平城京跡にできた大極殿のすぐ北にあるのが平城天皇陵。「へいじょう」ではなく「へいぜい」です。
平安遷都した桓武天皇の息子で桓武天皇の後に即位しました。嵯峨天皇に皇位を譲って上皇となると、平城上皇は旧都である平城京に移り住みます。平城天皇は亡くなってからの追号で、平城京好きだったことからつけられました。
平城天皇陵は長い間、円墳と考えられていましたが実は前方後円墳。平城京を造る時に都のエリアに入る前方部をぶっ壊したことが判明します。続日本紀の和銅二年(709)の記事に古墳の話が出てきます。平城京の造営を管轄していた役所に対して、元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」という勅令を出したそうです。
平城京造営にあたっては、いくつかの古墳が破壊されたようで、現在の都市開発とこういったところは変わりませんなあ。さて平城天皇陵ですが、円墳ではなく前方後円墳でした。前方後円墳は欽明天皇陵あたりで終わっていますので時代があわず、平城天皇陵に葬られているのは平城天皇じゃなさそうです。
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造酒司(平城京)
平城京跡では今も発掘が続いていますが建物が、どの役所だったかを判明するのは至難の業。そんななか断定できるのが造酒司で、酒造りをしていた役所です。霞が関のど真ん中に造り酒屋があるようなもので、いいですね~え。さすがに立ち飲みはできなかったでしょうね。
甕につけられた木簡などが見つかり造酒司と確定されました。なかには清酒という木簡もありますが、当時は今のような清酒はありませんのでドブロクの上澄みをすくったものでしょう。写真は造酒司で見つかった井戸跡です。
清酒は江戸時代となり酒造業をしていた鴻池の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたと言われています。
そうそう奈良には菩提もと造りがあります。平安時代頃に奈良菩提山・正暦寺で醸造された菩提泉というお酒がありました。この酒母が菩提もとで、これを復活し奈良の造り酒屋では、菩提もと造りとしてお酒を造っています。
地下の正倉院展
地下の正倉院展へ出かけてきました。
今年、平城京跡出土木簡が国宝に指定されたそうで、平城京跡資料館では「地下の正倉院展」として11/26(日)まで3期に分けて展示されています。
会場入口にあったのが下ツ道の溝から見つかった長い棒に書かれた木簡。平城京の朱雀大路はもともと飛鳥時代にあった下ツ道を拡張したもので下ツ道の溝から藤原京時代の木簡が発見されています。早い話がゴミです。
内容は手形(パスポート)で近江国蒲生郡で田作人(農業)をしていた伊刀古麻呂、大宅女の2人が藤原京へ戻る際に発給されたものです。かなり大きな木簡で40cm近くあります。行先は左京小治町で、どうも飛鳥の雷丘付近のようで、藤原京の一部です。近江から山城国を超えて大和へ入り、当時は平城京はありませんでしたが関所があったのでしょう。最後の関所を超えたので大きな木簡は邪魔と溝に捨てたと思われます。
正倉院展 糞置村
昔の地形を道が覚えていた津堂山城古墳
近鉄・藤井寺駅の北で大和川近くにあるのが津堂城山古墳。城山という名前がついているように室町時代は三好氏が城として使っていました。近辺にある恵我ノ荘駅近くの大塚山古墳も城として使われていました。
本当の継体天皇陵といわれている高槻の今城塚古墳も堀と思われるような窪みなどがあり城跡と考えられていましたが、発掘調査の結果、伏見大地震によって墳丘が地すべりによる崩壊で城ではなかったことが判明しています。
津堂城山古墳は前方後円墳として認識されていましたが、考古学者の末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長)が戦後、空から古墳を観察する新しい研究方法を考案します。航空写真をよく見ると道路が変な風に曲がっていることが判明。外側にも濠があったようで発掘してみると濠跡を発見。結局、二重の濠をもつ巨大な前方後円墳だったことが判明します。古市古墳群では応神天皇陵の次に大きいことが分かりました。
住宅地が外濠にあわせて建てられ昔の地形を道や住宅が覚えており、今もその痕跡をGoogleマップで見ることができます。
岩屋
太子町のすぐ東にあるのが大和と河内の境にある二上山。”にじょうざん”とも読みますが、昔は”ふたかみやま”と呼んでいました。二上山は雄岳と雌岳の2つの山頂からなっており、駱駝のコブのような形になっています。
大和の東側、大神神社の近くにある檜原神社(元伊勢)から見ると春分と秋分の日に夕日がこのコブの間に沈むのを見ることができます。二上山には非業の死を遂げた大津皇子の墓があることでも有名です。
二上山の南を通るのが竹内街道で日本最古の官道です。推古天皇の時代に隋からの使節団を迎え入れるために整備されたと考えられていて、オリンピックで道路を作るのと同じですね。現在は国道166号が走っていて飛鳥時代からの道が今も使われています。ただ車が多く、あまり情緒を感じられません。そんな時は竹内峠ではなく、少し北の岩屋峠にハイキングコースがあり、こちらがおすすめ。ここには奈良時代に作られた大陸風の石窟寺院「岩屋」があり、国の史跡に指定されています。
和を以て貴しとなす
太子町のマンホールをよく見ると「和を以て貴しとなす」と書かれています。ご存知、十七条憲法の第一条です。今回の選挙の争点に憲法改正が話題にあがっていました。
十七条憲法は「篤く三宝を敬へ」など、法律というより役人の心構えが中心に書かれています。当時は他に法律がなかったようですので十七条憲法が最高法規となります。
やがて律(刑法)と令(行政法など律以外)が制定され、律令時代となります。鎌倉時代になると公家は律令にしばられますが、武士用ではなかったので御成敗式目が制定されます。戦国時代の分国法(今川仮名目録など大河ドラマ・井伊直虎に出てきました)も、この御成敗式目が基本となっています。もっとも戦国時代、法はあっても自力救済(権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)の世界でした。ですので映画「七人の侍」が描かれました。あの映画のテーマは自力救済です。
江戸幕府になると武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定され、明治となり大日本帝国憲法ができ、昭和の日本国憲法へとつながっていきます。
日出ずる処の天子 小野妹子墓
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや
第二回遣隋使で聖徳太子が小野妹子に持参させた国書の冒頭部分。天子という言葉に隋の煬帝が怒ったと伝わっています。ただ当時の国際情勢から倭国と敵対するわけにもいかず、煬帝の家臣である裴世清が小野妹子の帰還に伴って返書を持ち派遣されます。住吉津に着き、大道を通って飛鳥京へ戻りました。
翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと共に再び隋に派遣されます。ウーン、日本史で習った人物ばかりですねえ。(笑)
なぜか太子町に小野妹子の墓があります。蘇我氏の一族と連なっていたんですかねえ。小野妹子は華道の家元である池坊の始祖にあたり、墓は池坊が管理しています。それはいいのですが、墓は長い階段の上にあり太子町が一望できます。山城には最適な場所なんですが、城の遺構はないですね。
ほんまかいな?蘇我馬子の墓
聖徳太子のお墓がある叡福寺から少し行った住宅街に石塔が建っています。これが地元では蘇我馬子墓と伝わっています。最近のGoogleマップはすごいですね。きちんと表示されます。
定説では石舞台古墳が蘇我馬子の墓ではないかと言われています。この石舞台古墳のすぐ近くにある都塚古墳が近年、階段ピラミッドの墓だったと分かり、これが蘇我稲目の墓ではと言われています。蘇我稲目は馬子の父親で仏教伝来の時に大連の物部尾輿と争った人物です。仏教公伝、日本史で覚えましたねえ。蘇我氏の墓は本来、飛鳥にありますので、なんで太子町に蘇我馬子の墓が伝わっているのでしょうか。
太子町にある磯長谷は、大和川の支流である石川流域にあります。蘇我氏の祖は石川宿禰(いしかわのすくね)と言われ、この一帯が蘇我氏の最初の本拠地との一つと考えられています。大化の改新では蘇我倉山田石川麻呂が登場し、蘇我氏はもとの石川を名乗るようになります。そんな土地だからこそ、聖徳太子と二人三脚で歩んだ蘇我馬子の墓のいわれができたのでしょう。
推古天皇陵じゃない推古天皇陵
用明天皇陵、聖徳太子のお墓ときたので次は推古天皇陵。同じ太子町にあります。推古天皇といえば日本で初めての女帝で第33代の天皇。用明天皇の妹にあたり、甥の聖徳太子が摂政を努めました。
推古天皇は聖徳太子や蘇我馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺が建立されます。また難波京から飛鳥まで大道(幅19m)を整備し、冠位十二階、十七条憲法が制定され、小野妹子が隋に派遣されます。激動する海外情勢に対応するため日本という国家が大いに整備された時代でした。
推古天皇は75歳で小墾田宮で亡くなりますが、若くして亡くなった息子の竹田王子と一緒に葬ってほしいということから合葬されました。これが橿原市にある植山古墳のようですが、改葬され、現在の推古天皇陵になりました。
どうも二つの石室があったので宮内庁が推古陵と比定したようですが、「?」のようです。地元ではすぐ近くにある二子塚古墳こそが本当の合葬陵であるとする言い伝えがあります。本当のところは誰の陵か分かりりませんが、高台にあり近辺が一望できる眺めがよいところです。