三州屋(神田)

2月にRedBall(All Aboutのガイドの集まり)で東京へ行った時、飲んだのが神田にある三州屋というお店。玉子焼きを頼んだら出汁巻ではなく、甘くて、しっとりとした寿司屋さんに出てくるような玉子焼きが出てきたお店です。
一緒に飲んだのはパソコン通信Nifty-ServeにあったFchiken(知的生産の技術)フォーラム時代の知り合いで、参加者の浜田 信郎さんが居酒屋礼賛に、その時の様子をアップされています。
細かいところまでよく観察されていますね。パソコン通信時代は風早人というハンドル名で一緒にFchikenのフォーラムスタッフをしておりました。
→ なんといっても鳥豆腐 … 大衆割烹「三州屋(さんしゅうや)」(神田)

この浜田さん、TBSの「有吉ジャポン」にも登場していて、先日はモデルの滝沢カレンさんさんと酒場巡りをしていました。美女との酒場巡りなんて、うらやましいな~あ!
→ 京急もつ煮ライン (3/3) … やきとり「鳥佳(とりよし)」(上大岡)

溜池櫓台の石垣

溜池櫓台の石垣
先日、虎ノ門からアメリカ大使館へ向かう途中の外堀通りにあった石垣です。外堀通りとは名前通り、江戸城の外堀があったところです。
虎ノ門付近には名前の通り、虎御門がありました。この虎御門につながる溜池露台の石垣がビルの一角に残っていました。大坂城の総構の遺構はなくなってしまいましたが、江戸城は街のいろいろなところに石垣や見附(枡形の城門)などが残っていて楽しめますねえ。

芝浜の舞台

芝浜
田町にある「西郷南洲・勝海舟会見の地という碑」のすぐそばにあったのが御穂鹿嶋神社という小さな神社。御穂神社と鹿嶋神社を合祀して御穂鹿嶋神社となったそうです。境内入口に橘右近という名前が入った碑がありました。碑をよく見ると「芝浜囃子の碑」とあります。
芝浜って、まさか古典落語の芝浜?
■芝浜とは
古典落語の芝浜は人情話で有名です。浜で大金を拾った亭主が儲かったといって帰ってきました。女房は大金で身を持ち崩したらダメだと、いい気になって酒を飲んで寝込んでいる間に大金は夢の話にしてしまいます。亭主は心をいれかえて熱心に働き、店をもつまでになります。そして女房が薄情するのですが、これが泣かせます。先代円楽の芝浜もよかったですね。
当時は、田町駅のあたりまで海だったんですねえ。そうか芝浜はここだったんだあ。

おまわりさんの語源となった新徴組

薩摩藩邸
先日、打合せで田町へ行った時、田町駅のすぐ見つけたのが西郷南洲・勝海舟会見の地という碑。
田町駅のすぐ近くに薩摩藩邸の蔵屋敷があったんですね。すぐ近くにあったのが上屋敷で、徳川幕府滅亡の原因となった薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたところです。上屋敷は焼けてしまったので会見は蔵屋敷で行われたんですね。
■テロを起こした薩摩藩
徳川慶喜についてはいろいろと評価がありますが、なかなかの戦略家で薩長の先手先手をうつので、西郷隆盛などは困りはてます。そこで起こしたのが浪士による放火、掠奪、暴行。つまりテロで、これで江戸の治安を陥れます。逃げこむ先は薩摩藩邸で、つまり挑発です。
治安維持にあたっていたのが江戸市中取締にあたっていた庄内藩預かりの新徴組。新選組は京都に残った近藤勇や土方歳三が作りましたが、京都から江戸にもどって作ったのが新徴組。あまり知られていませんが先日、NHKが新徴組をテーマにした「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」というドラマをやっていました。
■おまわりさんの語源は新徴組
警察官のことを”おまわりさん”と言いますが、新徴組が江戸市中を見回ることから”御回りさん”と庶民に呼ばれるようになります。薩摩には手を出すなとお達しがありましたが、治安維持にあたっていた新徴組はついにキレテ、薩摩藩焼き討ちとなります。これが薩摩の思惑通りに戊辰戦争への道筋をつけることになります。そうか、薩摩藩邸は田町にあったんだあ。

3年の短命だった恭仁京

恭仁京
先日、笠置山城へ登ったついでに加茂駅で降りて恭仁京跡へ行ってきました。駅から木津川を超え、高台に大極殿跡があります。三方が山に囲まれて南側は木津川が流れていますので、守りやすい要害の地になります。
恭仁京は藤原広嗣の乱が起きた後、聖武天皇が平城京から遷都した都です。ところが都づくりをしている最中に一山超えた紫香楽宮に移り、次に難波京、最終的には、もとの平城京へとめまぐるしく変わります。なぜ遷都を繰り返したのか古代史不思議の一つになっています。国分寺国分尼寺造立の詔は、この恭仁京で出されました。
造られた大極殿は、その後、山城国分寺が建てられた時に、そのまま金堂として利用されることになります。隣に七重の塔が建てられます。写真は、この塔の礎石になります。

桑名商工会議所・会員交流会

ゆめはまちゃん
昨夜は桑名商工会議所の会員交流会。
第1部で10社のPRがあり、PRが終わってからのコメントを頼まれていたので出席しました。コメンテーターは4名でしたが、うち1名は自身もPRするという面白い構成になっていました。さすがに自分でPRして、コメントするわけにはいきませんので、そのコメントはこちらにまわってきました。
なかなか華やかなイベントで、ウチも東大阪商工会議所会員なんですが、こんな交流会をやってくれないかなあ。第2部は会場後ろに20社ほどの展示ブースが設けられていて、展示ブースの見学会。
第3部は交流会ですが、乾杯前に、津軽三味線の生演奏。杉山大裕という23歳の奏者で、なかなかのイケメン。競技会でも優勝しており、優勝した曲の演奏もありました。桑名のユルキャラ「ゆめはまちゃん」によるPPAPもありました。
さすがに桑名から帰る間に、酔いはすっかり醒めてしまいます。

一番長命な大阪城天守閣

大阪城
大阪府よろず支援拠点の帰りは森ノ宮駅まで歩いています。なんてたってライトアップされた大阪城が見えるのが一番!写真は徳川時代から残った一番櫓です。
豊臣時代の大坂城は土の下に埋没していますが天守閣は1583年頃から造られはじめ、大坂夏の陣で燃えてしまいましたので、建っていたのは32年ほどです。
秀忠によって造られた徳川時代の大坂城は現代の大阪城ですが、1629年に完成し、天守閣は落雷によって1665年に焼失してしまいます。ですので天守閣が建っていたのは36年ほど。
現在の天守閣は昭和6年(1931年)に建てられて、現在まで続いていますので86年になります。つまり豊臣大坂城、徳川大坂城よりも一番長命な天守閣となります。

土田御前のお墓(四天王寺)

土田御前
”津に信長のお母さんの墓があるの”という声があったので、三重県産業支援センターすぐ横の四天王寺に行ってきました。津藩・藤堂家の菩提寺です。ここに土田御前(信長のお母さん)の墓があります。土田御前の子供は信長、信行、秀孝、信包、市、犬といわれています。
織田信行は信秀からつけられた家老・林秀貞、柴田勝家と共に信長に反逆し、土田御前のとりなしで許しをえましたが、再度の反逆で信長に討たれました。本能寺の変のあとは孫になる織田信雄のもとにいましたが、この時は清州城にいたのでしょう。やがて、織田信雄と徳川家康が組んで小牧・長久手の戦いが起き、織田信雄は秀吉と和睦。小田原攻めの後に家康が関東に移され、空いた三河・遠江に尾張から移るようにいわれたのを拒否。これで改易されてしまいました。
居場所がなくなった土田御前はこの時に信長の弟である信包(三十郎)のところへやってきたのでしょう。信包は織田信長の伊勢攻めで中勢地域の名家・長野工藤家に養子にはいることで乗っ取った人物で、当時は津城にいました。土田御前は津で亡くなり、四天王寺に墓ができることになります。

商売繁盛で笹もってこい!

額田戎
今日から3日間、十日戎です。
独立して15年、なんとか生活できておりますので、感謝をこめて近くの額田戎神社へ。華やかに飾り付けられ、ふだんは誰もいない神社前にベビーカステラと甘栗の屋台まで出ていました。
額田戎神社は去年の暮に社殿を建替えておりましたので、新しい社殿での初十日戎になります。十日戎のお参りは、まず正面でお参りしてから裏にまわって額田戎の場合は木の板をたたいて再度、お願いをします。今宮戎はドラになっています。新しい社殿になっても裏側の木の板はちゃんとついていました。
境内には”商売繁盛で笹もってこい”と音楽が鳴り響いています。さあ、今年もがんばろうっと!

三重銀行と第三銀行との統合

若宮商工稲荷神社
マイドーム大阪にある大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
さっそく隣の大阪商工会議所にある若宮商工稲荷神社へ初詣。もともとは大阪商工会議所初代会頭である五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」が祖の一つになっています。大阪の商工業者にとってはありがたい神社です。
さて三重県関係者にとってニュースが飛び込んできました。三重県の地銀といえば百五銀行、三重銀行、第三銀行の三行がありますが、まあ百五銀行は規模などで別格です。
去年、第三銀行の知り合いに、”そのうち三重銀行とくっつかないといけなくなるかも”と冗談で言っていたんですがあ、”ありゃまあ!”本当に統合するんですねえ。
第三銀行は松阪本店から東紀州(熊野や和歌山)、大阪(ウチの近くの東大阪にも店舗があります)にかけて店舗があり、三重銀行は四日市本店で北勢に店舗があるので、重なり合うところも中勢が中心でうまく調整できれば統合するメリットは確かにあります。二行と取引している中小企業にとっては取引銀行が一つ減るので、銀行対策が必要です。