
連休合間の平日ならすいているだろうと夕方、奈良国立博物館へチケット売場もガラガラで正倉院展のオータムレイトよりも、すいていました。入口すぐに法隆寺の百済観音があって360度、眺められるようになっていました。
この入口近くにあった小さな仏像ですごくって、光背の文字が読めるようになっていて止利仏師が物部大臣(蘇我馬子のこと)に送ったと記載されています。他にも求道僧円珍が持ち帰った物の一覧表もありました。七支刀が目的でしたが思ったよりも小さかったですね。

連休合間の平日ならすいているだろうと夕方、奈良国立博物館へチケット売場もガラガラで正倉院展のオータムレイトよりも、すいていました。入口すぐに法隆寺の百済観音があって360度、眺められるようになっていました。
この入口近くにあった小さな仏像ですごくって、光背の文字が読めるようになっていて止利仏師が物部大臣(蘇我馬子のこと)に送ったと記載されています。他にも求道僧円珍が持ち帰った物の一覧表もありました。七支刀が目的でしたが思ったよりも小さかったですね。

京都市街の喧騒から離れた地域にあるのが岩倉です。今は叡山電鉄が走り住宅街になりましたが、昔は隠棲する場所でした。明治維新を取り扱ったドラマで必ず出てくるのが岩倉具視が隠棲していた建物です。
坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らと語り合った鄰雲軒が残っていて中に入れます。岩倉具視は公武合体をすすめ、和宮降嫁を推進したことから尊皇攘夷派から敵視され、岩倉に隠棲します。
岩倉具視は岩倉家の養子ですが、もともと岩倉家の先祖が岩倉出身で、岩倉具視の頃は岩倉とのつながりが薄かったのですが、縁があって廃屋を借りて隠棲することになります。薩摩、水戸、土佐藩士らが鄰雲軒を訪れ、慶応3年の王政復古はこの旧宅からはじまりました。
鄰雲軒などの歴史をガイドさんが説明してくれるのですが、行った時は一人だけで、なかなか贅沢な時間でした。観光客があまり来ない穴場ですね。

鎌倉幕府を滅ぼしたのは誰でしょう?
後醍醐天皇が倒幕を言いだしたのは確かですが、呼応したのは楠木正成など一部の武士です。倒幕できたのは足利尊氏が挙兵したからで、北条氏をよく思っていなかった武士が雪崩をうったように勝ち組にのります。
挙兵した場所が篠村八幡宮で亀岡から京都へ行く山陰街道の途中にあります。神社の横に楊(ヤナギ)の木があり、ここに足利家の二引両の旗をあげて参加する武士の目印にしました。今の木は7代目だそうです。ここから鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題を攻めます。六波羅探題は陥落し北条仲時らは京都から近江に逃れますが番場宿で追いつかれ一族432人が自刃します。鎌倉は新田義貞が攻めました。
有名な篠村八幡宮ですが、訪れる人は少なそうですね、行った時は誰もいませんでした。山陰街道沿いにあるので本能寺へ向かう明智光秀も戦勝祈願をしていますが、尊氏のように新しい幕府を作ることが脳裏によぎったでことしょう。

ブラタモリの予告編で津城が登場するのは分かっていましたが、予想していなかった津観音が出てきました。津観音にある阿弥陀さんの本地が天照大神とされ、伊勢参りするなら伊勢神宮と津観音の両方を参拝しないといいけない風習がありました。そういえば日本史で本地垂迹を習いましたね。伊勢街道が城下町を通るようにし、津観音の目前を通るようになっています。
関ヶ原の前哨戦である安濃津城の戦いが行われ、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らが攻め、津観音も燃えてしまいました。再建したのが新しい領主である藤堂高虎です。
次回は斎宮が出てくるようで楽しみですね。ですが最後は和田金に行くなど旅行番組みたいになってきて、断層などの話は出てこなくなりました。松阪には中央構造線が地表に現れた露頭があるのに

登ってみるまで大屋根リングが二段になっているとは知りませんでした。屋根はけっこう広いので高所恐怖症でも大丈夫です。って端には寄りませんでした。
東、西の両ゲートちかくの大屋根リングは人も多いのですが、皆さん、ちょっと歩いて降りるようで、北、南は、けっこうすいています。一周2kmで万博の各パビリオンを一通り眺めるには最適です。

万博では昼食時、リング内のレストランなどは、どこも一杯です。割と穴場なのは各国パビリオンの出口付近にショップや軽食コーナーがあるケースがあり、各国料理を食べられ出口から入れます。テイクアウトの店やキッチンカーも出ています。
行った日はリング外側にあるリングサイドマーケットプレイス東がすいていて、サイゴン食堂でバインミー(800円?)とビール(900円)で昼食でした。万博価格で高いのですが、そうせざるをえませんね。
万博前にポップアップショップとして出展する事業者の相談があったのですが出店料が高く、高い価格にしても赤字になりそうで、赤字は広告宣伝費だと事業者は割り切っていました。入場前に弁当などを持って入るのがリーズナブルです。雨さえ降らなければ食べる場所はたくさんあります。

水谷IT支援事務所は福利厚生が充実しており社員旅行で大阪万博に行ってきました。もっとも従業員はゼロです。
先週の天気予報では、どしゃぶりの雨だったのが昨日になると曇に変わっていたので、きっと来場者が少ないと予想し出かけましたが甘かった(笑)まずは中央線で夢洲駅へ、本町駅と弁天町駅とからドヤドヤと乗客が乗り込んできます。
万博入口でのWifiつながらない問題は各社のアンテナを積んだ車を並べることで解決していました(笑)。手荷物検査&金属検査は空港と全く同じですね。入場のQRコードはスクリーンショットをとるのが鉄則です。
■平日は学校関係が多い
会場は小学校~高校の学校関係の来場が多く混雑していました。そうか平日は学校の引率があるんですね。そうそう、さっき来場100万人を突破したと発表していました。
大屋根リングは見ごたえありますが、一周して会場を巡っても1万5千歩ほどしか歩いていないので割とコンパクトです。各国の展示があるんですが、関西は国立民族学博物館と天理参考館があるんで、そちらの方が充実しています。ただ建物はけっこう凝っていて楽しんできました。

馬堀駅から少し行くと高台になっていて見晴というところがあります。地名の通り見晴がいいですね。今は住宅街になっていますが奈良時代の山陰道のすぐそばでした。一角にあるのが観音芝廃寺跡です。発掘調査され金堂や講堂跡がみつかり礎石などが復元されています。できたのが7世紀後半なので壬申の乱の頃ですね。300年ほど続きましたが平安時代には廃寺になったようです。秦氏が関わっていたのではと言われています。
■保津川開削
秦氏というと秦河勝が有名で聖徳太子の国造りを助け、広隆寺を創建します。秦氏は土地開発が得意なデベロッパーで、桓武天皇の平安京増設などに貢献します。嵐山にある大堰川の堰(葛野大堰)の原型は秦氏が作ったものです。嵐山までの保津川を開削し船運を整備したのも秦氏と言われています。丹波側の拠点として観音芝寺を作ったのでしょう。

ブラタモリを見ていると鈴鹿サーキット→白子→津と移動し、最後は江戸橋の常夜灯が出ていました。
江戸橋は藩主が参勤交代で江戸に向かう時、家臣がここまで見送りにきたことから江戸橋と呼ばれています。すぐ近くに近鉄・江戸橋駅があり橋を渡った先が三重大学ですから、近鉄が止まるたびに学生がどわーっと渡る橋になっていて、私も大学へ行くときによく使っています。
■江戸橋・追分
橋のたもとにあるのが安永六年(1777年)の銘がある常夜灯で、ここが追分になっています。関宿で東海道と別れた伊勢別街道が江戸橋で伊勢街道と合流します。番組では分かりやすいように「京街道」と言ってましたが、本来の京街道はブラタモリでもやっていた大津の追分から京都をバイパスして大坂へ至る道が京街道です。東海道から分かれますので京から来た道には間違いはないんですが
次回は津城と松坂なんですなあ。

保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。
亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。
住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。