東北へ

松島

なぜか東北へ

奥さんが阪急交通社の「はじめての東北何やら」というツアーを申し込んでいて、付き添いできております。どこへ行くのかいまいち把握をしておらず、とりあえず仙台空港に着いて観光バスで松島と中尊寺へ。

中尊寺って月見坂からひたすら登るものだと思っていたら、観光バスは金色堂の坂の下あたりまで行って降ろし、あとは200メートルほどなだらかな坂を登るだけでいいんですね。こりゃ楽だ~あ!

中尊寺の後、2時間ほど走って宿へ向かいますという案内があり東北自動車道をひたすら北へ。盛岡を過ぎてさらに北上して秋田へ。これって大館へ仕事で行った時とまったく同じルート(盛岡からJRがないので大館まで高速バスが便利)じゃないか~あ!と思っていたら鹿角市にある湯瀬温泉に到着。大館へ行く途中に「いいな~あ、あんな温泉でのんびり泊まりたいな~あ」と高速バスの車窓から見ていた温泉でした(笑)。今日は十和田まで行くそうで、なかなかの弾丸ツアーです。

継体天皇の楠葉宮

楠葉宮

皇統が一度、途絶え王朝が交代したのではと諸説あるのが継体天皇。なんせ応神天皇の5世孫ですから異例な出自になっています。

継体天皇は越前国にいましたが有力豪族達からの誘いで楠葉宮において即位します。この時に活躍したのが河内馬飼首荒籠でした。楠葉周辺は牧(今の牧場)がたくさんあり(京阪沿線には牧野駅があります)、牧を管理していたのが馬飼部で、首長が荒籠でした。当時の馬は物流の要ですので、今でいうと大きなトラックターミナルの理事長みたいな存在でしょう。各地から届く情報を継体天皇に伝えていたようです。

■山城のような楠葉宮
継体天皇を迎えた大伴金村は任那4県の割譲による賄賂事件で失脚、新羅と通じた筑紫君・磐井による反乱事件も起き、朝鮮半島情勢を巻き込み激動の時代でした。当時、中国大陸ー北陸ー琵琶湖ー淀川が情報や物流ルートでしたので楠葉を拠点にしたのでしょう。

楠葉宮に比定されているのが足立寺跡に近い丘の上にある貴船神社で、住宅地の一角に、うっそうとした原生林に囲まれている中にあります。宮は飛鳥板葺宮など平地に作られるのが基本ですが、山城にしようと思えば、できそうな丘の上にありました。

即位19年後まで都を大和に移せませんでしたので緊迫した情勢だったのかもしれません。継体天皇が葬られたのは高槻にある今城塚古墳というのが定説になっています。

足立寺跡

足立寺跡

楠葉駅からずっと東側へ行った高台に西山廃寺(足立寺)跡があります。現在、足立寺史跡公園になっていて敷地内には和気神社もあり、和気清麻呂を祀っています。道鏡に両足を切られた和気清麻呂が宇佐宮で祈ると足が元通り生えて歩けるようになり(ほんまかいな~あ!)、御礼に男山に寺院を建て、それが足立寺(そくりゅうじ)で、古来、足の怪我に霊験あらたかなんだそうです。

発掘調査の結果、三重塔跡などが見つかり、和気清麻呂の時代よりも100年も前の白鳳時代に地元の豪族によって建てられたお寺のようで、敷地内には奈良時代の窯跡も残っていて復元されていました。寺跡はかなりの高台で楠葉、橋本の街を見渡せることができます。力のある豪族だったんでしょうね。

大和川の跡

新開地の自然堤防跡

和気清麻呂の時代から懸案だったのが大阪の東側を流れる大和川の付け替え。

古代から大和川は北に流れ、最終的に淀川と合流して大阪湾にそそいでいました。ただ洪水をよく引き起こしていたため奈良から流れてきた大和川をそのまま西に流して大阪湾へ直接つなごうという大事業です。

■大坂の陣
大坂の陣では大和川沿いに進軍してきた徳川軍を河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受けることにしました。これが道明寺の戦いで、後藤又兵衛が討死することになります。

当時は大和川が北に流れていましたので、京都を出発した徳川本隊は大和川の東側にある東高野街道を南下していました。街道沿いに伸びきった隊に横槍をいれようとして始まったのが八尾・若江の戦いで木村重成が討死します。このように大和川は大坂の陣の舞台となりました。

■吉田に残る大和川遺構
近くの近鉄東大阪線・吉田駅周辺には大和川にちなむ地名が今も残っています。「川中」、「島之内」など極めつけは水走(みずはい)でしょう。

大和川が付け替えされる前、吉田駅近くに新開池という池がありました。今は住宅地となってしまいましたが、今も2メートル程の段差がずっと残っています。これが新開地の自然堤防跡です。写真の住宅の向こう側に2メートルほどの段差があり、ずっと続いています。

奈良の鹿

鹿

奈良といえば鹿で、そこらへんをウロウロしています。

春日大社が創建された時に4つの神様が勧請されましたが、その一つが鹿島神宮の建御雷命(たけみかづちのみこと)で名前の通り雷神です。また剣の神様でもあります。出雲の国譲り神話では天照大神の使者として大国主命と外交交渉し、反対していた建御名方神を相撲で負かして諏訪に追放した神様です。

この建御雷命が鹿島から奈良へやってくる時に白鹿に乗ってきたということから、鹿は神鹿と呼ばれ古代から大切にされています。鹿は神の使いですので人が鹿と出会うと挨拶したことから、鹿もお辞儀の習慣を覚えたという俗説があります。単に鹿せんべいが欲しいだけだと思うんですが(笑)。

それにしても何で都から遠く離れた鹿島から神様を招いたのでしょうか。実は藤原鎌足の生まれが鹿島だったとする説があります。鎌足はもともと中臣鎌足ですが、中臣氏は京都・山科が拠点なんで、鹿島はちょっと不思議です。古代、四方向に四道将軍が派遣されたと日本書紀にあり、このうち二人の将軍が会ったのが会津の地名の由来ですので鹿島は東北経営の水運拠点だったかもしれません。親が赴任していて誕生したんですかねえ。鎌足のお母さんは大伴氏で軍事氏族ですから可能性はあります。そうなると明日香の藤原鎌足誕生地はどうなるのかな。

春日大社には枚岡神社から中臣氏の祖神である天児屋根命と比売神が勧請されて祀られていますが、これも不思議な話で枚岡から八尾一帯は物部氏の勢力圏です。聖徳太子&蘇我馬子連合軍と戦って破れ、殺された物部守屋の館は八尾にありました。物部&中臣でタッグを組んで蘇我と争ったので中臣の拠点が枚岡にあったのかなあ。

興福寺 中金堂 復元

興福寺 中金堂

正倉院展へ行く途中、近鉄奈良駅から東向商店街を通ります。東側にある興福寺に尻は向けられないと東向き(西側)に商店が作られたのに由来しています。もっとも東側は断層でかなりの段差になっているので店を作りにくかったのが本当でしょう。

この段差を登って興福寺の脇に出ると中金堂が復元されていました。興福寺のど真ん中なので、なかなかの存在感があります。

興福寺には、金堂が3棟ありますが、そのうち中心となる金堂が中金堂で、藤原不比等が創建しました。東金堂は五重塔の横に健在ですが西金堂は中金堂と一緒に焼けて現在は基壇だけが残っています。西金堂にあった仏像が阿修羅像や八部衆立像で、無事に運び出され今では国宝館で見ることができます。

中金堂は源平の争乱や雷などで7回、火災で燃えました。なんせ平安時代から興福寺は延暦寺、園城寺、東大寺と並ぶ僧兵の巣窟で、お坊さんというより軍隊でしたから争乱によく巻き込まれています。暴れん坊将軍である吉宗の頃に泥棒に入られた失火で焼けてからは、幕府も興福寺も金がなくなんとか仮堂だけ作り、ようやく300年ぶりに復興されました。しばらく観光客が増えるでしょう。

15%の高利で借金(正倉院展)

正倉院展

家で仕事をしてから夕方、正倉院展へ

正倉院展では閉館1時間半(平日16:30~)前からオータムレイトチケットの販売が始まり待ち時間なしで入れます。閉館30分(平日17:30~)前には入場できなくなるので入口近くの展示場には、ほぼ係員しかおらず、じっくり見られます。ポスターにもなっている平螺鈿背八角鏡も入口近くに置かれています。

■月利15%の高利
御物もいいのですが面白いのが古文書ですね。今年の目玉は奈良時代の借用証書である「月借銭解(げっしゃくせんげ)」の展示。古文書を見ると500文の貸付金に対して月利65文と記載されています。100文に対して月15文ですから月利15%となります。

東大寺の写経所では月借銭が多く行われており通常の借入期間は1~2ケ月ぐらいでした。翌月の給与で返済していたようで、こうなると借りて返しての自転車操業ですね。布を質物(担保)として出していたり、返済が滞った時に支払い保証をする償人(連帯保証人)も書かれています。

借用証書は天平時代から全然、変わっていないようです。それにしても15%の金利を返すのは大変だったはずですが、当時はインフレだったんでしょう。また銭文が流通する貨幣経済が少なくとも都では実現されていたようです。

枚岡秋郷祭り 踏切超え

枚岡秋郷祭り

河内一之宮 枚岡神社の秋郷祭り。

麓にある東高野街道沿いに枚岡神社の一の鳥居があり、朝から各町内を巡った23基の太鼓台が集合。順次、枚岡神社までの坂を登り始めます。坂を延々と登り枚岡神社までもう少しというところにたちはだかるのが近鉄奈良線の踏切。枚岡駅のすぐ横です。この踏切を渡ったところから一番急な坂が30メートルほど続き、ここが難所となります。

この踏切超えの太鼓台を見るのが一番、面白いですね。近鉄の職員がダイヤを見ながら太鼓台を通す時間を見計らいます。ところが通る近鉄電車の運転手は駅周辺の山のような人だかりを見て減速するもので、なかなかダイヤ通りにはいきません。いろいろと連絡をとりあって23基もの太鼓台を通していきます。

動画はこちらです

まもなく枚岡祭り

枚岡祭

風と共に太鼓の響く音が聞こえます。まもなく枚岡祭りですねえ。

枚岡祭りとは河内国一ノ宮である枚岡神社の秋郷祭りで。祇園祭のように日程が固定で、10月14日が宵宮、15日が本宮となります。今年は14日が日曜と重なり何とか祭りが見られそうです。

枚岡神社は日本最古の神社の1つで、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(藤原氏の祖神)と比売神(天児屋根命の奥さん)が奈良に勧請されて春日大社(東大寺の隣にあります)となりました。ですので枚岡神社は元春日とも呼ばれています。枚岡は神武東征の舞台となった土地で社伝では神武天皇の勅命でできた神社だそうです。

枚岡祭りでは地元の9地区から大中小合わせて23台の太鼓台が出ます。9月下旬から夕方に夜にかけて太鼓台の太鼓を打つ練習がはじまり、それが風で届きます。

会津屋(関の小万)

会津屋

東海道五十三次、47番目の宿場が関宿。京都に向かうには次の坂下宿から難所といわれた鈴鹿峠を超えて近江の土山宿に入ります。

関宿には町屋が今も200棟以上が現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。関宿を歩くと、まるで時代劇のセットを歩いているようでインスタ映えは間違いなし。木曽路の馬籠、妻籠ではなく、落ち着いた雰囲気の奈良井宿にちかい感じです。

■会津屋 関の小万
この関宿の地蔵院前にあるのが「会津屋」さん。手作りおこわと、おそばの店です。大正時代のかまどに薪をくべ、地下水を使って蒸す山菜おこわが名物になっています。山菜おこわは「おひつ」で出てきて絶品!

会津屋さんは元は旅籠山田屋で、江戸時代には仇討ちで有名な「関の小万」の生家となります。

身重ながら夫の敵討ちのために関宿までたどりつき、ここで女の子(小万)を出産しますが、小万のお母さんはまもなく亡くなります。そのまま山田屋の主人と女将に育てられたのが小万。亡き両親のことを養父母から聞いた小万は武芸に励み、見事に本懐を遂げます。仇討はあっと云う間に全国に拡がり、浄瑠璃・歌舞伎・小説などの題材となります。鈴鹿馬子唄にも”昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする”など小万のことが出てきます。