中小企業診断士の集まりであるファイティング・コンサルタンツ研究会で大坂の陣巡りをしてきました。昨年のコース(真田丸跡→安居神社、茶臼山→九度山)の続きです。
まずは河内国分駅に11:10に集合。電車の時間まで掲載したのに、さっそく15分も遅れてくるメンバーがでてきます。まずは駅近くの小松山へ。道明寺合戦の舞台となったところで後藤又兵衛が討死したところです。「後藤又兵衛の碑を見たい」という希望があり、予定にはなかった市立玉手山公園へえっちらおっちら登ります。ここには碑だけでなく供養塔などもあります。急坂なんで「しんどい」と文句が出ますが、碑が見たいと言うたのは誰や!
河内国分駅から若江岩田駅へ。駅前の中華料理店でさっそくミニ宴会。そこからひたすら歩いて若江城跡、木村重成墓を巡ります。飲んでいるので、このあたりから、どんどんと「しんどい」と文句が出始めます。そもそも最初から「今日は歩きまっせえ」って言うてましたやん!
若江岩田から上六へ出て、仁徳天皇の高津宮跡、空堀商店街、榎木大明神などを巡って、最終目的地の大阪城へ。終わってから昔、研究会でよく行っていた谷四の「いつもの場所」へ。結局、2万歩以上歩いた大坂の陣巡りでした。お疲れさまでした。
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大津皇子の墓(二上山)
二上山の雄岳頂上にあるのが大津皇子の墓。円墳になっていて里中満智子の「天上の虹」で有名です(笑)。
大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた子供で、大田皇女は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の姉でしたが、大津皇子が小さい頃に亡くなり、後ろ盾がありませんでした。そのため天武天皇と鸕野讃良皇女の息子である草壁皇子が皇太子となりますが、朝廷内には大津皇子を推す声も多かったようです。
天武天皇が亡くなると、大津皇子は謀反をたくらんだと捕えられ24歳の若さで殺されます。黒幕は我が子可愛さの鸕野讃良皇女のようで叔母さんに殺されちゃうんですね。ところが草壁皇子が早世してしまい、予定が狂ってしまいます。しょうがないので草壁王子の息子だった文武天皇を14歳の若さで即位させ、実権は持統天皇がにぎりました。これが院政のモデルとなります。
さて大津皇子の墓ですが麓にある鳥谷口古墳が実際の墓ではないかと言われています。姉の大来皇女の有名な歌「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」とも矛盾しません。濡れ衣かもしれませんが謀反人の墓を都から見える二上山の上に造るのもどうかなという気がする。としたら誰の墓なんだろう。
妙国寺(堺市)
現在まで名前が残った宮内省
律令制度によって官僚制度が整い、8省が整備されました。他に神祇官(神祇祭祀を司る)、太政官(国政一般を司る)がありました。
中務省-天皇の公的な補佐 詔書の作成など政治に関わる
式部省-文部省
治部省-外務省&葬事・仏寺・雅楽
民部省-税務署
兵部省-軍隊
刑部省-裁判所
大蔵省
宮内省-天皇の私的な補佐
今でいう厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省なんかはなかったんですね。民部省には主計寮と主税寮があり現在の財務省主税局、財務省主計局・主計官として名前が残っています。予算編成になるとよく名前を聞く役名です。
古代の省名で現在まで残っていたのが大蔵省と宮内省ですが大蔵省は財務省になってしまいましたので、残っているのは宮内庁だけです。
平城宮跡の宮内省は建物などが復元されています。ただ、ここが宮内省だとは確定はされておらず、おそらくという推定です。
平城天皇陵じゃない平城天皇陵
平城京跡にできた大極殿のすぐ北にあるのが平城天皇陵。「へいじょう」ではなく「へいぜい」です。
平安遷都した桓武天皇の息子で桓武天皇の後に即位しました。嵯峨天皇に皇位を譲って上皇となると、平城上皇は旧都である平城京に移り住みます。平城天皇は亡くなってからの追号で、平城京好きだったことからつけられました。
平城天皇陵は長い間、円墳と考えられていましたが実は前方後円墳。平城京を造る時に都のエリアに入る前方部をぶっ壊したことが判明します。続日本紀の和銅二年(709)の記事に古墳の話が出てきます。平城京の造営を管轄していた役所に対して、元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」という勅令を出したそうです。
平城京造営にあたっては、いくつかの古墳が破壊されたようで、現在の都市開発とこういったところは変わりませんなあ。さて平城天皇陵ですが、円墳ではなく前方後円墳でした。前方後円墳は欽明天皇陵あたりで終わっていますので時代があわず、平城天皇陵に葬られているのは平城天皇じゃなさそうです。
造酒司(平城京)
平城京跡では今も発掘が続いていますが建物が、どの役所だったかを判明するのは至難の業。そんななか断定できるのが造酒司で、酒造りをしていた役所です。霞が関のど真ん中に造り酒屋があるようなもので、いいですね~え。さすがに立ち飲みはできなかったでしょうね。
甕につけられた木簡などが見つかり造酒司と確定されました。なかには清酒という木簡もありますが、当時は今のような清酒はありませんのでドブロクの上澄みをすくったものでしょう。写真は造酒司で見つかった井戸跡です。
清酒は江戸時代となり酒造業をしていた鴻池の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたと言われています。
そうそう奈良には菩提もと造りがあります。平安時代頃に奈良菩提山・正暦寺で醸造された菩提泉というお酒がありました。この酒母が菩提もとで、これを復活し奈良の造り酒屋では、菩提もと造りとしてお酒を造っています。
地下の正倉院展
地下の正倉院展へ出かけてきました。
今年、平城京跡出土木簡が国宝に指定されたそうで、平城京跡資料館では「地下の正倉院展」として11/26(日)まで3期に分けて展示されています。
会場入口にあったのが下ツ道の溝から見つかった長い棒に書かれた木簡。平城京の朱雀大路はもともと飛鳥時代にあった下ツ道を拡張したもので下ツ道の溝から藤原京時代の木簡が発見されています。早い話がゴミです。
内容は手形(パスポート)で近江国蒲生郡で田作人(農業)をしていた伊刀古麻呂、大宅女の2人が藤原京へ戻る際に発給されたものです。かなり大きな木簡で40cm近くあります。行先は左京小治町で、どうも飛鳥の雷丘付近のようで、藤原京の一部です。近江から山城国を超えて大和へ入り、当時は平城京はありませんでしたが関所があったのでしょう。最後の関所を超えたので大きな木簡は邪魔と溝に捨てたと思われます。
正倉院展 糞置村
昔の地形を道が覚えていた津堂山城古墳
近鉄・藤井寺駅の北で大和川近くにあるのが津堂城山古墳。城山という名前がついているように室町時代は三好氏が城として使っていました。近辺にある恵我ノ荘駅近くの大塚山古墳も城として使われていました。
本当の継体天皇陵といわれている高槻の今城塚古墳も堀と思われるような窪みなどがあり城跡と考えられていましたが、発掘調査の結果、伏見大地震によって墳丘が地すべりによる崩壊で城ではなかったことが判明しています。
津堂城山古墳は前方後円墳として認識されていましたが、考古学者の末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長)が戦後、空から古墳を観察する新しい研究方法を考案します。航空写真をよく見ると道路が変な風に曲がっていることが判明。外側にも濠があったようで発掘してみると濠跡を発見。結局、二重の濠をもつ巨大な前方後円墳だったことが判明します。古市古墳群では応神天皇陵の次に大きいことが分かりました。
住宅地が外濠にあわせて建てられ昔の地形を道や住宅が覚えており、今もその痕跡をGoogleマップで見ることができます。
岩屋
太子町のすぐ東にあるのが大和と河内の境にある二上山。”にじょうざん”とも読みますが、昔は”ふたかみやま”と呼んでいました。二上山は雄岳と雌岳の2つの山頂からなっており、駱駝のコブのような形になっています。
大和の東側、大神神社の近くにある檜原神社(元伊勢)から見ると春分と秋分の日に夕日がこのコブの間に沈むのを見ることができます。二上山には非業の死を遂げた大津皇子の墓があることでも有名です。
二上山の南を通るのが竹内街道で日本最古の官道です。推古天皇の時代に隋からの使節団を迎え入れるために整備されたと考えられていて、オリンピックで道路を作るのと同じですね。現在は国道166号が走っていて飛鳥時代からの道が今も使われています。ただ車が多く、あまり情緒を感じられません。そんな時は竹内峠ではなく、少し北の岩屋峠にハイキングコースがあり、こちらがおすすめ。ここには奈良時代に作られた大陸風の石窟寺院「岩屋」があり、国の史跡に指定されています。