上狛にあるのが松尾神社。小高い丘を登ったところにあります。
■山城国一揆の舞台
この松尾神社が山城国一揆の舞台となりました。一揆と聞くと年貢減免のため百姓一揆するイメージがありますが、中世では荘園領主の政治力や軍事力に対抗するために国人(武士)や百姓が結束して対抗したことをいい、いわば共和国です。スターウォーズみたいですな~あ。
織田信長が伊賀に攻め込んだ天正伊賀の乱は織田信長と伊賀惣国一揆との戦いでした。加賀では守護を倒して本願寺門徒が国を治めていましたが、これが加賀一向一揆です。こちらも織田信長に攻められました。こうなると織田信長は帝国軍ですねえ。
南山城(京都の南部)では守護大名畠山氏に対抗するために山城国一揆が成立します。国中掟法が制定され、「三十六人衆」と呼ばれる国人衆によって政治が行われることになります。まさに共和国で、この国人の一人が狛氏でした。一揆に参加した国人達が結盟を行った場所がこの松尾神社と伝承されています。
内部対立もあり8年間の自治のあと山城国一揆は崩壊しました。
■かって関西電子共和国(VRK)がありました。
1995年4月1日に本当に建国されたのが関西電子共和国。ただしインターネットのなかでの壮大な社会実験でした。
当時、友人との間で
「今晩、飲みにいかない?」
「ごめん、今日は共和国の会議があるんだ。」
という“ジェダイの騎士”のような会話が行われていました。
こちらの共和国もなくなってしまいましたが、顛末について知りたい方は
→ 「バグは本当に虫だった」(ペンコム)をぜひ、どうぞ、第4章です!
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高麗(こま)寺跡
狛城があった上狛環濠集落から少し離れたところに高麗(こま)寺跡があります。木津川(泉河)を見下ろす高台にあります。
この高麗寺は、飛鳥時代に創建された最古の寺院跡の一つで、日本書紀、日本霊異記などの文献にも登場します。金堂が西、塔が東に建ち、周りを回廊により囲まれた法起寺式伽藍配置になっていました。近年、白鳳時代(680年頃)に築かれた築地塀が出土しています。高麗寺跡へ行くと、ちょうど史跡公園として整備しており塔跡などは工事中でした。
高麗寺は高句麗からの渡来氏族・狛(高麗)氏の氏寺でした。狛氏は南北朝の戦い、応仁の乱を生き抜き、山城国一揆によって惣国と呼ばれる一種の共和国ができた時の有力国人の一人でした。やがて南山城は織田信長、秀吉の天下統一に巻き込まれていきます。
■高句麗からたくさんの亡命者
狛氏の出自である高句麗というと韓国ドラマによく登場する国ですね。百済、新羅、倭が登場する好太王碑でも有名です。唐との戦いで高句麗が滅亡した時は王族をはじめとするたくさんの亡命者が来日しました。
現在の難民を受け入れるヨーロッパのような状況で武蔵国には高麗郡が設置され、狛江市など全国に高句麗に関係する地名が残っています。高句麗だけでなく武蔵国には新羅郡、摂津国には百済郡などもできました。
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大文字送り火の火床
如意岳城から銀閣寺に向かって山道を降りる途中に五山送り火の火床があります。いわゆる「大」の部分です。
そうそう京都人の前で”大文字焼き”と言ってはいけません。「京都には”大文字焼き”なんて言葉は、あらしまへん」とバカにされます。言うなら”大文字の送り火”です。
遠くから見ると、きれいな「大」ですが近くで見るとコンクリートの火床が点々と続いているだけの代物。この火床の上に薪を井桁に組んで8月16日に点火します。
50年ぐらい前、京都のバカな学生達が送り火の前日から山に入って隠れて待機し、「大」の点灯と共に束にした懐中電灯をつけ「犬」にしてしまったという事件が起きます。学生たちはこっぴどく叱られて京都新聞に犬文字事件が掲載されたそうです。「夜は短し歩けよ乙女」ではありませんが、京都は学生を阿呆にする不思議な街でもあります。
長谷寺 二本の杉
高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。
初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。
長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。
長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。
薬師寺
深井の土塔
中小企業診断士の研究会であるファイティング・コンサルタンツ研究会。根城にしている株式会社セレソヴィーがM&Aで堺東から深井に移転したことで、深井の新事務所で初会合。
深井駅を降りると駅前に”史跡土塔”の文字を発見。調べると10年ほど前に創建当時の姿に復元整備されたとニュースで見た土塔でした。”そうか深井にあったんだあ!”というわけでメンバー全員で急遽、土塔見学に。
土塔は東大寺建立などに関わった堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したものです。約60,000枚もの瓦を使った十三重の塔で、奈良の高畑町にはよく似た頭塔があり、こちらも奈良時代のものです。
研究会が終わってからは深井駅近くの情熱ホルモンで飲み会。研究会と同じ時間だけ飲んでおりました。
商売繁盛で笹もってこい
はたよ食堂(湯浅)
先週金曜日、夜のセミナーまで、どっか喫茶店に入って時間をつぶそうと思ったら、どこにも喫茶店がない!
しょうがないので早い目にご飯でも食べようと思って町を歩いていると湯浅駅近くで赤暖簾(はたよ食堂)を発見。しらす丼とかメニューが出ていたので中に入ると客は誰もいません。しらす丼やオデンを食べながら店主と話をしていました。もちろんセミナー前なのでお酒は厳禁です。赤暖簾で酒を我慢するほど体に悪いことはありません。
■外部環境の変化
(1)一番の打撃が道路交通法の改正による飲酒運転の厳罰化で客足がとまる
(2)高速道路が周参見まで伸びたため釣り客が周参見まで行くようになり釣り客が立ち寄らなくなった
(3)湯浅駅の隣に広川ビーチ駅ができ、駐車場代がほぼタダなので湯浅駅の通勤客が減り店への立ち寄りも減った
なかなか経営が大変なんですが、地元の大学生が勝手にFacebookページを立ち上げ、書き込みを見て観光客が寄ってくれるようになったそうです。またFacebookページを見たテレビ局から取材の連絡がはいり、吉田類がやってきて「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBS)にも登場。今度は番組を見た観光客が寄ってくれるという循環になっているそうです。
セミナー前になかなか面白い話を聞けましたが、一杯飲みたかったな~あ。
もう一つの湯浅城
紀伊国屋文左衛門の出身地、村人たちに津波の危険を知らせるため稲の束に火をつけた”稲むらの火”で有名な湯浅です。大和ハウス工業のCMでは湯浅町の古い街並みが出てきます。
この湯浅の町を見下ろすところにあるのが湯浅宗重が築いた湯浅城ですが、その横にもう一つの湯浅城が建っています。それが湯浅温泉 湯浅城で、以前は国民宿舎だったようです。湯浅城は戦国時代なんで山城なんですが、こちらは江戸時代の近代城郭スタイルになっていて日帰り温泉と宿泊ができます。
離れたところに二の丸温泉というのもあり、以前は同じ経営だったのが、どうも別れたようです。
湯浅では全国の湯浅姓が集まって親睦を深める「湯浅ふるさと会」という催しがあるそうで、催しの際は近代城郭風の湯浅城に泊まるんですかねえ。山城の方の湯浅城・登城記録に湯浅という名前も書かれていました。なんせ自分のルーツの場所ですからねえ。