額田戎2025

額田戎

♪商売繁盛で笹もってこい!

ということで近くにある額田戎神社へ。えべっさんは耳が遠いとキャラ付けされていますので、社殿の裏側にまわり、たたいて「あんじょう、頼んまっせえ!」と念押しをします。

よく考えたら今年は前期高齢者になり、会社員でいえば定年になる歳です。こりゃ一生懸命働いている場合じゃないので、「ちょびっとの商売繁盛でええんで、よろしゅう頼みまっせえ!」と願い事を変え、縁起物を買ってきました。

恋路橋

恋路橋

大河原城がある大河原は宿場町で江戸時代は柳生藩が管轄していました。当時は水運が中心なので木津川の港として発展。本陣や問屋があり、馬借(運送)の詰め所もあり柳生藩から15頭の馬の使用が認められていました。

ここに沈み橋があります。川が増水すると水没してしまう橋のことで、なぜか恋路橋というユニークな名前がついています。橋を渡った先に恋愛・縁結びで知られる恋志谷神社があるところから名づけられています。なかなか雰囲気がある橋なので朝ドラ「カーネーション」などのロケで使われています。

おやぢの会 忘年会

つるとんたん

20年ほど続いている【おやぢの会】の忘年会。

オブザーバー参加のはずだったのが、知らない間に正会員になっています。忘年会の場所は「つるとんたん北新地店」で、うどんすきがおいしかったですねえ。忘年会が終わって店を出ると、入口に長蛇の行列ができていました。そんな有名店でしたっけ?御堂筋イルミネーションを見ながら帰りました。

忘年会の前は東梅田駅近くの清風堂書店へ。小さな新刊書店なんですが、品揃えが独特で面白い本に出あえます。京都にあった三月書房を彷彿とさせる書店ですね。続いて大阪駅第3ビルへ。昔は5軒ほど古書店が集まっていたんですが昨日は永井古書店だけしか開いていませんでした。

適塾

適塾

淀屋橋近くにある適塾へ。

司馬遼太郎の「花神」(大村益次郎の物語)を読んで訪れて以来なのでウン十年ぶり。地元の人間って、いつも行けると思うと行かないもので、通天閣もハルカスの展望台も行ったことないですね。単に高所恐怖症というだけなんですが(笑)

適塾は緒方洪庵が開いた蘭学塾で全国から福澤諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、箕作秋坪、佐野常民などが集まり、明治の礎を作る多くの若者を送り出しました。2階にはヅーフ部屋があります。この部屋にヅーフ編オランダ日本語辞典が置かれ塾生が争って使っていました。

塾生は塾頭の総括のもと成績で等級にわけられ,昇級競争は激しく切磋琢磨しながら勉強しました。争って勉強した部屋などを見学できます。階段が城なみに急になっていますね。

旭光

旭光

深溝城の復元模型などを見に行った幸田町郷土資料館ですが、屋外にいろいろと面白いものが展示されていました。その一つが旭光という戦闘機。リンゴの品種みたいな名前ですねえ。

F-86セイバーという機種でジェット戦闘機の第一世代になります。昔、プラモデルで作りました。アメリカ製ですが日本やイタリアでも生産されたそうで、派生型も含めて1万機ほどが造られたそうです。航空自衛隊での愛称が旭光(きょっこう)だそうです。

ちょうど「小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相」 (角川新書 平山優著)を読んでいて「家忠日記」の記載がたくさん出てきます。家忠は深溝松平氏で本拠地が深溝城。幸田町郷土資料館へ行くのは歴史好きだけですが、行くと戦闘機やヘリなどが屋外展示されていて目が点になります。こちらを目的に行くマニアもいるそうです。

中央構造線(長篠露頭)

中央構造線(長篠露頭)

昔、地理で習ったのが中央構造線とフォッサマグナ。フォッサマグナは日本中央部を南北に横断する溝で、西には糸魚川-静岡構造線があります。中央構造線は日本列島を東西に約1,000km走る断層で衛星写真をみると四国の真ん中を通る山脈がそのまま紀伊半島につながっているのが分かります。これが関東までつながっていますが長篠城ちかくに露頭しているところがありました。

行ってみたら豊川の川沿いの崖でした。(笑)黒い地層と白い地層できれいに分かれていました。

生駒ケーブル

生駒ケーブル

日下の直越道に行く前に、まずは生駒山をえっちらおっちら登ります。まずは縦走路に入れる生駒山麓公園を目指します。公園にはアスレチックなどいろいろありますが、生駒ケーブルの古い車両がありました。

生駒ケーブルは大正7年に開業し宝山寺への参詣に活躍します。生駒ケーブルは生駒山上遊園地まで続いています。生駒山上遊園地から大阪平野と奈良が見渡せますので戦中は飛行塔が防空監視所として使われました。そのため生駒ケーブルは金属類回収で廃線になる鉄道が多い中、存続しました。

現在も動いているケーブルとして生駒ケーブルが最も古くなりました。なかなか味わいがある車両でした。

五瀬命負傷碑

五瀬命負傷碑

日下の直越道の尾根道沿いに五瀬命負傷碑があります。最初、気づかずに通り過ぎてしまいました。五瀬命は神武天皇のお兄さんで交戦中に長髄彦の放った矢に当たってしまいました。五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と助言します。って、大坂から大和へ攻め込む前に分かってたでしょうに、よう分かりません。

神武天皇は草香津(くさつ)まで退き、盾をたてて雄叫びしました。草香津は盾津と呼ばれるようになります。草香津から船出して紀州へ向かいます。ところが五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男之水門で亡くなりました。和歌山市の竈山神社に墓があります。神武天皇は紀州をまわって熊野から八咫烏を道案内に大和へ攻め込みます。

日下の直越(ただごえ)道

神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑

「直越の この道にてし 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも」と万葉集にも出てくる古道です。神武天皇が生駒山から大和へ入る時に使った道と言われ、どの道だったかは諸説あります。

一番可能性が高い神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑がある尾根道を目指すことにします。生駒山の峰の一つ饒速日山伝承地(ニギハヤヒが天降ったとされる峰)を過ぎ生駒縦走路を「こぶし谷」へ向かいますが、途中に山道を発見。ウーン、日下の直越ポイ道だと分け入ります。

■日下の直越道(尾根道)

山道を進みますが、下草が多く道が見えないところが所々にありますが、途中に日下直越道(尾根道)の道標(板切れ)があり合っているこを確認。夏はまず無理な道です。

日下の直越道には谷筋道もありますが、尾根から攻撃されるので、やはり尾根道でしょう。日下の直越道をひたすら降りていくと神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑を発見。日下から少し登ったところにありました。

日下の直越道はハイキングコースとは全然、違う道なので誰も歩いていませんでした。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。