野見宿禰塚

野見宿禰塚

貴乃花の引退や貴ノ岩の暴行事件など今年も角界ではいろいろとありました。

■相撲の発祥
さて相撲の発祥といえば野見宿禰。日本書紀に書かれているのは垂仁天皇の時代に相撲が発祥したという記述です。大和の當麻(当麻寺で有名)に住む当麻蹴速が剛の者で、出雲国から招いた野見宿禰と相撲(天覧試合)をとらせ野見宿禰が勝ちました。というか当麻蹴速は腰を踏み折られて死んでしまいます。当時の相撲は蹴ってもよかったんですね。相撲を取った場所が桜井市の穴師坐兵主神社の摂社である相撲神社のある所で、日本最古の道である山の辺の道沿いにあります。

さて相撲で勝った野見宿禰ですが、殉死の代わりに埴輪を活用するよう提言し土師氏の祖となります。前方後円墳で埴輪が見つかるのは野見宿禰のおかげなんですねえ。ちなみに垂仁(仁を垂れる)はこの殉死をやめたことから天皇(当時は大王)に贈られた贈り名です。野見宿禰は播磨の立野(龍野)で亡くなり、そちらにお墓があるんですが、なぜか桜井市にもお墓があります。

■野見宿禰塚
近鉄・大和朝倉駅と長谷寺駅のちょうど中間あたりの伊勢街道沿いに出雲という場所があります。一説に野見宿禰は出雲国ではなく出雲村の出身だったと言われています。この出雲を見下ろす高台に野見宿禰塚跡があります。明治16年まで大きな塚があり地元では野見宿禰のお墓と言われていました。そのため力士のお参りも多かったそうです。ところが明治16年に農地整理かなんかで塚が壊されてしまいました。塚にあった朱を捨てたら初瀬川が三日三晩、赤く染まったそうです。なにも壊さなくてもよいのに!

というわけで今は野見宿禰塚跡の碑が畑の中に建っています。かなり分かりにくい場所にあります。

織田信孝のお墓(関宿)

織田信孝のお墓(関宿)

伊勢・神戸家をM&A戦略で乗っ取った織田信孝(信長の息子)は、やがて遊軍として活躍することになります。信長の命令で越前一向一揆討伐戦や雑賀攻め、播磨へも伊勢勢を率いて出陣しています。

織田信孝が丹羽長秀と共に大坂から四国の長宗我部を攻めようとしていた時に発生したのが本能寺の変。明智光秀を討つのに一番近い所にいながら本能寺の変が伝わると兵が逃亡してしまい、なすすべがありません。そこへ備中高松城より中国大返しで軍を引き連れてきたのが秀吉で織田信孝は名目上、弔い合戦の総大将に祭り上げられます。

■山崎の合戦
天王山との戦いとも言い、明智光秀の敗因は天王山をおさえられなかったという説がありますが、どうも違うようで明智光秀が考えていたのが長篠の合戦の再現だったようです。光秀は山崎の小泉川(円明寺川)沿いに長大な柵をもうけ、秀吉を武田勝頼に見立てて得意の鉄砲戦術で破る予定でした。ですが秀吉も見抜いていたようで、翌日に総攻撃をするという情報を流しながら、雨の日の夕刻に攻め込み、雨で鉄砲を使えなくして勝利をおさめたようです。

■織田信孝の墓
清須会議の後、織田信孝は美濃国一国と岐阜城を支配することになりますが、やがて秀吉と対立。連携を組んでいた柴田勝家が北庄城で滅び、自身は尾張で切腹することとなります。享年26歳でした。

信孝の首を家臣が神戸に葬ろうとして持ち帰りましたが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったといわれています。それが関宿の街道筋にある福蔵寺で、もともと織田信孝が信長の供養のために設立した寺でした。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

大和八木駅から大阪方面へ一駅行ったところに真菅(ますが)駅があり、駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)です。神社がある町の名前が曽我町で、古代豪族・蘇我氏の本貫と言われています。神社の通称は入鹿宮になっていて推古天皇の時代に蘇我馬子が社殿を建てたと言われています。現代は車がよく通る道沿いにあるので、あまり落ち着かない神社になっています。 

古代、葛城地域(高天原の説があります)を本拠にした葛城氏がいて大王(天皇)の奥さんは葛城氏から迎えていました。力をもった葛城氏でしたが雄略天皇の時に皇位を巡る争いから滅ぼされてしまいます。 

■蘇我氏とは 
諸説ありますが蘇我氏は葛城氏の一族だったようで、我蘇り(われよみがえり)なんて意味深な名前は没落した葛城氏を蘇らせたからかもしれません。ただ読み方がソガというだけで、神社名は「宗我」、地名は「曽我」、人名は「蘇我」になっています。出雲大社の本殿のまさに裏側にあるのが素鵞(ソガ)社で出雲との関係を称える人もいます。 

後で歴史を書いたのが勝者の藤原氏なんで、蘇我氏は謎だらけになってしまいました。乙巳の変で燃えてしまった「天皇記」と「国記」が伝わったら面白い古代史が分かったんですがねえ。

T-Site(枚方 蔦屋書店)

枚方・蔦屋書店

先日、京阪枚方市駅へ行ったついでに、やっとこさT-Siteへ行ってきました。くらわんか舟の伝統がある枚方には似つかわしくないオシャレなお店ですね(笑)。

行くのが遅いって(笑)。

T-Siteはカルチュア・コンビニエンス・クラブが運営する複合商業施設で、代官山・湘南に続く3店舗目になり、中心になるのが蔦谷書店です。 LUCUA osakaにある梅田・蔦屋書店は実に本が探しにくいですが、枚方・蔦屋書店はジャンル分けされていて探しやすいですね。

ご存知の方も多いと思いますがTSUTAYA創業の地が枚方で蔦屋書店という名前でスタートしました。てっきり喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した蔦屋から名前をとったと思っていたら、お爺さんが置屋を営んでいて、その屋号が蔦屋だったそうです。

カルチュア・コンビニエンス・クラブが創業の地である枚方に立派な施設を作ったのとは対照的に、イオン(岡田屋)創業の地である四日市の諏訪商店街には何の店も残っていません。岡田屋の家訓が「大黒柱に柱をつけろ」ですので、創業の地にはなんのこだわりもないようです。

徳政令 なぜ借金を返さなければならないか

正長元年柳生徳政碑

講談社現代新書から「徳政令 なぜ借金を返さなければならないのか」という面白い本が出ています。

■地域金融が崩壊
室町時代には徳政令という借金がチャラになる滅茶滅茶な法令が出されていました。室町時代の金融業は借上や土倉が担っていましたが、本業は荘園の代官請負業で金融は副業でした。地方では代官が荘園経営を担っていて地域の金融機能を支えていましたが税負担の増大と天変地異などの発生で、この地域金融が崩壊していきます。今でいうと信金がつぶれる状況で金融が都市銀行(借上や土倉)に集中する形となります。これで借上や土倉は本業が金融業になっていきます。

また室町幕府は奥向きでいろいろと浪費していてプライマリーバランスなんか考えていませんでした。消費税対策だといってバラマキを考えているどっかの政府と同じ状況ですね。この浪費の費用を京都の借上や土倉が担っていましたが、さすがに苦しくなりだし徴収が難しくなります。

■徳政令を求めて一揆がおきる
そこで幕府はいろいろな所から税金をとろうとしますが、これで一般庶民が苦しむことになり徳政令を求める動き(一揆)になり、実力行使で徳政令が出されます。一揆というと江戸時代の百姓一揆を想起しがちですが、そんななまやさしいものではなく、この当時の一揆は戦です。

結局は信用できない社会となり社会全体が疲弊していきます。そら戦国時代になるわけです。

この本にも出てきますが柳生の里の入口に疱瘡地蔵があり、この地蔵に正長の土一揆によって徳政令を勝ち取った郷民の文が書かれています。ただし山の中にあり観光客は誰もいません(笑)。正長元年柳生徳政碑として国の史跡になっています。

言志四録

言志四録

一灯を掲げて暗夜を行く 暗夜を憂うことなかれ ただ一灯を頼め

ご存知、言志四録の一節です。

角館の武家屋敷にいくつかの書籍が展示されていて論語や大学などと並んで言志四録がありました。言志四録は美濃国岩村藩出身の儒学者・佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた語録です。冒頭以外にもたくさんの言葉を残しリーダーのためのバイブルとして注目を集めました。現在でいうとドラッカーのようなものでしょうか。

言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録の四冊から構成されているため言志四録と呼ばれています。佐藤一斎の門下生には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らがおり幕末に活躍した人物ばかり、”西郷どん”も生涯、この言志四録を愛読していました。今は言志四録を講談社学術文庫で読むことができます。

秋田蘭画(角館)

小田野家

小田野直武って角館出身だったんだあ!

武家屋敷なら角館より松坂城の御城番屋敷の方が風情あるなと思いながら、三千坪の敷地があるという青柳家に入ると邸内に小田野直武の銅像が!!小田野直武は秋田藩士なんで、てっきり秋田出身と思っていたら角館出身だったんですね。観光バスでは小田野直武や秋田蘭画の説明が一切なかったぞ(笑)。

小田野直武って、とっても変わった人で天才・平賀源内が東北地域で鉱山開発の山師のようなことをしていた時に出会い、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を教えてもらいます。その後、江戸に出てさらに平賀源内に学び、日本画と西洋画を融合した独特の秋田蘭画を作り上げます。作り上げただけではなく単なる藩士が藩主にも手ほどきするという江戸時代には考えられないこととなり秋田蘭画を大成させることになります。

平賀源内の友達だったのが前野良沢や杉田玄白で、その縁で小田野直武は解体新書(ターヘル・アナトミア)の図版を担当しています。昔、日本史で習いましたね~え。

秋田蘭画の名品は美術館にありますが、ここ角館にもいくつか展示されていました。そうか小田野直武って角館出身だったんだあ!と思い、角館を歩いていたら端の方に小田野家がありました。残念ながら火事で再建された建物だそうです。

角館に山城があったんだあ!

角館

東北旅行最終日は田沢湖から武家屋敷で有名な角館を巡るコースでした。

角館へ着く直前、観光バスの窓から見ると川が湾曲している山が見えます。川を堀にするには最適な山だなと思って、頂上を見ると削平地が見えて、どうみても郭跡。しかも2つの郭を確認できます。あとで角館の地図をもらったら古城山と書かれていました。

あらまあ、角館に山城があったんだあ!

調べると、もともと戸沢氏の居城で戸沢氏が関ケ原合戦の功で転封した後に佐竹氏の家臣である葦名盛重が入り城主となりました。元和6年(1620年)の一国一城令によって廃城となったようです。その後、麓に陣屋が構えられ、この陣屋を中心に武家屋敷を整備し、今の「みちのくの小京都」となります。“小京都”なんていうと井上章一さんに”京都にすっかり毒されていますな~あ”と、どやされそうです。

古城山は低い山なんで簡単に登れそうですが、さすがに武家屋敷巡りにつきあわず一人、山城登りをするわけにいきません。紅葉にそまった秋の角館を楽しんでおりました(泣)。

あさ開

十和田湖

秋田→青森→岩手という、あいかわずの強行軍。

お昼はなんか乙女の像とかいうものを見に行って、それよりも柱状節理が見事でした。十和田湖湖畔でお昼でしたので、次の場所へ行くまでの時間に仕事をしようとしたら、UQ-Wimaxがつながらない!見事に圏外でした。

午後は盛岡へ、それが盛岡城も志波城にも寄らず、すぐ横をバスは素通りしてしまいます。向かったは「あさ開」という造り酒屋さんで、個人的にはそれでもいいのですが(笑)。造りを見学でき、見事にコンピュータ制御していました。とりあえず新酒をゲットしてきました。

東北へ

松島

なぜか東北へ

奥さんが阪急交通社の「はじめての東北何やら」というツアーを申し込んでいて、付き添いできております。どこへ行くのかいまいち把握をしておらず、とりあえず仙台空港に着いて観光バスで松島と中尊寺へ。

中尊寺って月見坂からひたすら登るものだと思っていたら、観光バスは金色堂の坂の下あたりまで行って降ろし、あとは200メートルほどなだらかな坂を登るだけでいいんですね。こりゃ楽だ~あ!

中尊寺の後、2時間ほど走って宿へ向かいますという案内があり東北自動車道をひたすら北へ。盛岡を過ぎてさらに北上して秋田へ。これって大館へ仕事で行った時とまったく同じルート(盛岡からJRがないので大館まで高速バスが便利)じゃないか~あ!と思っていたら鹿角市にある湯瀬温泉に到着。大館へ行く途中に「いいな~あ、あんな温泉でのんびり泊まりたいな~あ」と高速バスの車窓から見ていた温泉でした(笑)。今日は十和田まで行くそうで、なかなかの弾丸ツアーです。