綾井の清水

綾井の清水

高石商工会議所の近くに綾井の清水がありました。綾織のように美しい水が沸くことから綾井になったそうで、綾井の地名の元になります。綾井の清水は農業用水などに利用されていましたが、今も街中に水路が通っており暗渠になっていないのがいいですね。

綾井はけっこう古い地名のようで中世には綾井荘がありました。綾井荘は広い範囲に分布していたようです。明治時代は取石村大字綾井として隣の取石(とろし)に取り込まれていました。取石も古い地名で奈良時代まで左溯れます。かって取石池があり万葉集に「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」とうたわれています。聖武天皇が紀伊行幸の際には取石に頓宮がありました。渡来系氏族である取石造の居住地ともいわれています。

西国街道をゆく(長岡京)

長岡京

住宅地に長岡京に大極殿跡などが点在しています。平城京から長岡京へ遷都したのは歴史で習った桓武天皇です。

■桓武天皇
桓武天皇は本来は天皇になる予定ではなかったのですが藤原氏の内紛から藤川百川によって帝位につくことにりました。母(高野新笠)の出自が低いことがコンプレックスだったようで、枚方の近くの交野(かたの)をしばしば訪れています。交野は母にゆかりがある百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地でした。ここで中国の皇帝が行っていた行事を行います。神武天皇が鳥見山で行って以来の儀式でコンプレックスをなんとかしたかったのでしょう。

■長岡京
延暦3年(784)年に長岡京に遷都します。前年に和気清麻呂を摂津大夫に任命し難波京の解体を始め、淀川を使って運びます。長岡京は後期難波京とをそのまま移したため同じ8堂になりました。平城京の仏教界は遷都に大反対。いろいろ確執があったところに発生したのが造営の指揮をとっていた藤原種継暗殺事件。関係者として早良親王が浮かび、皆さんよくご存じの「陰陽師」につながっていきます。

■伊勢神宮
桓武天皇は皇太子時代に伊勢神宮に参拝しています。紀作良(きのつくら)に命じ、延暦4年に斎宮を造営します。また桓武天皇の時代から「紙幣禁断の制」となり、個人的に参拝祈願すると遠流(島流し)に相当する重罪でした。

■武士の時代へ
桓武天皇は常備軍を持とうと健児の制(こんでいのせい)を始めましたがコストがかかりすぎて、結局は武士に丸投げ。昔は大王自体が戦いましたが、桓武天皇の時代から部下を征夷大将軍に任じ、刀を持たずに汚れ仕事を武士に任せるようになります。最初は命令すればよかったのが武士が力を持ち始め平治の乱あたりから貴族が恐れる存在となります。

西国街道をゆく(一文橋)

一文橋

西国街道が小畑川を渡るところにあるのが一文橋。山崎の合戦が行われた小畑川のずっと上流の方です。なんでも日本最古の有料橋なんだそうで通行料が一文だったことから一文橋と呼ばれました。今、見るとおとなしそうな川なんですが、何度も洪水により橋が流されることから架け替え費用の捻出のために通行料をとっていました。今は通行料を払わなくても通れます。

有料橋で有名なのが大井川にかかっている蓬萊橋で世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されています。テレビや映画のロケ地によくなっています。あとは祖谷のかずら橋ですね。十津川にある谷瀬のつり橋は無料で通れます。

西国街道をゆく(調子八角)

調子八角

西山天王山駅は2013年(平成25年)にできた阪急京都線の駅で長岡天神駅と大山崎駅の間にできました。住宅街や立命館中学校・高等学校があるので乗降客で賑わっています。駅を出ると交差点があって、調子八角という変な名前がついています。この交差点が西国街道と丹波街道の分岐点で丹波街道が調子八角で分岐し、大枝の沓掛まで進んで山陰道に繋がります。

■光秀が通る街道だった
亀岡城を出た明智光秀が本来は沓掛から丹波街道に入り、調子八角から西国街道を通って備中高松城を水攻めしていた秀吉の応援にいくはずが、沓掛からそのまま都へ入って本能寺の変を起こします。

■調子八角の由来
調子は山城国乙訓郡調子荘を本拠地とした調子氏に由来するそうです。もともとは下毛野氏だったそうで栃木あたりの豪族だったようです。八角は八角堂があったかという説などいろいろあります。交差点には元禄時代の道標が残っていて「右 あたご道」、「左 たんば道」と書かれています。西国街道から愛宕詣でするための道案内でした。

西国街道をゆく(神足)

神足駅

JR長岡京駅近く西国街道沿いの公民館前に神足(こうたり)駅の看板があります。1995年(平成7年)に神足駅から長岡京駅に駅名変更となり、それまで使われていた看板です。駅名が長岡京になっていますが大極殿跡などは阪急・西向日駅が近く、JR長岡京で降りると、かなり歩くことになります。神田神保町へ行こうと神田駅で降りるのと同じで学生時代にやりました(笑)。もっとも広い都ですから長岡京に駅が含まれていることは確かです。

神足は古い地名で桓武天皇が長岡京にいた時に夢を見ました。田村にあった池に天から神が降り立ち、都を襲おうとした悪霊を防いでいました。神を見ようとしても頭を上げられず足しか見えません。そこで神社を建て、これが神足神社となります。田村という地名も神足になりました。

西国街道をゆく(勝竜寺城)

勝竜寺城

山崎の戦いで敗北した光秀は勝竜寺城に入りますが、兵の脱走や離散が続いたため北門から脱出し坂本城を目指す途中、小栗栖の藪(山科)で農民の落ち武者狩りにあい命を落とします。脱走兵は西国街道を通って京都を目指し、長い列になっていたと宣教師が書き残しています。

勝竜寺城は南北朝時代からありましたが二重の堀など整備したのが細川藤孝です。ここは藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が結婚して新婚時代を過ごした城であります。勝竜寺城は公園になっていますが、少し離れた神足神社境内で惣構の跡が発見され、高さ6メートルを超える大規模な土塁・空堀が復元されています。

西国街道をゆく(山崎の合戦跡)

山崎の合戦跡

山崎宿から東を目指します。まずは山崎の合戦跡。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生し、6月13日に行われたのが山崎の合戦です。摂津から西国街道を進んできた秀吉軍と明智軍がぶつかります。天王山の戦いとも言いますが、実際に戦いの舞台になったのは山崎宿から少し東にいった小泉川になります。今は大山崎JCTがあります。

明智軍は川沿いに柵をもうけ長篠の戦いの再現を目指したという説もあります。戦いは雨が降る中、夕方にはじまったようで、最初は双方とも互角の戦いだったようです。秀吉側の池田恒興らが小泉川を渡り、明智軍の側面から攻撃したため浮足立った明智軍の雑兵が逃げ出し総崩れになります。

西国街道をゆく(生田神社)

生田神社

なくなったサンパル横の西国街道を行くとJR三宮駅になっていて街道が途切れます。昔は生田神社まで街道が続き、神社で南に方向を変えていて西宮神社と同じ構図でした。生田神社境内に生田の森があり、今は面影がありませんが枕草子に「森は大あらきの森、信太の森、生田の森」と記されるほどの森でした。

■源平合戦の舞台
京都は守りにくい土地のため平清盛は福原(神戸)遷都を行います。福原は南の瀬戸内海と北の六甲山脈で守られ、東の生田の森と西の一乗谷をしっかり守れば天然の要塞となりました。平家の都落ちでは生田から一乗谷につながる膨大な要害を作り上げ、制海権もおさえていました。結局、義経が鵯越から攻めてきますが、最近の学説では逆落としをしたのは地元の多田行綱で、義経は一乗谷で戦っていたようです。

■だまし討ちだった
どうも後白河法皇による騙し討ちだったようです。和平を勧告し、平家には武装解除して源平に戦争しないように申し伝えていました。そこへ義経が攻め込んできたので、完全な騙し討ちだったというのが実態のようです。

■神戸 地名の由来
生田神社に奉仕する44戸の神戸(かんべ)。神戸とは神社に税金をおさめるための土地のことです。この「カンベ(神戸)」が中世に「コンべ(紺戸)」になり近世に「コウベ」になったようです。

山崎からひたすら歩いた西国街道ですが神戸までたどりついたので西へ向かうのは終了。

西国街道をゆく(サンパル)

サンパル

西国街道を進んでいくと神戸三宮につきます。駅前のオーパー(昔のダイエー)、ミントの北側の細い通りが西国街道です。オーパー(ダイエー)から2階で連絡していたサンパルはきれいさっぱりなくなっていました。サンパル2階に「ひょうご産業活性化センター」があり、2013年から3年間、経営相談アドバイザー(木曜担当)を担当していました。阪神三宮駅から地下のスーパーなどを通って濡れずに行けるのがよかったですね。

昼休みになるとダイエーのジュンク堂へよく行っていました。またサンパルは古書店が多く入居していましたが、私が行っていた頃はロードス書房だけ残っていました。その少し前は伊勢の超書店万陽も営業していて、本好きには最適な場所でした。そうそう隣には三宮図書館もあって地方史などが充実していたので兵庫の山城を調べによく行っていました。

西国街道をゆく(阪神岩屋駅)

阪神岩屋駅

阪神三宮駅は地下にありますが、地下に潜りはじめるところにあるのが岩屋駅です。岩屋駅-春日野道駅ー三宮駅となります。駅のすぐ横を西国街道が通っています。地下化はけっこう古く1933(昭和8)年に地上を走っていた阪神電車は、岩屋~三宮間が地下になりました。

今は岩屋駅の改札口は西口しかありませんが、昔は東側にも東口がありました。道路からホームに降りる階段が今も残っていて、これが東口の名残です。地下に入る時に一瞬で通り過ぎる階段をよく見ていましたが、西国街道を歩くついでによってきました。岩屋の地名の由来は磐座(いわくら)説や古墳説(岩で家をこしらえた)などいろいろあります。