山之井

山之井

先日、泉南に用事があったので、ついでに山之井に行ってきました。

神武東征で、その頃は海だった大阪を超えて日下(東大阪)に上陸。ここから生駒山を越えて大和に入ろうと日下直越道(くさかただごえみち)を登っていくと、待ちかまえていたナガスネヒコ軍の攻撃にあいます。神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を受けます。一度、日下直越道をたどりましたが、なかなか大変なところに五瀬命負傷碑がありました。

神武軍は船で撤退し大阪湾を南下し泉南の山の井水門に着き傷口を洗いました。当時は今の南海本線などは海で、高地になっているところあたりが陸地でした。五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と無念のあまり雄々しく叫びます。古事記ではここで亡くなりますが日本書紀では紀国竈山で亡くなり竈山神社に祀られます。泉南では男神社(おたけびの宮)に祀られています。

物部村(守山)

物部村

守山を歩いていると「牛馬三昧之碑」という碑を発見。というより側面にある物部村という文字が目に入りました。

調べるとかって栗太郡物部村があり、奈良時代には既にあった地名で一時期は法隆寺の荘園があったようです。守山駅近く勝部神社はニギハヤヒや経津主神を祭り、物部氏の神さんだったんですね。

蘇我馬子と物部守屋との戦いを日本史で習うため物部氏が滅んだと誤解している人も多いのですが、守屋一統が滅んだだけで物部氏は全国に点在し物部系の神社があります。例えば名古屋の千種にある高牟神社は尾張物部氏の拠点があったところです。また近鉄中川駅のデルタ線の近くにも物部神社もあります。東大阪や八尾の多くの神社の祭神は物部の神さんです。デンボの神さんで有名な石切神社もそうですし、宮司は物部氏の一派である木積(こづみ)氏です。

下之郷遺跡

下之郷遺跡

下長遺跡の東にあるのが下之郷遺跡です。

弥生時代の環濠集落である下之郷遺跡ですが、堀の規模がすごく、まず中心部を囲む三重になった堀跡が見つかりました。さらに集落の外周を囲む形で三重の堀がめぐっていました。堀の幅が8メートル、深さ2メートルもあります。他にも堀跡があり、いくつの堀がめぐっていたのか今もって分かっていません。堀は水堀が主体でした。堀は土塁とセットですので防衛の意味もありましたが現在の貯木池のように木材の保管にも使われたようです。

米は熱帯ジャポニカ米を食べていたようで中国や朝鮮半島から伝わったのではなく東南アジアから直接入るルートがあったようです。

■倭国大いに乱れ
想定されている集落の大きさは東西330メートル、南約260メートルもあります。集落の入口には土橋があり銅剣や折れた弓などが見つかっていますので戦闘が行われたようです。弥生時代の平城ですねえ。時代は吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡などと同じ時代で邪馬台国よりも300~400年前古く、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国・・」と書かれた時代の国の一つです。

下長遺跡

狐塚古墳

「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読むと伊勢遺跡周辺の遺跡が面白そうなので、まずは下長遺跡へ。といっても遺跡の多くは工業団地になっていて小さな3基の古墳が点在しているだけです。下長遺跡は伊勢遺跡から北西に1.5kmほど離れたところにあり、弥生時代から平安時代まで使われていたようです。

古墳時代前期には首長の居館が作られ祭場もあり、儀仗が見つかっていますから王がいたようです。遺跡の中央を琵琶湖まで続く川が流れていました。船も見つかっていて、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったようです。琵琶湖は古代の高速道路ですので瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海とのハブでもありました。

下長遺跡は伊勢遺跡のための物資の集散、交易の拠点として使われていたようです。その後、大和王権がスタートし伊勢遺跡が終焉するとともに、下長遺跡はますます栄えますので、物流拠点のハブとして大いに機能したようです。

清風堂書店

猫

LEC梅田へ行く時、東梅田駅で降りて、まず目指すのは清風堂書店です。新刊書店ですが、棚が面白く大阪本を集めたコーナーや独特の選書をして、けっこう変わった本にお目にかかれます。

最近は「世界マヌケ反乱の手引書 増補版」と「大阪の街道を歩く」を買いました。創業1967年と60年ちかい老舗本屋で京都の寺町通にあった三月書房のような雰囲気ですね。この清風堂書店ですが2月28日で閉店するそうです。

理由は梅田セントラルビルの建て替えによる立ち退きで出版部門などは残るそうですが、あの本屋がなくなるのは残念。東梅田にあった旭屋書店ビルもなくなったし、対面にできたブックファーストもなく、あるのは地下街にある旭屋書店だけですが、あそこの品揃えはふつうの本屋だしね、ウーン。

卑弥呼を擁立した伊勢遺跡

伊勢遺跡

「倭国乱れ、相攻伐して年をへたり。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼といふ」有名な魏志倭人伝ですが、各国から王が集まり一女子を立てる話合いをした場所が伊勢遺跡ではないかと言われています。伊勢遺跡は突然、現れ、用が終わると消えます。その後に邪馬台国畿内説の有力候補である纏向遺跡ができます。

伊勢遺跡は滋賀県の栗東駅と守山駅の間の伊勢町にあります。昔、行った時は野原に立札ぐらいしかなかったのですが、ちょうど「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読んでいて遺跡公園として整備されているとあり、久しぶりに行ってきました。

見違えるように整備されていましたが、他に観光客がいません(笑)。遺構展示施設でマンツーマンで解説してもらい一人だけでビデオ上映してもらいました。

■弥生時代の国際会議場
伊勢遺跡は真ん中に方形の塀で囲まれた大型建物が並び、傍らに楼観があります。不思議なのは円周状に大型建物が並び、等間隔で真ん中の建物を取り囲んでいます。さながら真ん中が国際会議場で各国の大使館が取り巻いているようなイメージです。当時は通信が大変でしたので全権を委任された大使か王そのものが参画していたのでしょう。

久留倍官衙

久留倍官衙

久留倍官衙は「くるべかんが」とよみます。四日市市大矢知町の高台にあり、桑名での会議まで時間があったので、ついでに寄ってきました。近江と伊勢を結ぶ八風街道が近くを通っています。

官衙とは役所のことです。北勢バイパスの建設工事で遺跡が見つかり、バイパスはコースを変えて遺跡をまたぐ形に変更されて保存されました。久留倍官衙の最初は奈良時代で正殿や東門(八脚門)などの政庁が、東向きに建てられていました。一部が復元されていますが高台ですので四日市の街が展望できます。ただ政庁ではなく朝明駅ではないかとする説もあります。

久留倍官衙は長期にわたり使われたようで、壬申の乱では桑名へ向かう大海人皇子がこのあたりから伊勢神宮を遥拝して戦勝を祈ったともいわれています。また壬申の乱の道筋をなぞった聖武天皇の謎の行幸では頓宮が新しく造られたようです。遺跡は公園になっています。

高向

高向玄理

仁王山城がある旭ヶ丘団地を下ると高向という高台の街があります。高向ってどっかで聞いたな。と高向からさらに降りて道の駅・奥河内くろまろの郷まで下ると高向玄理の碑がありました。

そうか高向玄理って、河内長野出身だったんだあ。それで道の駅の名前にまでなっているんだあ。高向玄理って昔、日本史で習いましたねえ。遣隋使・小野妹子に同行する留学生として推古天皇16年(608年)に南淵請安、旻らと共に海をわたり隋に留学しました。留学中に隋から唐に変わり、30年以上にわたる留学を終えて帰国します。国博士となり政府の最高顧問で律令国家としての体制を整えていきます。

外交でも活躍し大化2年(646年)には遣新羅使として新羅に赴き、任那問題に活躍します。白雉5年(654年)には遣唐使として唐に赴きましたが長安で病死しました。

桑栄メイト

桑栄メイト

桑名商工会議所で経営発達支援計画推進会議があったので出席するために桑名駅へ。

桑名駅前東口に桑栄メイトがあったのですが、まだ残っていました。昔は駅から桑栄メイトを通って、桑名商工会議所が入っているサンファーレ2階にそのまま行けましたので便利でしたが老朽化もあり駅前再開発の一環で2020年7月末に閉館となりました。今は桑名駅を出て地上に降り、道路を渡り、また2階まで登らないと商工会議所までたどりつけません。

桑栄メイトを取り壊してナガシマスパーランドなどを運営する長島観光開発がホテルを建てる予定になっています。西口にもロータリーができて再開発しています。

水間観音

水間観音

興蔵寺城に登った帰りに水間観音にお参りに

聖武天皇の勅願で行基が開創したと伝わっています。戦国時代は秀吉と敵対する根来寺側についたため天正13年(1585年)に堀秀政に攻められて焼失します。江戸時代となり岸和田藩主である岡部氏が保護するようになり再建されます。

水間観音は「利生の銭」の逸話を井原西鶴が日本永代蔵に記載したことから全国的に有名になりました。一貫の銭を借りて帰った江戸の廻船問屋が、13年後に八千百九十二貫として返済奉納し廻船問屋はその功徳で末永く栄えたことから、仏から与えられた銭(利生)を翌年の初詣で倍額にして返し、商売繁盛などを祈る習わしとなります。