行基の久米田池

久米田池
久米田池

灌漑施設のインフラ整備を行ったのが行基で久米田池、狭山池、昆陽池を作りました。狭山池は日本最古のダム式ため池として有名で、昆陽池は伊丹空港から出た飛行機からミニ日本列島が見えることで有名です。

久米田池は大阪府内最大の面積を持つため池で、周りを歩くと大きさが実感できます。神亀2(725)年~天平10(738)年の14年をかけて造られました。池を管理するために隆池院(現在の久米田寺)が整備されます。敷葉工法で堤が造られ、1300年経った現在も現存しています。

■異端だった行基
民衆への仏教の布教活動が禁じられていた時代、禁を破って布教する行基とその集団は異端と思われており、続日本記には「平城京の東の丘陵で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている」と記載されています。橋をかけるなど社会事業を推進しており反政府運動でもないので政権側から接近し最終的には大仏建立のプロジェクトマネージャーに就任します。

近鉄の大阪線と奈良線が分岐する駅が布施駅で布施という地名は困窮者のための福祉施設である布施屋があったことに由来しています。

光明皇后のお墓が岸和田にある?

光明塚古墳
光明塚古墳

久保田寺の境内にあるのが光明塚古墳。昔は光明皇后塚と呼ばれていたそうですが、光明皇后のお墓は奈良の佐保山東陵にあるので何とも不思議な話です。もともとは直径25メートルから30メートル程度の円墳だったようで、もちろん光明皇后の奈良時代よりも古い時代の古墳です。

久米田寺の近くにある光明池は光明皇后生誕伝説から名づけられましたので、まんざら縁がないわけではなさそうです。光明池というと光明池自動車教習所のCMを思い出しますなあ。

また聖武天皇を補佐したのが橘諸兄、吉備真備、玄昉ですが、橘諸兄は光明皇后と異父兄妹で灌漑用のため池である久米田池を作ったのは行基&橘諸兄コンビです。久米田寺近くの貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝えられていましたが、これも時代があいませんし本来の墓は井手町にあります。

聖武天皇の命のもと橘諸兄や行基が中心になってインフラ整備を行ったことから、そういった伝説が地元で広がっていったようです。

行基が開祖した久米田寺

久米田寺
久米田寺

楢原氏の菩提寺である九品寺は行基が開祖と伝わるお寺ですが、青森県から宮崎県まで行基が開基したとの伝承がある寺がなんと約600!。まあ聖徳太子伝説と同様にあやかってということでしょう。

岸和田にある久米田寺は正真正銘、行基が開祖となっています。行基が開祖した49院というのがあり、その中にある隆池院(久米多)が現在の久米田寺です。創建は738年と伝わっています。久米田寺の隣に久米田池という人工池(ため池)があり、聖武天皇の命をうけて行基が開削し、この久米田池を維持管理するために作られたのが久米田寺です。

戦国時代は三好実休と畠山高政が戦った久米田の戦いや織田信長による高屋城の戦いの兵火等により、寺はほぼ焼失しますが江戸時代に本堂などが再建されました。

おやぢの会2019

ふぐ久
ふぐ久

冬はふぐ久。
空揚げは言ふべきにもあらず、白子のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、フグ鍋持て渡るも、いとつきづきし。

ということで雨降る中、鶴橋の「ふぐ久」で恒例の「おやぢの会」。とっても平均年齢が高い会で、しかも会話の半分以上が下ネタという会です。フグ雑炊、おいしかった!

九品寺

九品寺
九品寺

楢原城からずっと下ってくると楢原氏の菩提寺である九品寺があります。九品寺からは眺めがよく畝傍山など大和三山や大和盆地がくっきり見えます。

九品寺は行基が開祖と伝わるお寺で有名なのが裏山にあるのが千体地蔵です。楢原氏は南北朝時代は越智氏とともに南朝側でした。後醍醐天皇による建武新政が崩壊すると、日本全国は南北朝の動乱時代となります。大和でも吉野や金剛山が戦場となるなか楢原城(奥城?)を拠点に楢原氏は戦っていました。

楠木正成に味方して参戦した楢原氏の兵士たちが自分の身代わりとして地蔵を九品寺に奉納したと伝わっています。千体どころか1800体あるといわれ、ということは楢原氏はかなりの勢力だったんですね。

大伴金村の金村神社があった

金村神社
金村神社

新庄の地図を見ていて気になったのが金村神社という文字。まさか大伴金村?

布施城に登った帰りに寄ると小さな社があり、祭っていたのは、まさに大伴金村!ピンポン!しかも式内社です!

でもなんで葛城氏の地に金村神社があるんですかねえ。大伴金村といえば武烈天皇が亡くなった時に応神天皇の玄孫(5世孫)を越前国から迎え、継体天皇とした人物です。なんせ5世孫が皇位を継いだので、この時に王朝が交代したという説もあります。

■任那4県割譲事件
大伴金村が有名なのが任那4県割譲事件。高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、大伴金村が割譲を承認します。バーター取引として五経博士を渡来させます。五経博士とは儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学者で、当時の最先端知識の導入です。今だと最新のAIや量子コンピュータの導入のようなものでしょう。

ところが、この頃から力をつけた蘇我氏に足元をすくわれます。物部尾輿などから任那4県割譲時に百済側から賄賂を受けとったと糾弾されて失脚してしまいます。本当に賄賂をもらったかどうかは分かりません。

でもなんで大伴金村を祀った神社がこんな所にあるんですかねえ。

大津皇子の本当のお墓? 鳥谷口古墳

鳥谷口古墳
鳥谷口古墳

「うつそみの人にある我れや 明日よりは二上山を弟背と我が見む」(大伯皇女)

鵜野讃良皇后(後の持統天皇)は草壁皇子の即位を考えおり、邪魔となった大津皇子に謀反の疑いをかけて24歳で自害させたというのが通説ですが、よく分かっておりません。二上山の雄岳頂上付近に大津皇子二上山墓がありますが、謀反人の墓を都からよく見える山の頂上に造るのはどう考えてもおかしく、麓にある鳥谷口古墳が実際のお墓ではと言われています。

発掘調査の結果、墳丘規模が当時の墓制では最低レベルで、しかも急ごしらえな古墳だということが分かっています。古墳は高台にあり大和平野を見ることができます。

津ぎょうざ B1-グランプリ優勝

津ぎょうざ
津ぎょうざ

津ぎょうざがB-1グランプリで優勝したそうです。

「第11回 B-1グランプリ(明石で開催)」で、「津ぎょうざ小学校」が第1位にに2位は「釧路ザンタレなんまら盛り揚げ隊」、3位「袋井宿たまごふわふわほっと隊」でした。津ぎょうざは学校給食から生まれたメニューで、直径15センチの皮を使った大きな揚げぎょうざ。

私が小学校の頃にはなく、小学校給食に登場したのは1985年頃から、今も食べられているそうです。津の名物といえば鰻なんですが、さすがに高いので名物として食べるにはお手頃です。津駅のチャム2Fに入っている飲食店などでも出しています。

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館

東大阪税務署へ行くついでに久しぶりに司馬遼太郎記念館に行ってきました。

司馬遼太郎の各作品は22歳の自分に向けて書かれたことで有名です。学徒出陣で満州の戦車部隊に配属され、終戦は日本に戻ってアメリカ軍の上陸に備えていた時に迎えました。その時に思ったのが日本人はなんで、こんなにバカになったのか、どこで間違えたのかというテーマでした。ここから数々の歴史小説が生まれます。

そういえば最近、「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)を読みましたが、明治以降の日清戦争などからの歴史に焦点をあてています。

けっこう知られていない話が多く、例えば日本がもっと早くポツダム路線を受け入れていたら原爆投下はなかったという説がありますが、もともと既定路線あったことが史料から判明しています。

また国際連盟を脱退した松岡洋右はタカ派のイメージですが、実際は必死に連盟に残るよう調整していました。日本の内大臣に対して、満州に対してゼロか百ではなく8分目ぐらいで我慢し、日本人の潔癖症を発揮し連盟脱退なんてことはやめましょう。

日露戦争がギリギリの戦争だったなどの情報がきちんと政府から出ていたら戦争に至らなかったかもしれませんでしたが、国民もマスコミもイケイケで、皆すごく甘く考えていた背景があります。

岡山御坊

岡山御坊
岡山御坊

岸和田の高台にあるのが岡山御坊。建立されたのは1503年で本願寺実如によって創建されました。和泉から紀州にかけては真宗勢力が強く、石山本願寺から退去した顕如は和歌山の鷺森御坊に移っています。

天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を明け渡した時に織田信長の家臣で岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされてしまいます。織田信長によって和泉国や紀州の平定が行われましたが、本格的に行われたのは秀吉に根来、雑賀攻めで、この時は貝塚の積善寺城、千石堀城、和泉・高井城などに防衛線が作られ和泉が戦場となりました。