夏越の祓

令和2年も前半がまもなく終了。

夏越の祓
夏越の祓

ということで枚岡神社へ夏越の祓に。例年は6/30の法要が終わってから茅の輪くぐりができるのですが、新型コロナの影響か、もう通れるようになっていました。

枚岡神社はしっかりマーケティングをしており、夏越の祓と大祓(年末)前には案内、人形(ひとがた)、振込用紙などの祓いセット、きっちり届きます。郵送もできるシステムになっていますが、いつも神社へ納めに行っています。

今年は新型コロナの影響もあるので、夏越の祓をする人が増えるかもしれません。

生国魂神社・行宮

大阪府よろず支援拠点は堺筋本町の大阪産業創造館にあり、朝は谷四で降りて生国魂神社・行宮にお参りしてから向かっています。行宮といいながら本殿と隣には稲荷神社もある立派な神社です。「商売繁盛」を祈願しています(笑)。

生国魂神社・行宮
生国魂神社・行宮

行宮から、ちょっと歩いた大阪城内には御旅所があります。本殿は上六近くにあり大阪では「いくたまさん」と呼ばれています。祭神は生島神(いくしまのかみ)、足島神(たるしまのかみ)で日本国土の神さんです。

なんで谷町周辺に行宮と御旅所があるのか不思議だったのですが行宮は明治始めに氏子が土地を奉納して行宮が作られたようです。御旅所は昭和の初めに大阪城公園を整備する時に造られました。今は碑だけが残っています。「いくたまさん」は元々、御旅所があった所にありましたが秀吉が大坂城を造る時、上六近くの現在の場所に移しました。

本能寺の変

♪本能寺の変 本能寺の変 本能寺の変...♪とエグスプロージョンが歌ったダンスが話題になりました。。

本能寺
本能寺

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反で織田信長が殺されました。先日、発表された「本能寺の変 原因説50 総選挙」では暴君討伐説(※信長非道説)が1位になっていましたが、最近は信長ちゃぶ台返し説が有力です。

【信長ちゃぶ台返し説とは】
明智光秀は将軍家の足軽時代から近江田中城などで三好と戦ってきました。やがて信長に仕え、信長も上洛に際しては三好の残党と戦っていました。四国政策では明智光秀は長宗我部元親の取次をつとめ、信長も長宗我部に四国は切り取り次第と約束しています。ところが秀吉の毛利攻めから瀬戸内海の水軍をおさえる必要がでてきたため信長は三好の残党と組むことになり、長宗我部に土佐以外は返せ、さもないと滅ぼすと通告します。

光秀にとっては面目を潰される動きで、信長に意見しますが足蹴にされてしまいます。ここでブチッと切れてしまうわけですなあ。やってられるけえ、と本能寺を攻めることになります。光秀の目的は信長だけで信忠は眼中になかった可能性もあります。

実際のところはよう分からんというのが本能寺の変です。

近江幕府(桑実寺)

大河ドラマ「麒麟がくる」で向井理が演じる足利義輝が近江・朽木から都へ戻っていました。

桑実寺
桑実寺

当時、幕府の力が弱く何かあると外へ逃げていました。足利義輝のお父さんである足利義晴も朽木に逃げていました。しかもなかなか都へ戻れず、観音寺山の中腹にある桑実寺に実質的に幕府を移します。これが約3年続く近江幕府となります。

桑実寺の境内には室町時代初期の本堂(重要文化財)があり、ここに近江幕府があったんだと感激します!寺に通じる石段の両脇には当時、屋敷が建ち並んでいた様子が残っています。桑実寺の裏から登ると観音寺山城ですので、六角氏の庇護があったのでしょう。

桃太郎は奈良生まれ

竹取物語には藤原氏告発本という側面がありますが、同様に”おとぎ話”にはいろいろな側面があります。

桃太郎
桃太郎

桃太郎といえば鬼ケ島への鬼退治で有名ですが、一説には吉備津彦命による温羅退治伝説であると岡山では宣伝していますが諸説あります。

■吉備津彦命は奈良生まれ
孝霊天皇の皇子なので都があった黒田廬戸宮で生まれたといわれています。近鉄田原本線・黒田駅のすぐ近くです。吉備津彦命は四道将軍の1人となり、西道に派遣されます。

纏向遺跡の発掘で吉備が大和政権設立に貢献した強国ということが分かっていますが、どっかで方針があわなくなったのか吉備は政権に攻められる側となります。この時に吉備津彦命が派遣され温羅退治伝説になったと言われています。吉備津神社縁起物によれば犬飼という名前の部下がいたのと猿飼部、鳥飼部の一族を引き連れていたそうで、これが犬、猿、キジとなっていきます。ほんまかいなあ(笑)。

応天門の変と竹取物語

疫病シリーズ No4は応天門の放火犯とされた伴善男です。

朱雀門
朱雀門

貞観8年(866年)、応天門の変が起きます。応天門が放火され大納言・伴善男が犯人であるとされ伊豆に流罪となります。国宝「伴大納言絵詞」はこの事件を描いており応天門が燃えているのを見る群衆が日本史の教科書に出ていました。この時、事件の処理に当たったのが藤原良房。どうもうまく伴善男をはめたようで結局は古代からの名族だった伴氏(大伴氏)と紀氏の追い落としに成功しました。冤罪だったようです。

今昔物語には国中に疫病が流行った時に伴善男の幽霊が現れ、自身は行疫流行神となったが国に仕えた時の恩があるので本来は疫病で国中の者が病死するはずのところを咳程度でおさえていると言って立ち去ったそうです。

■藤原氏への憂さ晴らしだった竹取物語
藤原氏以外の氏族を追い落とすことで藤原氏は全盛時代を迎えます。そして出来上がったのが竹取物語。朝ドラの「エール」にもモチーフとして出てきます。かぐや姫に求愛する5人の公達がいますが4人は古代の官僚名簿「公卿補任」の文武5年(701)に出てくる名前と同じ。一人だけ違っているのが、くらもちの皇子です。この名前は公卿補任に出てきません。藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身で、語呂が似ているから隠語的に使ったのではという説です。藤原の全盛期に小説とはいえ、あからさまにはできなかったようです。竹取物語では「くらもちの皇子」をこき下ろし、ラストは、かぐや姫が汚きところから月へ戻るシーンですが、意味は藤原が支配する汚きところでしょう。竹取物語の作者は分かっていませんが紀貫之ら紀氏ではないかと言われています。

祇園祭

大好評の疫病シリーズ。誰も楽しみにしていないって!、という声は無視して第三段は祇園祭です。

綾傘鉾
綾傘鉾

今年は新型コロナのせいで中止となってしまいました。祇園祭のきっかけは貞観11年(869)の疫病流行です。5年前の貞観6年(864年)には富士山が噴火します。いわゆる貞観大噴火が起き、騒然とした時代でした。

祇園祭はもともと祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、神泉苑に66本(当時の国数)の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を繰り出して災厄の除去を祈ったことにはじまります。室町時代頃から山鉾巡行が始まりました。祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて参加します。

■蘇民将来子孫也
今も伊勢へ行くと軒先に注連縄が1年中飾られ木札にこの文字が書かれています。「蘇民将来子孫家門」という文字で、省略して「笑門」とも書きますが、昔は「将門」だったそうです。平将門との関係を言われることもあり、商売繁盛の面からも「笑門」に変更になりました。

旅の途中で泊めてほしいというスサノオに対し裕福な弟は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。後に再訪したスサノオは、蘇民の娘だけ茅の輪をつけさせ、蘇民の娘以外を滅ぼしてしまいました。なんちゅう神さんや!それ以来、ウチは”蘇民将来の子孫なんでよろしゅう”という札をつけることになります。

■祇園祭
山鉾や花笠は疫鬼対策の呪具、祭りの踊りは、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法で、これは今も相撲の四股として残っています。最終的に悪霊や疫鬼を八坂神社に集め、祭神のスサノオによって退散させます。

天平の疫病

疫病シリーズNo2は737年に起きた天平の疫病です。天然痘の大流行でした。

長屋王邸跡
長屋王邸跡

天平年間、藤原不比等には4人の息子がいました。武智麻呂、房前、宇合、麻呂で藤原四兄弟と呼ばれています。同じ頃に台頭していたのが長屋王。父親は壬申の乱で大活躍をした天武天皇の長男である高市皇子です。奈良そごう(その後イトーヨーカ堂→ミ・ナーラ)があった場所が長屋王邸で平城京極近の一等地です。

■長屋王
長屋王邸では夏には氷室から氷を運ばせて楽しむ生活をおくっていましたが、今でいう商家(邸宅+会社)のような家でした。平城京の東市、西市にも店を出していて、弁当(笥に入れて販売。今でいうホカ弁)と酒を出品していました。お米がたくさんあったので付加価値をあげて稼ぐ、なかなかの商売人です。

長屋王に近い人物が大伴旅人ですが、藤原四兄弟によって大宰府に追いやられます。大伴旅人が大宰府で行った梅花の宴での歌から令和となりました。軍事一族の頭である大伴旅人を追いやってから藤原四兄弟が無実の罪で長屋王を密告し長屋王は滅びます(長屋王の変)。

■法華滅罪之寺
長屋王の変の後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原政権を樹立します。ところが天平の疫病で四兄弟とも病死。長屋王の祟りと皆が噂します。一番ショックを受けたのが光明皇后で貧しい人に施しをするための悲田院、医療施設である施薬院を設置して慈善を行います。法華滅罪之寺(法華寺)を建立し、藤原氏の罪を何とかしようと邁進しました。

出雲神が祀られた大神神社

奈良東部に桜井があり南には飛鳥、北には邪馬台国畿内説の最優良候補である纏向遺跡があります。古代の超一等地で、ここに鎮座するのが大和一ノ宮・大神神社です。ご神体は三輪山です。

三輪山
三輪山

■疫病が原因だった
崇神天皇の時代、国中に疫病がはやり死者がたくさん出ます。いろいろと祈祷しましたが効果はありません。崇神天皇の夢に大物主神があらわれ子孫である大田田根子(おおたたねこ)に自分を参らせたら、うまくいくと言われます。大田田根子を探し出し、大物主神を祀らせたところ疫病が収まりました。こうしてできたのが大神神社です。

■疫病の原因は出雲神の祟り?
崇神天皇は実在した可能性のある最初の天皇で、有名なのが四道将軍の派遣で全国を掌握をはたします。ですので、「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれています。

不思議なのが高天原から天下った神様が天照大神など天津神で、子孫が天皇家です。中心地である三輪山に天津神を祀るのが筋ですが、なぜか国津神(土着の神様)である大物主神を祀ることになります。

しかも大物主神の別名は大国主大神です。そう出雲大社の祭神です。無理やり国譲りをさせたので、疫病の原因は祟りだと思ったんでしょうかねえ。

都市センターホテル

少し調べものをしていたら神楽坂にある旅館「和可菜」を発見。別名が「ホン書き旅館」ということで、作家や脚本家がこの旅館に籠って作品を作りあげました。円谷プロの金城哲夫も、ここでウルトラマンを書いていました。『エロ事師たち』などで有名な野坂昭如もよく「和可菜」を使っていて、他に平河町にある都市センターホテルも使っていたそうです。

■都市センターホテル
大学を出てSRAに就職した時、本社が平河町にあったので出張というと麹町のダイヤモンドホテルや都市センターホテルに泊まっていました。40年前なので建替え前の時代ですねえ。近くには平川天満宮があったなあ。

都市センターホテルはジャーナリストの梶山季之もよく使っていました。この人の「せどり男爵数奇譚」は面白かったな~あ。梶山季之が籠っていた頃、フロントにいたのが森村誠一で梶山季之から原稿を預かり編集者に渡していました。これに触発されて作家の道を歩みはじめます。