西国街道をゆく(嶋上郡家)

郡家

西国街道をゆく(嶋上郡家)

西国街道を歩いていくと郡家新町という住所があります。こんな古い町名がよく残っていますねえ。郡家とは律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った役所のことで郡衙ともいいます。伝馬制のために街道をゆく使者が利用する馬も用意されていました。律令時代、全国を60あまりの国に分け、さらに国を郡に、郡を里に区分していました。里は住民50戸程度で郡は2~20里ですので、今でいう町になります。このあたりは摂津国嶋上郡でした。

嶋上あたりの西国街道は幅はずいぶん狭くなりましたが、古代の山陽道とほぼ同じ位置を通っていました。当時の街道は溝をそなえた幅約10~12mの幅があり、ひたすらまっすぐで、まっすぐ通すために古墳が破壊されていました。嶋上郡家からは儀式の場である庁院や税を納める正倉などが見つかっています。庁院の西側には郡寺(芥川廃寺)もありました。

五右衛門の手形

五右衛門の手形

水無瀬神宮の入口に石川五右衛門の手形が残っています。

石川五右衛門が神宝の太刀を盗もうとして七昼夜潜んでいましたが、足がすくんで境内に入れなかったそうです。そこで門の柱に自分の手形を押して立ち去ります。泥棒がわざわざ証拠を残すようなことはしませんので、どう考えてもガセネタでしょう。

石川五右衛門という盗賊がいて処刑されたことは宣教師の日記にも出てきますので実在するのは確かです。今に伝わる話は江戸時代に創作されたもので、南禅寺山門で煙管片手に「絶景かな、絶景かな。」と言うシーンは有名ですな。

桜井の別れ

桜井の別れ

JR島本駅前の公園にあるのが楠木正成と楠木正行の銅像。世にいう「桜井の別れ」です。西国街道の桜井駅で、楠木親子がここで訣別し、楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなりました。「太平記」の名場面ですね。西国街道には実際に大原駅がありました。駅というのは官道に整備され、手紙や荷物を運ぶためにの中継ぎ場所で、馬が用意され次の駅までリレーされました。

感動的な「桜井の別れ」ですが太平記の創作のようで楠木正成の屋敷は京都の後醍醐天皇の内裏近くにありました。この時に楠木正行は同居していた模様です。世情が不安になった時に河内に楠木正行を送り返したようですので実際の別れは京都のようですね。

水無瀬神宮

水無瀬神宮

もともとは後鳥羽上皇の水無瀬離宮がありました。広大な離宮で、かなり離れた場所で庭園跡などが見つかっています。当時の天皇は離宮を作るのが好きだったようで鳥羽離宮などが作られました。離宮八幡宮(山崎)も嵯峨天皇が作った河陽宮という離宮跡です。

■承久の乱
後鳥羽上皇といえば承久の乱を起こした人物です。「鎌倉殿の十三人」でも描かれていました。後鳥羽上皇が城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行う名目で西国の武士を集めると1700ほどが集まりました。これはいけると判断し鎌倉を攻めることにします。鎌倉側は迎撃論が主流でしたが、公家出身の大江広元が出撃しなければダメだと主張します。ちなみに大江広元の子孫が長州毛利家になります。

後鳥羽上皇は敗北し軍備の放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐に流されます。

■鎌倉幕府が全国組織に
源平合戦で源氏が手に入れた平家の荘園は約500ケ所でした。承久の乱では6倍になり、西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ところが、西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが借金をチャラにする徳政令につながります。結局はシステム的に破綻し、倒幕になります。

■百人一首は後鳥羽上皇の鎮魂?
「ちはやふる」の百人一首ですが、作ったのは藤原定家です。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多いのが特徴です。また藤原定家は後鳥羽院と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

離宮跡に作られた水無瀬神宮は鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を祭っています。

山崎の戦い 天正10年(1582年)6月13日

山崎宿

西国街道に山崎宿があり、摂津と山城の境に位置しています。写真付近にあったのが山崎西黒門跡で宿場の西門でした。山崎で有名なのが秀吉と光秀が戦った山崎の戦いです。山崎は隘路になっており新幹線、名神、阪急、JRが狭い場所に集中しています。光秀としては山崎宿で戦うのが有利なのですが、光秀は山崎では戦わないという禁制を山崎に発行していました。油座などで経済が発展していた山崎の経済力を温存したかったようです。ということで山崎を抜けた小畑川が戦場になりました。光秀は小畑川に布陣し、長篠の合戦を再現するつもりだったという説もあります。

■中国大返し
山崎の戦いは秀吉が中国大返しをして勝ったという雰囲気ですが、実際に戦ったのは摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興です。もっとも「信長様は生きている」というフェークニュースを秀吉がばらまき、摂津衆をつなぎとめたのが大きかったです。諸説ありますが、中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇して戦になった模様です。

最初は互角でしたが秀吉軍が到着したため光秀軍は総崩れになった模様です。また秀吉が毛利と和睦した時に黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせるなど、勝つためになりふり構わなかった秀吉が一枚上手でした。

大山崎油座

離宮八幡宮

織田信長の楽市楽座、習いましたね。「座」というのは営業を独占する権利で、座に加盟しないと商売ができませんでした。JR山崎駅前にあるのが離宮八幡宮に大山崎油座がありました。座の構成員は離宮八幡宮の神人で、灯油を石清水八幡宮に貢納する役目がありました。

司馬遼太郎の「国盗り物語」では、若き斎藤道三が、離宮八幡宮の油商人として登場します。永楽銭の間に油を通して、穴のふちに油がついたら、お代はいらないといった口上をして業績を伸ばします。実演販売の鏡ですなあ。もっとも最近の学説では親子2代で美濃の国主になったようで、油商人をもししていたなら道山の父親のようです。

ヤマトタケル(伊吹山)

伊吹山

新幹線からよく見える伊吹山です。9合目から最後の標高100メートル少しを40分ほどかけて登れば山頂に着きます。標高が高いので涼しいかなと思っていましたが、山の上も暑さが厳しく登っていると汗だくになります。以前は麓から登れましたが大雨で道が崩れて登山道は閉鎖されています。

伊吹山といえば日本武尊ですね。山頂に像があります。東征の後、素手で伊吹の神と対決しに行きましたが敗れて病身になってしまいます。大和を目指しますが能煩野(亀山)で力つきて亡くなります。日本武尊は東奔西走して戦いますが、宋書倭国伝に倭王武(雄略天皇?)の上表文が掲載されており、先祖代々、東は毛人を征すること55国。西は、衆夷を服すること66国。渡って海北を平らげること95国とあるので、これが日本武尊に反映されているようです。

おやぢの会(海藤花)

海藤花

「おやぢの会」という夏と年末の年2回集まる面妖な会があります。平均年齢が高いため私でも若手になっています(笑)。

門外不出の裏側の話などが続々と出てくる危ない会でもあります。昨夜は北新地にある海藤花(かいとうげ)というお店が会場。何回か来たことがあるのですが、北新地は同じようなビルばかりなんで毎回、場所を忘れてGoogleマップに頼っています。昨夜は鱧づくし料理で最後のデザート以外はすべて鱧でした。鱧しゃぶの後の雑炊が絶品でした!

崇禅寺

崇禅寺

仕事で東淀川区へ行ったので、ついでに崇禅寺に寄ってきました。阪急京都線には普通しか止まらない崇禅寺駅があり、この崇禅寺に由来しています。

崇禅寺は天平年間に行基が創建したと伝わっています。このお寺で有名なのが足利義教の首塚。第5代将軍・足利義量が後継者を決めずに急死したため、石清水八幡宮で候補者を籤で選び、選ばれたのが第六代将軍・足利義教です。室町幕府の権威を高めるために恐怖政治を行ったため守護大名である赤松満祐に暗殺されます。これが「嘉吉の乱」で、日本史で習いましたね。

赤松満祐が京都から播磨に引き上げる途中、義教の首をこの寺に放置していったそうで首塚があります。ただ本当かどうかはわかりません。

吹割の滝

吹割の滝

ホテルから5kmほどのところに東洋のナイアガラと呼ばれる吹割の滝があることを発見。吹割の滝といえば大河ドラマ「葵 徳川三代」のオープニングに出てきた滝です。朝5時過ぎにホテルをスタート。坂を降りると湿地公園があり、ここから川沿いに遊歩道が出ていて散歩には最適。湿地公園に夜行くと蛍を見ることができます。久しぶりに蛍を見ました。

湿地公園から1時間ほど歩くと吹割の滝に到着。朝、早いので誰もいません。水量は少なったですが、なかなか迫力があり楽しめました。

吹割の滝がある片品川が長い間、沼田の地を浸食し見事な河岸段丘になっています。老神温泉は河岸段丘の上の方にあってエッチラオッチラ、遊歩道から登ることになります。朝から汗をかいたので大浴場でひと風呂あびてきました。