大阪南港に ATC(アジアトレードセンター)という建物があります。久しぶりに行くと、だいぶお店が変わっていました。またATCは大阪と九州を結ぶサンフラワーの港になっているんですが、でかでかと2017年10月1日より「さんふらわあターミナル(大阪)」という看板が出ていました。
ネーミングライツ(自治体が命名権を企業などに販売)で、株式会社フェリーさんふらわが命名権を取得し、10年間の長期契約を結んだそうです。大阪では他にも大阪ドームは京セラドーム大阪になっています。
今日は「IoT関連技術の開放特許フェア2017」というイベントがあり、併設して相談会があったので、大阪府よろず支援拠点と大阪発明協会がペアで相談対応していました。
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長屋王の呪い
平群にあるのが長屋王の墓。
墓の主である長屋王は天武天皇の孫で、血統も良く優れた政治的能力をもっていました。力を恐れたのが藤原氏で、長屋王を陥れて殺してしまいます。これが日本史で名高い長屋王の変。ところが政権を握った藤原四兄弟が、次々と天然痘で亡くなってしまい、”長屋王の呪い”と言われました。
時代が下り、平城京のすぐ近く、奈良市二条大路南で奈良そごうの建築に伴う発掘調査が始まりました。貴族の邸宅が見つかり長屋王の邸宅だったことが分かります。夏に氷室から運んだ氷でかき氷を楽しんでいたなど生活が分かる木簡などが発見されます。
反対運動が起きましたが、奈良そごう建設は止まらず後に豪華絢爛な隠し会長室があったことなどが判明します。そごうが倒産した時、皆が言ったのが”長屋王の呪い”だという言葉。1300年前の呪いが今も続いています。
奈良そごうを引き継いだイトーヨーカドー奈良店も9月に閉店となりました。こちらは呪いではなく販売不振でしょう。
片岡と雪丸
片岡城のある片岡は古い地名で飛鳥時代には名前が登場します。
日本書紀に片岡山伝説が出てきます。聖徳太子が片岡に行った時に、飢えた人が道に寝ていたので、聖徳太子は食べ物を与え、自分の衣服を脱いでその人を覆い「安らかに寝ていなさい」と語ります。ところが翌日には死んでしまい、聖徳太子は埋葬を命じます。数日後、聖徳太子は埋葬した人は聖(ひじり)に違いないと語り、墓を見に行かせたところ遺体はなく衣服がたたんでありました。周りの人は「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます聖徳太子を畏敬したという、なかなか不思議な話です。
聖徳太子が飼っていたペットまで不思議でして、それが雪丸という犬。王寺町の公式マスコットキャラクターになっています。この雪丸には、人間と話をしたり、お経を唱えたりすることができたという話が残っています。主人も不思議なら飼犬まで不思議ですねえ。
教科書に厩戸王(聖徳太子)と紹介されるようになり話題となった聖徳太子ですが、実在しなかったという説から蘇我馬子の長男である蘇我善徳を聖徳太子とする説まであります。
太陽の道 謎の北緯34度32分
■秋分の日 二上山の真ん中に夕日が沈む
2017年は9月23日(土)が秋分の日となります。秋分の日、山の辺の道にある檜原神社境内には毎年、多くの人が集まり西の空を眺めます。真西には卑弥呼の墓という説もsる箸墓古墳があります。さらに真西にある大阪との県境にある二上山の雄岳、雌岳のちょうど真ん中にある竹ノ内峠に夕日が沈む光景を見ることができます。
※春分の日にも見ることができます。
■太陽の道とは
檜原神社は元伊勢と呼ばれ、豊鍬入姫命がここから天照大神を祀るところを探し、最終的に伊勢神宮へ遷座することとなりました。豊鍬入姫命が初代の斎王となりますが、この斎王が暮らしたのが斎宮です。この檜原神社から真東に行ったところにあります。また檜原神社をずっと西に行くと淡路島にいたり、ここにあるのが伊勢の森です。元伊勢の東と西にまっすぐ行ったところに伊勢があります。
この直線が北緯34度32分線で太陽の道と呼ばれ、一直線上に多数の神社や古墳、遺跡が並びます。1980年というと生まれていない人も多いと思いますが、NHKで「知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく」という番組が放映されブームを起こしました。ディレクターは水谷慶一(親戚じゃないです)で、海音寺潮五郎や司馬遼太郎などそうそうたるメンバーが出演していた「日本史探訪」という番組を作ったディレクターです。あの頃から歴史好きだったんだあ。(笑)
■太陽の道を歩く
実際は北緯34度32分に正確に並ぶわけではなく少しずれたりはするんですが、一直線にちかいのは驚嘆ですね。
私も若い頃、太陽の道を踏破してやろうと昔の海岸沿いにあった大鳥神社からスタート。真東へ進み行基の生家だった家原寺から萩原天神を超えて、さらに東へ進みます。ここらあたりから東へ進む道はなくなり、住宅街に迷い込み、さまよいながら、なんとか喜志駅までたどりついてギブアップしたことを覚えています。
近鉄大阪線が太陽の道に近いところを通っていて車窓から楽しめます。おすすめは長谷寺と榛原駅を出て右手に見える天満神社で、この2つとも太陽の道沿いにあります。
軽子坂
情報図書館RUKITの入っていた軽子坂MNビルの軽子坂って軽籠(かるこ)に由来しているんですね。飯田濠には神楽河岸があって船から陸揚げしたそうで、 船荷を軽籠に入れて運搬する人が住んでいたことから名付けられたそうです。
揚場町(あげばちょう)という名前も残っていて荷を揚げることからきているそうです。軽籠は縄で編んだモッコのことですが、早朝に近鉄・鶴橋駅に着くと竹で編んだ大きな籠を持った人がドヤドヤと降りていきます。魚などを仕入れに小売商や飲食店で鶴橋駅周辺の卸売市場へ行くのでしょう。
そうそう先日、久しぶりに名張駅で大阪から伊勢方面へ向かう3両編成の鮮魚列車を見ましたが、乗っているのは一人だけでした。全国を走っていた行商列車も今や近鉄だけになってしまいました。ドライバー不足などでトラックから電車へのモーダルシフトが行われていますが行商という形態では難しいですかねえ。
明応地震で壊滅した安濃津
津は伊勢平氏発祥の地で平清盛のお父さんである平忠盛が生まれたところです。津から京都へ出て平家の一時代を築きます。津はまた良港としても有名でした。平家物語には、平清盛が安濃津から熊野参詣した話が出てきますが、大きな出世魚の鱸が船に飛び込んできたと書かれています。
安濃津は良港でしたが室町時代に発生した明応地震で壊滅しました。井伊直虎で盛り上がっている浜名湖も淡水だったのが、この時の津波によって湖と海がつながってしまいました。
安濃津は良港で街道が通っていましたので、安濃津を見下ろす山沿いに城が築かれました。それが垂水城、小森城、小森上野城です。小森城、小森上野城は住宅地になってしまい、城山という地名だけが残っています。垂水城は最近まで残っていましたが、マルヤス南が丘店の建設で破壊されてしまいました。
この垂水城攻めで使われたのか、前方後円墳を利用した池ノ谷砦だけが、かろうじて残っています。
関西文理情報会計専門学校 跡地
京都ではカンブリという予備校が有名なだった時代があります。母体は関西文理学院ですが、ここが作った専門学校の一つが関西文理情報会計専門学校です。ここで10年ほど情報処理の教員をやっていました。当時、情報処理技術者試験は2種、1種の時代で、学校には富士通の汎用機が入っていました。今は懐かしいCOBOL、FORTRAN、C言語なんかやっていましたね。試験で出たものでその対策です。
そうそう最初に教壇に立った時は足が震えたことを覚えています。あの頃は若かったなあ。
専門学校の母体が予備校なんで18歳人口減少の波とともに、なかなか大変な学園経営となっていきます。専門学校はその後、京都国際ビジネスカレッジ、ビジネスカレッジ京都と名前を変え、学部を増やしたり中国からの留学生を受け入れたりしていましたが、最後は関西経理学校と統合し河原町丸太町に校舎を移転しました。この頃に退職しました。
その後、河原町今出川を下がったところにあった校舎は取り壊され、どこかの会社の保養所になっていたのは知っていたのですが、先日、通ったら帝国データバンクになっていました。学園自体は長浜バイオ大学として残っています。
ほったらかしにできる花鉢ハラポット
原スイコー社(堺市)の花鉢ハラポットを試してみました。
まず石切商店街にある花屋さんで買ってきた花鉢からハラポットに植え替えます。根についた土を落としますがマンションのベランダで行いますので水洗いできません。本当は水洗いをした方がよいでしょうが、風呂場でやるわけにもいかず、適当に土を落としてキットについている培養土(軽石と布のようなものでとっても軽い)に入れます。
次に2リットルのペットボトルに培養液を少し入れて水で薄めます。10mlと書いていましたが目分量です。(笑)ペットボトルを振ってから水タンクに入れてセットすれば作業は終了。水タンクを下向きにする時に素早くやらないと少しこぼれます。あとは日があたるところに置いて、ほったらかしです。
水タンクは5日ほどでなくなりますので、なくなる前に補充するだけ。出張でも、ほったらかしでかまいません。水タンクは重いのですが培養土などはとっても軽いです。ベランダに花を植えていますが、水やりをどれほどやればよく分からず、やりすぎて枯らすこともありますがハラポットはほったかしでかまいません。
花を植えたら次々に他の花も咲きだし1ケ月ほど楽しめました。
→ 原スイコー社
オタクからインバウンドへ 日本橋
豊浦は邪馬台国と関係がある?
我が家の隣が豊浦町ですが、反対側には額田町があります。
こちらも古い土地で額田氏が住んでいました。今は住宅街になってしまいましたが、古代には馬を放牧する牧だったようで遺跡からも馬の骨などが見つかっています。額田の名前の由来は額に旋毛(つむじ)がある馬を大王に献上したことから額田部の姓をたまわったようです。当時は軍や農耕に馬の機動力が必要でしたので馬の放牧はとても重要でした。豊浦に拠点があった河内母樹馬飼首御狩の名前にも馬飼とついています。
■額田と豊浦
額田氏の居住した地域には額田や豊浦の地名が多く、奈良の平群や尼崎にも額田という名前の土地があります。推古天皇は額田氏に養育されたことから額田部皇女と呼ばれ、飛鳥で政治をとった場所が豊浦宮と呼ばれました。推古天皇は豊御食炊屋姫尊とも呼ばれています。
■トヨは邪馬台国と関係がある
神功皇后の宮も豊浦宮で、聖徳太子(豊聡耳)やお父さんである用明天皇(橘豊日天皇)にも皆、豊(トヨ)が入っています。日本書紀は魏志倭人伝を読んでいるはずなのに邪馬台国の記載がなく、神功紀に邪馬台国で卑弥呼の後に擁立されたトヨが魏王に朝貢したと解釈できる文があり、邪馬台国のトヨが豊浦などと関係しているのではという説もあります。