系氏族が多く住んでいました。国際都市だったようです。

石田三成の生誕地

大谷吉継の盟友といえば石田三成です。大河ドラマ「真田丸」では山本耕史が演じていました。

石田三成の生誕地
石田三成の生誕地

生まれたのは近江国坂田郡石田村。横山城の麓にあり三成が小坊主だった時、秀吉に温度が違うお茶を三回出した寺も近くにあります。勝者が徳川家康になったため、悪役として歴史に描かれていますが実像はどんな人物だったんでしょうかねえ。秀吉の汚れ役を引き受けていたため武断派からは嫌われていましたが清廉潔白で経理もやっていたので、けっこう細かい性格だったのでしょう。友人にするのはちょっと、という人物だったかもしれません。関ケ原の戦いの後、三成の佐和山城を接収した時にあまりに質素だったことに東軍側が驚きました。

徳川家康は関ケ原の戦いの後、実質的に武家の棟梁と認められますので転換点となりました。石田三成は徳川家の敵ですが主君のために戦った点は評価されており、子孫は生き延びて、なかには大名になっているものもいます。

長法寺跡

打下城から尾根道を下ると琵琶湖を一望できる別の丘陵があり、ここにあったのが山岳寺院・長法寺跡。昭和31年に地元の高島高校・歴史研究部によって再発見されました。寺の最古の記録が1205年(元久2年)に出てきますので鎌倉時代ですね。

長法寺跡
長法寺跡

鎌倉、室町と続き織田信長の焼き討ちで長法寺は廃絶したと伝わっていますが焼き討ちされた跡などは見つかっていません。ただ戦国時代頃には寺は廃絶し、その後は再発見されるまで山の中に眠っていたようです。

長法寺跡は整備されており広大な敷地にたくさんの坊跡が残っています。また石垣は自然石を積み上げた野面積の石垣が多様されています。こういった寺院の石垣技術が戦国時代の城郭に取り入れられていきます。それにしても山の上にこんな広大な寺をよく作ったものです。

穴太衆

壺笠山城の入口にあるのが坂本・穴太。

穴太
穴太

この地域のテクノクラートが穴太衆です。今でいえばAI技術者やデータサイエンティストといったところでしょうか。野面積とも穴太積とも呼ばれる自然石を使った石垣を造る技術があり、寺院などで用いられていました。

戦国時代になって城造りにこの技術が生かされることになります。六角氏の観音寺城や三好長慶の飯盛山城などには今でも見事な石垣が残っています。織田信長は小牧山城で石垣の城を実現しています。

織田信長や豊臣秀吉らの城郭構築に携わることで、江戸時代初頭までに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで造られました。秀吉や家康は各地域から大名を集めて天下普請などを行い、これで石垣造りを含めた技術移転が行われたようです。

えべっさん

”商売繁盛で笹持ってこい!” 宵えびすです。

額田戎
額田戎

家から歩いてすぐの額田戎へ。ふだんも全然、密でなく地元の人しか行かないえべっさんですがコロナ対策がなされていました。狭い境内がワンウェイに、いつもの甘酒コーナーやお神酒コーナーもありませんでした。境内前にいつも一つだけ出ているベビーカステラの屋台も今年はなしです。

お参りして、裏から木戸をたたき、さっそく縁起物を買ってきました。去年はコロナで大変でしたが、今年は商売繁盛になるよう、えべっさん、頼んまっせ!

天誅組 五条代官所

五條市役所があり、ここが天誅組の舞台となった五条代官所跡です。今は碑だけが建っていますが、ここが幕末を揺るがした舞台ですねえ。

五条代官所跡
五条代官所跡

■天誅組として蜂起するも、ちゃぶ台返し
文久3年、尊皇攘夷派が朝議を握り、尊王攘夷の断行を祈願するため孝明天皇の大和行幸が決定します。

このまま討幕に向けようという考えがあり、吉村寅太郎らが大和行幸に先行して幕府の直轄地だった五條に入ります。天誅組として蜂起し、五条代官所を襲撃して討幕の旗をあげました。

ところが京都で”八月十八日の政変”が起こります。会津と薩摩が画策し急進派の公家と長州藩を排除するクーデターで大和行幸は中止に。歴史に名高い”七卿落ち”となります。そうそう時代祭の行列にも出てきます。

これで天誅組は大義名分を失い賊軍になってしまいます。天誅組は高取城を攻撃しますが山城を攻める能力はなく、城から放たれた大砲に怖れをなして撤退。ここらへんは司馬遼太郎の短編『おお、大砲』、『五条陣屋』に描かれています。

鎮圧にあたったのがは紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などで天誅組は壊滅してしまいました。捕縛した浪士の寛大な処置を津藩から幕府にお願いしたのに、幕府が斬首したことが鳥羽・伏見の戦いで津藩が寝返る遠因になった説もあります。

堺筋本町タワー

堺筋本町タワー
堺筋本町タワー

今日は大阪産業創造館にある大阪府よろず支援拠点で土曜日の相談当番。

大阪産業創造館の最寄り駅は堺筋本町駅なんですが駅のすぐ横に以前は帝人本社がありました。地下鉄からそのまま帝人ビルのエスカレータで地上まで上がれて便利だったんですが、今は階段しかありません。

帝人本社は移転してしまい跡地には高層マンションができることになり、だいぶ出来上がってきました。地上37階建てで眺望抜群とありますが、高所恐怖症にとっては何の魅力もないですなあ。4階を超えると御免こうむりたいです。

これが山城になると高い切岸(崖)の上にいても平気でして、ここらへんの感覚は不思議ですねえ。