昨日は平野で仕事でしたので、帰りに赤留比売命神社に寄ってきました。
日本書紀、古事記にはアメノヒボコという不思議な神様が出てきます。天日槍、天之日矛と書かれます。
日本書紀によるとアメノヒボコは新羅の王子で日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟に任せて日本へやってきました。天皇からどこに住んでもよいと言われ諸国を遍歴し、但馬国出石に拠点を置きます。出石は古代、日本海ルートの要衝の地でした。
■アカルヒメ
古事記の話はちょっと変わっていて、アメノヒボコが手に入れた赤玉を床に置いておくと赤玉が美しい少女の姿となり、結婚しました。ところが夫婦喧嘩で、この女性が祖国に帰ると家出してしまいます。これが阿加流比売神(アカルヒメ)で、アメノヒボコは追っかけて難波に向かいます。ところが浪速の神さんが阻んでしまったので但馬国出石に留まり現地で新しい妻を迎えたとあります。
古代、たくさんの渡来人が渡ってきた話がアメノヒボコになったのでしょう。アカルヒメは大阪の比売許曽神社に祀られていますが、なぜか平野にも赤留比売命神社があります。神社の裏側は公園になっていて高台になっており、これが環濠の名残になっています。
カテゴリー: 地域の話題
河内寺廃寺跡
家の近くに河内寺廃寺跡があります。生駒山の麓にある近鉄線奈良線で枚岡駅を出て右にカーブして瓢箪山駅に到着しますが、ちょうどカーブの所にあります。
史跡公園として整備され7/1からオープンすると東大阪市市政だよりに載っていましたので、さっそく見に行ってきました。7世紀頃ですので聖徳太子から天智天皇の時代に作られた古代寺院です。建立したのは渡来系氏族「河内直」で、氏寺として建立されました。地元では「こんでら」と呼ばれています。
河内寺は塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、すぐ近くまで河内湖が広がっており、なかなかのランドマークだったでしょう。金堂跡、講堂跡、回廊跡の説明版がありました。塔があるところは住宅地なので発掘されていません。
名張城
石山本願寺
大阪府よろず支援拠点の帰りに通るのが大阪城です。今日も夕方になっても観光バスが15台ほどとまっていました。この大阪城の一番最初にあったのが石山本願寺です。
どこに御坊があったのかは分かっていませんが二の丸付近はほとんど盛土されていないのに対し、徳川時代の本丸は10メートル近く盛土されているのがわかっていますので二の丸付近に石山本願寺の御坊があったと見られています。
織田信長との十年戦争のあとに和睦して本願寺は和歌山へ移りますが、跡地にさっそく大坂城が造られます。これが信長時代の大坂城です。城は安土城などを造営した丹羽長秀に預けられます。また千貫矢倉があり、本能寺の変の時に織田信長の甥で光秀の娘婿だった津田信澄が光秀との関係を疑われて大坂城の千貫矢倉で殺されています。秀吉が造った大坂城はこの信長時代の大坂城を踏襲したのでしょう。信長時代の大坂城についても皆目、わかっていません。
IT導入補助金セミナー(AMIC)
浜屋敷(吹田)
茨木城
日曜日の船場総研は会場が茨木市でしたので、行くしかないでしょう!
というわけで茨木城です。城前の案内には楠木正成が築城したとありますが、どうでしょうか。応仁の乱の頃にはあったようです。現在の茨木城は小学校や宅地になっていて小学校入口に茨木城の櫓門が復元されています。
■中川清秀
茨木城の城主で有名なのが中川清秀。高山右近、荒木村重とともに摂津衆でした。荒木村重の謀反には中川清秀は加担せず信長側につきます。本能寺の変の後は秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を破ります。その後は秀吉に従いますが賤ヶ岳の戦いで大岩山砦を守っていましたが、佐久間盛政に攻められ戦死してしまいます。
■片桐且元
もう一人有名な城主が片桐且元。大河ドラマ「真田丸」では徳川家康と大坂方の間に入って仲裁に奔走していました。小林隆が演じていました。最後は徳川方の内通者と疑いをもたれ大坂城を出て、茨木城に入ります。町内には片桐町が残っています。
心合寺山古墳
山城ばかりではなく、たまには古墳も巡っています。
東大阪、八尾のちょうど境にあるのが心合寺山(しおんじやま)古墳。東高野街道から少し登ったところにあり、近くには大阪経済法科大学のキャンパスがあります。心合寺山古墳は全長約160メートルの前方後円墳で、いわゆる倭の五王の時代(5世紀)に作られたものです。葬られているのは河内地域の豪族ですから物部系なんでしょうね。飛鳥時代に古墳の隣に心合寺(しんごうじ)という寺ができ、これが訛って「しおんじ」という名前になったと言われています。
心合寺山古墳に登ると大阪平野が一望できます。大坂城も見えるので大坂の陣では東高野街道を通って大坂攻めに向かう徳川の陣がおかれました。古墳は発掘調査の結果、後円部から3つの棺が前方部から1つの棺が見つかっています。
造り出しと呼ばれる舞台があり、この造り出しから発見されたのが家形の埴輪。これが単なる家ではなく、水が家の中を流れるような構造になっており、水の祭が行われた建物が古代にあったようです。日本で初めて発見されたと書いてありました。伊賀に城之越遺跡という古代に水の祭が行われた場所があり、飛鳥には亀形石造物がありますので、古代から水にまつわるいろいろな祭が行われたようです。
石切参道商店街
由義宮
日経新聞・関西版の夕刊に載っていたのが由義宮の話題。
東弓削遺跡で、奈良時代後半に作られたとみられる大量の瓦が見つかり、これが由義宮跡ではないかという記事でした。場所はJR大和路線 志紀駅の近くで、遺跡は外環状線沿いにあります。ずっと昔、八尾空港に降りようとしたセスナが墜落したのも、このあたりです。
八尾の高安に1年ほど住んでいましたが、まず行ったのが八尾にある物部系神社巡り(笑)。東大阪の石切神社を筆頭に河内にはそこかしこに物部系神社があります。もちろん志紀駅近くの弓削神社にも行ってきました。
弓削と聞いて条件反射で出てくるのが弓削道鏡です。称徳天皇のそばで権力を握った僧として日本史では有名な人物で、和気清麻呂による宇佐神宮神託事件に発展します。弓削氏は志紀駅周辺を根拠地とした物部氏の一族で、物部守屋は弓削大連と名乗っていました。ここにあったのが由義宮で、称徳天皇の離宮があり寵愛していた道鏡のために建てました。日経新聞によれば道鏡はまじめなお坊さんだったようで、結局は藤原氏との権力争いに巻き込まれ、称徳天皇亡き後、左遷されてしまいます。
こんなことで「かぐや姫」の物語が生まれるんですなあ。