百舌鳥・古市古墳群が世界遺産推薦へ

津堂城山古墳
津堂城山古墳

百舌鳥・古市古墳群が近々、世界遺産になりそうですね。百舌鳥(モズ)なんて、よめない人も多そうですが、これで全国的になりそうです。

戦国時代、古墳は城として使わていました。高槻にある今城塚古墳は本当の継体天皇陵と言われていますが織田信長が三好一族と争った時に城と使われたことから今城塚古墳となりましたが、実際は地震の影響によって城跡のように見えたことが判明しました。

今回の世界遺産候補にも2つの城跡が入っていて、津堂城山古墳(小山城)と仲哀天皇陵(大坂夏の陣の真田丸)です。特に仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)は最近の調査によって道明寺・誉田の戦いで徳川家康軍を待ち受けるために真田信繁が築いたもう一つの真田丸だったという説が濃厚です。

今回の世界遺産リストには入っていませんが百舌鳥・古市古墳群には他にも大塚山古墳(丹下城)、安閑天皇陵(高屋城)、黒姫山古墳(丹南城)の3つの城跡があります。

卑弥呼の墓?箸墓

箸墓
箸墓

纏向遺跡にあるのが箸墓古墳です。遠くには二上山も見えます。 

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という舌をかみそうな名前の女性のお墓で実は三輪山の神様、大物主神の奥さんです。もっとも邪馬台国・畿内説では卑弥呼の墓と言われています。 

箸墓は最古級の前方後円墳で造られたのが土器の年代分析などから3世紀中ごろまでさかのぼる可能性が強まり、248年頃に亡くなったとされる卑弥呼の時代と合致するともいわれています。桜井市では「卑弥呼の里」として町おこしをしています。 

もっとも諸星大二郎の「妖怪ハンター」では耳成山が卑弥呼の古墳になっていましたが

ここが邪馬台国?纏向遺跡

纏向遺跡
纏向遺跡

奈良盆地には楼閣が描かれた土器が見つかったことで話題の唐子・鍵遺跡があります。環濠集落でしたがこの唐子・鍵遺跡が自然消滅した頃に纏向遺跡が作られます。 

三輪山のふもとに広がる広大な日本最初の都市で邪馬台国・畿内説では纏向遺跡が邪馬台国最有力候補となっています。特にJR巻向駅のすぐ近くで発見された大型の掘立柱建物群は卑弥呼の王宮ではないかと話題となりました。先日、行ったら案内板もできて柱跡もわかるようになり、きれいに整備されていました。 

纒向大溝と呼ばれる運河による水運があり、関東から九州までの各土地の土器が出土しているため、全国各地から権力者が集まっていたと考えられています。ひょっとすると国会のような会議を開いていたかもしれません。今は単なる奈良の田舎ですが、ここが大和政権発祥の地でした。 

与楽乾城古墳

与楽乾城古墳
与楽乾城古墳

飛鳥から越智に抜ける街道沿いにあるのが与楽乾城(ようらくかんじょ)古墳です。ずっと山奥に向かって与楽古墳群があります。 

掘削されたこともあり、だいぶ崩れていましたが整備されていました。奈良県では高さ最大(5.1mのドーム型玄室)の横穴式石室を持つ古墳で入口は鉄扉で閉じられていますが、近づくと内部に電気がついて石室内を見ることができます。ただ、ほとんど観光客が来ない場所で、地元住民は車で移動しますから貝吹山へハイキングで行く人ぐらいしか立ち寄らない古墳です。あとは古墳マニアですね。 

被葬者は東漢氏の首長墓といわれています。真弓鑵子塚古墳など、ここらへんは東漢氏の死者の谷だったんですなあ。

真弓鑵子塚古墳

真弓鑵子塚古墳
真弓鑵子塚古墳

牽牛子塚古墳から少し行ったところにあるのが真弓鑵子(かんす)塚古墳。畑の中にこんもりとした山があり、ここが古墳です。鑵子(かんす)とは湯釜のことで玄室の形が湯釜に似ていることから名づけられています。真弓は地名です。 

真弓鑵子塚古墳は墳丘が二段になった円墳ですが、最大の特徴は玄室の広さで床面積は奈良県内では見瀬丸山古墳(34㎡)に次ぐ28㎡の広さ(畳18畳分)があります。石舞台古墳は27㎡で、それよりも広いですね。横穴式石室になっています。 

被葬者はわかっておらず、このあたり古墳ではミニチュア炊飯具など渡来系要素をもつ遺物が多いことから東漢氏首長一族の川原民直宮(かわはらのたみのあたひみや)ではないかという説があります。 

東漢氏は阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団で、軍事力があったため蘇我邸の警備などもしています。真弓鑵子塚古墳を東に行った檜隈が東漢氏の本拠地でした。東漢氏の子孫からは坂上田村麻呂が出ます。また上杉の名跡を継いだ上杉謙信はもともと長尾景虎という名前でしたが、この長尾家が東漢氏の子孫となります。

牽牛子塚古墳は斉明天皇陵?

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

巨大古墳時代が終焉をむかえ、王墓は八角墳(正八角形の古墳)に移行していきます。道教に八角形が天下八方の支配者という考え方があり、王墓や首長墓などに活用されていきます。

■益田の岩船は失敗作?
飛鳥駅の西側の丘をずっと登っていくと牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)があり、ここも束明神古墳と同じ八角墳です。牽牛子とは朝顔(アサガオ)の別称で、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造になっています。2つの墓室といえば、有名なのが同じ飛鳥にある益田の岩船。

巨石に2つの穴が空に向かってあいていて古代から何に使った巨石か分かりませんでした。松本清張などは拝火教(ゾロアスター教)の拝火壇説を唱えていました。最新説では、もともと古墳の石室を加工しようとしていたところヒビが入ったため、そのまま放置して古墳の場所も移して牽牛子塚古墳になったのではといわれています。

■牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇
牽牛子塚古墳は円墳だと思われていたのが発掘調査の結果、八角墳ということがわかり、注目を集めたのが被葬者。日本書紀に合葬したという記録があり、斉明天皇・間人皇女ではないかと言われています。古墳は今、整備中です。

斉明天皇とは中大兄皇子のお母さん。舒明天皇が亡くなった後に皇極天皇として即位します。乙巳の変では切られた蘇我入鹿が皇極天皇に向かい「私に何の罪があるのか」と叫んだと記録されています。孝徳天皇の時代となり飛鳥から難波京に遷都しましたが、孝徳天皇亡き後、また飛鳥に戻り即位(史上初の重祚)し、斉明天皇となります。

■先日、発表された四天王寺の亀形石造物
斉明天皇といえば飛鳥で運河などの大規模な土木工事を盛んに行いました。また飛鳥の観光スポットになっている酒船石や亀形石造物も作っています。そうそう先日、この飛鳥の亀形石造物と同じ時代に造られたのが四天王寺の亀井堂にある亀形石造物と発表されていました。昔から経木流しに使われていたのがあの亀形石造物がまさか斉明天皇時代だったとは驚きでした。

草壁王子のお墓?束明神古墳

束明神古墳
束明神古墳

飛鳥からずっと西に行くと真弓の丘があります。佐田の地にあるのが束明神古墳。佐田集落の一番奥の高台に春日神社があり、神社の境内に束明神古墳があります。 

これがなんと八角墳!7世紀後半に造られた古墳です。被葬者はわかっていませんが、佐田では束明神古墳が草壁皇子(岡本天皇)の墓と伝わっています。万葉集や続日本書記にも佐田丘陵に草壁皇子に葬られた事が記載されており、ましてや八角墳ですので可能性は高そうです。明治時代に天皇陵の比定がはじまりますが、天皇陵に指定されると村の立ち退きがあると噂がたったため束明神古墳の石室上板を隠し、役人が古墳の上から鉄の棒をいれて石室を確かめる探査を免れたそうです。ですので、現在比定されている岡本天皇陵は南に300mほどずれたところにあります。 

草壁皇子といえば天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子で、大津王子が殺された後、王位継承の本命でしたが即位することなく28歳の若さで亡くなります。

マルコ山古墳

マルコ山古墳
マルコ山古墳

飛鳥の西側、真弓丘陵にあるのがマルコ山古墳。

山のふもとにポコンと帽子のような古墳があります。当初は円墳と思われていましたが、発掘調査の結果、六角墳ではないかと言われています。大王墓は八角墳ですので、六角墳は大王に次ぐ位である皇太子や皇子の墓とみられています。一説には被葬者は天智天皇の第二皇子である川島皇子ではないかと言われています。川島皇子は天武天皇の皇女が妃だったので壬申の乱時には天武天皇側でした。「帝紀」、「上古諸事」の国史編纂に携わっています。

親友であった大津皇子の謀反を密告したと言われていますが、本当のところはわかっていません。35歳で亡くなりましたがマルコ山古墳からは30歳代の男性と見られる人骨が出土しています。

市尾墓山古墳

市尾墓山古墳
市尾墓山古墳

高取町の市尾にあるのが市尾墓山古墳。平地のど真ん中に草がきれいに刈りとられた、こんもりとした山の形であります。古墳のすぐ南には紀路と呼ばれる飛鳥から古瀬谷を経て紀ノ川沿いに紀伊水門まで通る古くからの街道が通っています。 

市尾墓山古墳は6世紀前半に築造された前方後円墳で全長70mほどあります。1978年の発掘調査で、後円部の横穴式石室から家形石棺が確認され国の史跡になっています。地元の豪族の墓ではとあるので、この付近を治めていた巨勢氏の可能性が大きいですね。前方後円墳の一番上まで登れ、二上山や金剛山などが眺められます。

薬師寺東塔

薬師寺 東塔
薬師寺 東塔

西ノ京へ行く用事があったので、ついでに薬師寺に寄ってきました。 

長く修繕工事をしていた東塔もいよいよ最終段階。2020年4月に落慶法要が行われます。GW中、修理作業現場での最後の一般公開が行われており、えっちらおっちら階段を登ってきました。最上階では相輪がまじかにみえ、上の水煙もよく見えます。また塔の鬼瓦は4方向とも全然、違う顔をしているんですね。 

東塔の上から西塔が見えるのが特にいいですねえ。今回の解体修理が行われたのが110年ぶりなんで、次に見るチャンスは絶対になさそうです。