オシャレな茶屋町

mbs
昨日は大阪府よろず支援拠点の出張相談で茶屋町にある銀行さんへ行っておりました。
茶屋町は阪急梅田駅の東北方面にあり、オシャレな一角です。もともとは、大阪から池田へ向かう池田街道筋にいくつかのお茶屋があったところから知名となりました。明治時代には9階建ての凌雲閣が建てられ、今のハルカスのように賑わいます。ミナミには眺望閣があり、”南の5階”に対して”北の9階”と呼ばれていました。
茶屋町って、昔は特になにもなかったのですが、今は梅田ロフト、茶屋町アプローズなどができ、オシャレな街に変貌しています。毎日放送(MBS)が茶屋町アプローズの横にあり、関西では月~金に午後2時から6時まで「ちちんぷいぷい」というゆるい番組をやっており、時たま見ております。
茶屋町はオシャレな街なので、何の用事もないのですが、一角にMARUZEN&ジュンク堂書店があり、7階建の大型書店で珍しい本まで置いてあるので、ここだけは行っています。帰りは阪急古書の街にも寄れますので本好きには最適ですね。紀伊國屋書店はいつも混雑しているので、最近は行っていないなあ。

家康の墓がある南宗寺(堺)

南宗寺
大河ドラマ「真田丸」、塙団右衛門、木村重成、後藤又兵衛が討死してしまいました。いよいよ最終回は家康本陣への突入です。
堺に南宗寺(なんしゅうじ)という古刹があります。信長よりも前に天下統一をはたした三好長慶が父の菩提をともらうために建立しました。三好長慶の父は三好元長で、細川晴元の重臣でした。ところが元長の力を恐れた細川晴元らが扇動した一向一揆によって殺されてしまいます。三好一族ゆかりの南宗寺は大坂夏の陣で焼失しましたが、現在地に移転して再建されます。
■家康の墓がある南宗寺
南宗寺には有名な家康の墓があります。なんでも大坂夏の陣でカゴで逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれ、堺まで落ち延びたが、カゴを開けると家康は死んでおり、遺骸を南宗寺に隠したという伝説です。後藤又兵衛は道明寺の合戦で死んでいますので、与太話にちかいのですが、ひょっとするとカゴに乗った家康の影武者が真田軍に殺された可能性があります。
本能寺の変の後、家康が伊賀を命からがら逃避行(神君伊賀越え)しますが、いろいろなルートの話が現地に残っており、敵を攪乱するために家康に見せかけるため地蔵をカゴに乗せて運んだ話が残っています。真田から逃げる時もこの手を使ったかもしれません。

黒門市場で忘年会

黒門市場
恒例のファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。今年も日本橋・黒門市場の寿司・寿恵廣です。研究会といいながら最近は研究も何もせず九度山へ行ったり、いきなり酒を飲んだりという会になっています。
黒門市場といえば大阪の台所で昔はおせちの材料やカニ、フグなどを売っていましたが、今はインバウンドですね。カニやフグも店頭で焼いて、すぐ食べられる形になっています。大トロのパックを5,000円ぐらいで売っていて、皆さん買って食べていて、なんともうらやましい。聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語で時たま日本語の会話があります。
さて13時に寿恵廣に集合。5年ほど見なかった古いメンバーも集合して、8名で宴会。ブリしゃぶかあ始まって、結局は17時まで延々と食べて飲んでおりました。おいしかった!

額田、喜里川は松平容保の知行地だった!

額田駅
我が家の隣町が額田と喜里川で、枚岡神社の秋郷祭ではそれぞれ町から太鼓台が出ます。
先日、額田の歴史を調べていたら豊臣時代は長束次郎兵衛が奉行としておさめていて、徳川時代は代官でしたが、幕末の慶応2年に松平容保の知行地になっていました。
松平容保!!
って、あの会津藩の松平容保!
そうです、新撰組の生みの親の松平容保です。
幕末の京都は勤王浪士のテロで治安は最悪でしたので、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられます。しかし京都を守るためには金が要ります、そこでその賄いの知行地として喜里川村と額田村があてられました。
しかも、金だけでなく会津藩の人足が各村に割り当てられたので、それぞれの村から、費用村持ちで、京都に詰めなければならなくなったそうです。東大阪の我が家の一角も幕末の動乱に巻き込まれていたんですねえ。

蛤御門

蛤御門
昨日、京都まで行ったので久しぶりに蛤御門を見てきました。地下鉄・丸太町駅を上がると、すぐ御所ですので、少し歩いたところに蛤御門があります。
幕末に禁門の変(蛤御門の変)が起きたところです。政変で京都を追放された長州藩が、御所の会津藩、薩摩藩を攻めた事件ですが、結局、長州は負けてしまい、朝敵となってしまいます。松下村塾の久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司邸で自害。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られます。大河ドラマ「花燃ゆ」では東出昌大が久坂玄瑞、鈴木伸之が寺島忠三郎、要潤が入江九一役でした。
蛤御門の周辺が長州との激戦地となり、門柱には弾痕が残っています。結局、京都市街も焼けてしまい、”どんどん焼け”と呼ばれています。京都人が”先の戦”というと太平洋戦争ではなく、蛤御門の変と答える逸話が生まれることになります。
主戦派だった真木和泉は敗残兵と共に天王山で戦いましたが敗退し、自害します。JR山崎駅から秀吉が造った山崎城へ登る途中に「十七烈士の墓」があります。

織田有楽斎の近くにいた片桐且元

茨木
織田有楽斎の領地だった摂津・味舌を通っていたのが亀岡街道。亀岡街道は、大阪から北摂を経由して丹波の亀岡に向かう街道です。亀岡街道は味舌から5kmほど北に行った茨木城の近くも通っていました。
織田有楽斎が味舌を領していた頃の茨木城・城主は片桐且元と弟の片桐貞隆です。方広寺鐘銘事件の処理などで大坂方から疑われ、結局、徳川方についたあの片桐且元です。
片桐且元、織田有楽斎ともに大坂城につめていたので領地では会わなかったかもしれませんが、けっこう近接した場所でした。茨木城から京都寄りにある高槻城は大坂の陣の頃、徳川氏の直轄地になっており、大坂の陣で高槻城は補給基地となります。南の兵站基地は堺で、こちらは大坂方に焼きうちされます。

摂津の織田有楽斎

摂津市
大阪府よろず支援拠点の出張相談で摂津商工会へ。写真は阪急摂津市駅から商工会へ続く遊歩道で小川が流れています。
摂津商工会は摂津市にありますが、摂津といえば昔の国名で摂津国です。現在の大阪府と神戸などを含む兵庫県の東側が摂津国でした。よくこんな国名を市の名前につけましたねえ。他の市からクレームはでなかったんですかねえ。まあ三重と言えば伊勢の国ですが、伊勢市とつけたりする事例もあることはあります。
昔から要衝の地で、摂津市商工会から少し行った味舌(ました)をおさめていたのが織田有楽斎です。大河ドラマ「真田丸」では井上順が演じています。豊臣秀吉の時代、現在の摂津市の味舌で2千石を知行していました。関ヶ原の合戦では東軍で戦い、大和国山辺郡に恩賞として2万7千石を加増され、味舌とあわせて3万石を領し大名となります。真田丸に出ている今はこの3万石時代です。
織田有楽斎はお茶を千利休に学び、利休十哲の一人です。津にある真宗高田派・専修寺の庭に茶席「安楽庵」があり、伏見城から移築されたと言われていますが、茶席の名前は、千利休の長男・ 道安と有楽斎から命名されています。織田有楽斎が江戸に構えた屋敷跡が明治時代になって有楽町となって現在に続いています。

塩浜

塩浜
三重県よろず支援拠点の出張相談でAMIC(高度部材イノベーションセンター)へ。
AMICの最寄駅は塩浜駅になります。全国各地に塩浜という地名がありますが、塩浜の地名があったところは昔、塩田がありました。塩浜には揚浜式・入浜式の2種類があります。
■入浜式とは
揚浜式は海から汲んで来た海水を塩田に丹念にまいていく方式で、けっこう重労働。入浜式は潮の満ち引きを利用して海水を自動的に浜に引き入れます。楽なんですが浜に堤防(プール)を作る設備投資が必要で資本がいります。
二見町にある伊勢神宮の塩田は入浜式になっています。入浜式は遠浅の干潟があるような海岸で、潮の干満があうという条件が整わないと難しいですが瀬戸内海が条件にあっていました。なかでも赤穂の塩は最高級品で赤穂の討ち入りの原因の一つではないかと言われています。
塩は生活物資なので戦国時代には甲斐の武田信玄を苦しめるために経済封鎖が行われました。

上田秋成も訪れた河澄家

河澄家
足立氏館跡の近くにあるのが旧河澄家。2年ほど前から家屋や枯山水庭園が一般公開されています。東大阪の市政便りに載っていたのですが、ようやく行きました。
河澄家は南北朝時代にさかのぼり、江戸時代は日下村の庄屋をつとめていました。主屋敷の横に棲鶴楼という名前の書院造りの建物があり、ここから庭を眺めることができ文芸サロンになっていました。
怪異小説「雨月物語」で有名な上田秋成はよく日下村を訪れており、「山霧記」「鳴鶴園記」などの作品を残しています。この棲鶴楼にも立ち寄っています。
河澄家の場所は東大阪市日下町7丁目で、近くには安岡正篤の旧宅もあります。安岡正篤って言っても今の若い人には知られていないでしょうね。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理の指南役だった人です。そうそう「平成」の名付け親が安岡正篤というのはガセネタのようですね。

中之島図書館

中之島図書館
仕事が終わってから中之島図書館へ。
調べたい業界があったのでビジネス支援サービスへ行くと、いろいろと本やデータベースを調べてもらえました。こりゃありがたいと、せっせとコピーしておりました。ビジネス系に調べものをするのに中之島図書館はとっても便利ですよ。
■野口孫一
3階で「中之島図書館と野口孫一の建築術」(無料)という展示をしていました。中之島図書館には中心にドームがあり、古代ローマのパンテオンのようですが、これを設計したのが野口孫一。
欧米では知の殿堂に後期ルネサンス様式を採用していますが、もともとがパンテオンがモデルなので、重厚な建物になるんですね。展示は11月末までです。日中、中之島図書館へ来るのは本が目的の人は半分で、重厚な建物を見に来る観光客が半分といったところです。
帰りに大阪コーナーをのぞくと、「幻の高安城」の記録本が2冊あり、ひたすら読んでいました。(笑)